誰よりも、おまえを……(中編)

誰よりも、おまえを……(前編)の続き

正月やイベント(かつての婚約会見)にしか見ない出で立ちで、女は走ってきた。

猪突猛進……まっすぐ、一目散に、男を目指す。脇目も振らず、その瞬足は見事に活かされていた。

「なんです?その格好は……」

悠理を見留めた清四郎の第一声。彼は本屋から丁度帰宅したところだった。

手には大きな紙袋が一つ。予約していた推理小説だ。

息せき切って駆けてくる悠理の必死な表情を見て、ただ事ではないと確信するも、艶やかな着物姿に視線が奪われる。

「せ……せいしろ………!」

数歩離れたところからの大ジャンプ。

彼女は清四郎の胸に勢いよく飛び込んだ。

マラソン選手がゴールを切ったかのように、精根尽き果てている。

もちろん体力ではない。

龍炎の呪縛から逃れられたという安堵感によるものだ。

「今度はどんなトラブルに……」

そう聞こうとして、悠理が半泣きであることに気付く。よく泣く女ではあるが、今は幽霊に怯えている雰囲気ではない。

「なにがあった?」

清四郎は眉を潜め、声を落とした。

そして……

悠理の話を簡潔にきいた男は、深く深呼吸したあと、

「たわけっっ!!」

と声を荒げた。

それは本気の声量で。馬鹿な友人への叱咤は三軒先まで聞こえたかもしれない。

「そ、そんなに……怒らなくてもいいだろぉ……どーせあたいは馬鹿だい!」

零す涙を着物の袖で拭おうとする女の腕を掴み、清四郎は自分のハンカチを押し付けた。

どんな状況であれ、紳士的に振る舞う……野梨子の側で過ごしてきた男に身についた習慣だ。

「…………とりあえず、体は無事なんですね?」

上から下まで舐めるように見た後、着物に着崩れが見られなかったことに安堵する。

だが……相手はヤクザ。

それもかなり周到で油断ならない相手だ。見知らぬ女を見初め、拉致するなんてことは朝飯前だろう。

「く、首……舐められたけど……それだけ……」

細く白い首を指さす悠理に再びため息が零れる。いくら喧嘩が強いとはいえ、この無警戒な行動は戒めなければならないだろう。

友人として………

男として……

「とにかく……雨が降りそうだ。家に入りますよ。」

「うん!」

 

 

夜ということもあり、菊正宗家の中は静かだった。父も姉も帰りは遅い。母親は母屋の端っこで寝ている時間だ。お手伝いさんも帰っている。

清四郎は悠理を客間につれていくと、来客用のシンプルな浴衣を与えた。

「ほら……着替えなさい。」

「………一人じゃ無理。」

「………箱入りめ。」

清四郎の手は何の躊躇いもなく帯へと伸びる。

立派な帯……軽く車が買える値段だろう。

振り袖に至っては、さすがに予想がつかない。

ヤクザが一目惚れ?

悠理に?

癖のある男だと容易に想像できる。

このワンパク娘を気に入るのだから……相当な……。

 

丁寧に帯を解き、次に振袖をはがす。

華奢な肩が小刻みに震えているのは、怒り?それとも恐怖?

その時、清四郎は悠理の首筋をまじまじと見つめた。赤い……ちょうど小指の先ほどの跡がくっきり残っている。

それはこの女に欲情したという明らかな証拠だった。

瞬間………清四郎の奥歯がギリッと鳴る。

知能も性格も問題のある、まだ子供のような女に興奮しただと?

とはいえ、目の前にある首筋やうなじは美しく、女性特有の柔らかなラインを描いている。

細い腰、長い手足。

汗に濡れた遅れ髪……。

いくら太陽に焼けても……彼女の肌はきめ細やかで、光を帯びている。

「せいしろ?」

まだか?という面持ちで振り返った悠理を、清四郎はじっと見つめた。

その顔は……十分に美しく、整っている。

涙の跡さえ、艶めかしいほどに。

 

「おまえは………」

「な、なんだよ?」

「女です。」

「は?んなこと知ってらい!」

「本当に?知っていますか?」

瞬間、悠理の視界がぐるりと反転した。

清四郎の顔ではなく、天井が視線の先にある。

畳に静かに倒されたと気づいたのは、数瞬後……。

彼にとっては、あくびとおなじくらい簡単なことだ。

 

「な、なに……すんだよ……」

驚いたとて、悠理がいきり立つことはなかった。男の目はいつになく熱を帯びていて、静かな怒りさえ見受けられる。

けれど怖くない。

相手は清四郎だから。

「簡単ですよ。おまえを犯すことなど……。男はそういう風に出来ているんです。」

「………お、犯すって……なに……?」

お菓子なら分かるけど……と言いたかったが、ここは茶化す場面でないと、さすがに気付く。

「………知らないふりをするんですか?こんな跡を付けられているくせに?」

長い指が悠理の首をそっと撫でれば、その感触に身を震わせてしまう女の反応に、清四郎の腹がじわりと熱くなっていく。

止めることは出来た。

ただ止めたくなかった。

「跡?………あっ!あいつ……噛み付いてきたから……それで……」

動かぬ証拠を突きつけられたかのように、清四郎の目がカッと見開く。

愚かな女だ……と思いながらも、その愚かな女に教え込んでやりたいという欲求が益々高まってくる。

ストッパーが効かない……

自分らしくないと思いながらも、清四郎は悠理の顎へと手を伸ばし、強引に視線を奪った。悠理の両腕を纏めて頭上で拘束し、じわり距離を詰めていく。

「隙があり過ぎますよ、おまえは。事実、こんな風に抑えつけられたら逃げられないでしょう?」

「それはっ…………おまえだから………」

「僕だから?」

顔を赤くして横を向こうとする小さな顔は、やはり清四郎の大きな手で固定されている。

逃げ場のないシチュエーションに、悠理は混乱のまま口を開いた。

「そうだよ!おまえだから大人しくしてんじゃん!他の男なら死に物狂いで逃げるわい!」

「キスマークをつけられて、何が逃げるだっ!指一本触れさせるんじゃない!」

何かがおかしい────

悠理は恐ろしい形相の友人を見上げ、彼の言わんとすることを探ろうとした。

清四郎は怒っている。

明確に。

でも何故?

確かに自分は浅はかな行動をしたと思う。

友人として心配してくれる気持ちもわかる。

 

だがこれは───

 

もしかすると………

 

「清四郎……おまえ………」

「……………なんです?」

「あたいのこと………好きなのか?」

その言葉を聞いた清四郎は反射的に身を起こした。まるで宇宙の神秘に触れたかのような表情で……

「何を……僕はただ…………」

取り繕うことすら無意味に思える状況。

清四郎は己の口を掌で覆い、目を泳がせた。

───僕が悠理を好き、だと?

信じたくない結論だが、言われてみればこの行動の起因はそこにあるのかもしれない。

ただの友人の枠を越えて、悠理に触れてしまった。

そして彼女に触れる男を想像すれば、頭が煮え滾るようで、今すぐ相手の首をへし折りたくなる。

白い襦袢姿の悠理を、その男は今夜手に入れようとしたことだろう。ヤクザ特有の強引なやり方で……身も心もぼろぼろになるまで。

「…………独占欲、か。はたまた……」

恋を知らない清四郎は、不安そうに見上げる彼女の頬へそっと指を添えた。

どちらにせよ……譲れないと思ってしまった。他の誰にも、渡したくないと、触れさせたくないと。

「おまえは……どう思ってるんだ?」

自分の心に整理をつけぬまま、清四郎は尋ねた。

「あたい?………あたいは、たぶん……おまえのことが………」

清四郎を目指して必死に駆けた。

他の誰でもないこの男だけを。

心より体が動いていたのだ。

菊正宗清四郎の腕に飛び込みたいと。

しどろもどろながらも、想いを伝えようと言葉を選ぶ悠理。

「わかんないけど………あたいはおまえしか……清四郎のことしか、頭に浮かばなかった。」

息を呑む男の目に、光が宿る。

「………くそ。完敗だな。」

再び悠理の顎を捉えた清四郎は、息遣いを感じるほど近くまで顔を寄せた。

「悠理。」

「はい!」

圧倒される雰囲気に、悠理は思わず背筋を伸ばし、答える。

「僕のモノになると決めたなら………他の男にこの肌を……体を許すな。わかりましたか?」

「……はい。」

「フラフラと知らない男について行かないこと。」

「はい。」

「あと………」

少し沈黙した後、清四郎は軽く頭を振り、覚悟を決めたように口を開いた。

「愛の告白なんて、僕らしくないが………」

「あ、あい…!?」

「おまえを特別に想っている。……他の誰よりも。」

それは「好き」や「愛してる」よりもずっと、悠理の感情を揺さぶるセリフだった。

近付く唇はきれいに結ばれている。

覚悟したように、悠理は目蓋を閉じた。

初めてのキスは、冷たい唇がしっかり温まるまで続けられ、いつしか清四郎の腕の中で、身も心も蕩けていた。

ヤクザに襲われそうになった恐怖を塗り替える安堵感。此処が自分の居場所だと確信できる。

「あたい……馬鹿だけど、何が正解かは知ってるじょ。」

「おや……そうですか?」

悠理を抱きしめ、清四郎は問う。

外では雨が強く降り出していた。

けれど今は互いの声だけが耳元に優しく届く。

「清四郎だけが……あたいに触れていい男だって……知ってる。」

頬を染めながら、そんな愛らしい告白をする悠理に勝てるはずもない。男はそっと耳打ちし、突き動かされた欲望を点火した。

「なら、僕の寝室に………来ますか?」

長い夜が始まる────