誰よりも、おまえを……(前編)

雨音が、格子戸の外で静かに響いている。

​その日、街の路地裏でチンピラたちを蹴散らしていた悠理。
その荒っぽい所作と、ふとした瞬間に見せる華やかな光と笑顔に龍炎は激しく心を奪われた。
橘 ​龍炎は、冷徹なインテリヤクザとして巷で知られている。
魅録に聞けば、すぐにその鋭い眼光を光らせるであろう、やり手。
東京だけでなく、香港、台湾、シンガポールの裏社会でもシノギを削っていた。
彼には多くの舎弟がいて、都内で歯向かう者は居ないとまで言われている。

今、彼はその大きな体躯で、背後から悠理を逃げ場のないよう抱きしめていた。
なぜこうなったのか………


チンピラとの乱闘を見終えたあと、龍炎は彼女を飲みに誘った。
拍手しながら、優雅に歩み寄る。
怖いもの知らずな悠理もさすがに躊躇したが、何でも美味いものを食わせてやると言われ、ホイホイと付いていったところ、彼の息が掛かった料亭で、今、二人きりの状態に陥っている。
足りないオツムのせいでもあるが、今までもっと怖い経験をしてきた彼女にとって、大した事態ではない。
いつでも逃げられる……そう楽観視していた。

しかし………どこからともなく現れた仲居たちが、唖然としたままの悠理を着飾らせ、化粧を施した。相手は敵意がないため、蹴り飛ばす事もできない。
彼女たちが用意した着物、それは野梨子すら目を瞠るほどの豪華な友禅だった。

​「………離せよ。」

不機嫌を顕にし、悠理は吐き捨てる。
勝ち気な瞳には警戒と不満が入り混じっていて
、身に纏った高価な着物の感触が、今の彼女の心境とは裏腹にこの上なく不快だった。

ここから逃げ出す算段に頭を巡らせるも、相手はプロである。
そう簡単にうまく行かないだろう。

「逃げるな………。この着物も、この場所も、すべてお前のために用意したんだ。」

​龍炎の声は、低く甘い響きを帯びていた。
眼鏡の奥の瞳が、鏡台に映る悠理の横顔をじっと見つめている。

美少年と言っても過言ではないユニセクシャルな顔立ち。
勝ち気な瞳も、生命の輝きを感じる。
彼は、路地裏で彼女が一人、敵をねじ伏せていたあの強さを思い出し、欲望と情愛が混ざり合うような吐息を漏らした。

「どこから見てもいい女だ。贅沢はさせてやる……なんでも言え。」

剣菱の令嬢にそんな台詞は効果がない。
彼は知らないのだ。
悠理がどれほどの待遇の中、生きているかを。

「あたいとあんたじゃ……話になんない。帰る。」

奥歯を噛み締め、そう断言する。
​悠理の日常にあるのは、ふざけた仲間達との刺激ある冒険である。
龍炎の腕にある入れ墨を見れば、それは自分の世界との境界線のように感じた。

​「……あんたが考えるような安っぽい女じゃない。離せよ。」

​「安っぽいなんて思っちゃいない。おまえほどの女は見たことがないからな。俺はおまえを……独占したい。良いから……言うことを聞け。乱暴にしたくないんだ。」

​龍炎は、悠理の肩にそっと顔を寄せ、髪の匂いを吸い込んだ。

瞬間、鋭い悪寒が走る。
咄嗟に逃げようとしたが、彼の腕は全力で悠理を抱きしめている。

​「好きな男がいるのか?そいつは………俺ほどの執着を持っているのか?」

​拒絶するたび強くなる龍炎の支配的な抱擁に、悠理は歯を食いしばる。

​「なにが独占したいだっ!!あんたは何も分かってない!!離せよ!」

​そう叫び声をあげた悠理に、龍炎の目は細められ、なんの躊躇もなく彼女の首筋をペロリと舐めた。

「ひっ………!」

男にそんなことをされたことはない。
このままでは、本当に取り返しのつかないことになる。
いよいよ本格的に焦りだした悠理。
柱時計の音すら、命を削るような焦燥に聞こえた。

​龍炎の執着はもはや甘美な檻だった。
力強い腕。
時折香る大人びた香水。
彼の興奮した吐息。
悠理はその隙を縫うようにして、いかに男の手を振り払うかばかりを考えていた。

​「………あたいを怒らせんなよ。」

「怒らせたいわけじゃない。諦めさせて俺のものにしたいだけだ。」

​龍炎は眼鏡の奥の瞳を細め、冷たく微笑んだ。
話が通じない相手に、絶望を味わう悠理。
彼にとっての『所有』は絶対だった。
今までもこれからも……。

心を無視し、手折ろうとするその強引さに、悠理は全身の毛を逆立てるような拒絶感を覚える。

​「わぁった………とにかく腹減ったから、飯食わせてくれよ。」

「ああ、そうだったな。約束通り………」

​一瞬、龍炎の腕が緩む。

そんな隙を悠理が見逃すはずはない。
強引に身を捩ると、見事な瞬発力で男から離れ、座敷の格子障子を蹴破った。
そして着物の裾が乱れるのも構わず、彼女は一気に廊下へと駆け出し、一目散に玄関を目指した。

背後から「逃げられると思っているのか?」と、昏く低い声が届くも、悠理はこのチャンスを逃がすわけには行かない。

​(早く、早く………清四郎のところへ……!)

​雨の気配が漂う夜道を、悠理はただひたすらに駆けた。足元は足袋だったが、そんなことは気にならない。裾を捲り上げ、襦袢を見せながら駆ける女はさぞかし異様だったろう。

途中、龍炎の部下たちが立ちふさがったが、かつてチンピラをなぎ倒した時のように、悠理は苛立ち任せの鋭い蹴りを放ち、強引に突破する。
今は​清四郎だけが目的地であった。
こんなにも必死にあの男を求めたことはないほどに、早く会いたかった。

 

続く……