東京の街が夕暮れの帳に包まれ始めた頃。
重厚な雰囲気を残す役員の執務室に、柔らかな光が差し込んでいた。
オーク材の壁一面に並んだ書籍、アンティークな地球儀、そして静かに燃える暖炉の炎。
この落ち着いた空間に、一つの不協和音が響いたのは、重い扉が何の予兆もなく開けられた瞬間だった。
ガチャ!
「お疲れー!」
明るく通った声と共に現れた妻、悠理の姿。
美しく輝くショートヘアは重力を感じさせず、ターコイズブルーのドレスの上に羽織った黒のロングコートはいつになくシックな装いだ。
パソコンを閉じようとしていた清四郎は、顔を上げた瞬間、職務中の硬質な表情を和らげ、眉を緩めた。
彼が愛する妻の姿を見る表情は、まるで少年のように無防備で、嬉しそうに細められた目元には深い愛情が溢れている。
彼はすぐさま立ち上がり、悠理の元へ歩み寄ると、自然な動作で彼女を抱き寄せた。
「もう準備ができたんですか?………いいコーディネートですね。よく似合ってる。」
いつもより心なしか頬を紅潮させる悠理は、清四郎を見上げ、呟く。
「だって……記念日だし……」
彼女の言う通り、今日はプロポーズ記念日だ。
子犬のような期待に満ちた眼差しに、清四郎の心はほぐれ、彼の手は自然と悠理の腰を引き寄せていた。
自分も同じだ、と伝えるかのように。
清四郎は愛おしそうに目を細めると、そっと悠理の額に自身の唇を寄せた。
その優しい温もりに、悠理は心地よさそうに目を閉じて彼の胸元にさらに体を預ける。
「素敵な夜にしましょう。」
低く甘やかな声が、静かな執務室に溶けていく。
清四郎はデスクの端に置かれていた携帯電話を手に取り、名残惜しそうに彼女の腰を支えていた腕をゆっくりと解いた。
だが、彼が離れるより早く、悠理はスッと右手を伸ばし、彼のジャケットの袖をキュッと掴んだ。
まるで「まだ離れたくない」と主張するかのように、潤んだ瞳がじっと彼を見上げる。
「……今夜は、ただのディナーだけじゃなくてさ……」
少しだけ言いにくそうに、しかし期待に胸を膨らませたその表情に、清四郎は思わず声を漏らして笑った。
抗いがたい愛らしさに負けた夫は、再び妻を引き寄せ、その耳元に唇を寄せる。

「僕がただのディナーで終わらせると思いますか?………もちろん部屋は用意しています。特別な、ね。」
片目を瞑り、囁く夫。
悠理の頬がバラ色に染まる。
彼女は照れ隠しのようにふっと笑うと、「スケベ」と小さく呟いた。
窓の外では、東京の夜空が濃紺の闇へと変わり、街の明かりが星屑のように瞬き始める。二人は互いの体温を感じ合いながら、深く見つめ合った。
「さ、行きましょうか。僕たちの記念日を祝いに……」
清四郎が差し出した手に、悠理が迷いなく自分の手を重ねる。
コートの裾を優雅に揺らしながら、二人は重厚な扉を開け、甘い余韻を残したまま静寂の執務室を後にした。