忘れられない女(6)

波紋のような光を振り撒くシャンデリア。

パーティは佳境を迎えていた。

悠理は当然のように入場し、招待客の中から恋人をさがす。

剣菱の令嬢には全ての特権があり、系列外のホテルの支配人ですら、安易にノーということは出来ないのだ。

人々の喧騒を横目に​歩いていると、ひんやりと心地よい夜風がテラスから流れてくる。

悠理はチラッとそちらを見遣り足を止めた。

清四郎の低い声を嗅ぎつけたからだ。

一人、いや……もう一人いる。

そこに続いた言葉は、悠理の心臓を氷柱(つらら)で貫くように凍りつかせた。

​「………………もう僕に関わらないでください。貴女は僕にとって、過去の記憶の一部でしかない。」

​それは、清四郎が精一杯の拒絶を込めた、凍てつくような宣告だった。

だが、そこに立ち尽くすもう一つの影、漆黒の髪を夜気に揺らす冴子は、怯むどころか、妖艶な笑みを浮かべていた。

二人のやり取りは悠理の耳にしっかり届く。

彼らが過去に深い関係であったことは知っていても、このような会話を目の当たりにすると、胸が痛み、もどかしさと焦燥感に苛まれた。

​「記憶の一部……そう、私もそうだった。でも忘れられない……忘れるわけがないわ。だって……私も清四郎君が初めてだったから。忘れられるはずがないじゃない!」

​テラスの扉の影に隠れた悠理は、自身の口元を両手で強く押さえ、漏れそうになる悲鳴を、必死に喉の奥へ押し返した。

鼓動が激しく打ち鳴らされる音が、自分自身の耳にも痛いほどに響く。

二人の間に、見えない糸がある。

もしかすると切れることのない絆のような……

とはいえ、​清四郎が彼女を拒んでいるその事実は、悠理の胸に微かな安堵をもたらした。

彼が自分だけを見てくれているという、確かな希望。

けれど……それ以上に深く、どす黒い不快感が胃の腑を締め付ける。

​冴子の瞳に宿る、あの執着という名の猛火。清四郎の拒絶さえも栄養にして成長していくような、底知れぬ狂気。

彼女の手が清四郎の肩を伝い、その背に縋り付く様は、まるで彼を永遠の闇の底へ引きずり込もうとする呪縛のようだった。

​「…………清四郎。」

​唇が震え、声にならない名前がこぼれ落ちる。

簡単に譲れる相手ではない。

悠理にとって初めての恋、初めての愛だ。

こんな自分を受け入れてくれるのは清四郎しか居ないと確信している。

そして悠理にとっても……清四郎の背中は人生に必要なものだった。

冴子の執念に怯えながら、悠理は、安堵と恐怖の狭間で、ただ呆然と立ち尽くしていた。

パーティの喧騒が遠い世界の出来事のように感じられる中、目の前で繰り広げられる男女のやり取りから、一瞬たりとも目を逸らすことができなかった。

冴子から逃れるようにして、清四郎がテラスの陰から抜け出した。

そして悠理は女の声を聞く。

「大丈夫。まだ……始まったばかりだから。」

悠理とて負けるわけには行かない。

邪魔者はこの手で排除すれば良いだけ。

今までも

これからも……

それなのに、清四郎を知る知的な女が、何故か怖くて仕方なかった。

─────────

その瞳に悠理の姿が映った瞬間、清四郎の張り詰めていた表情が雪解けのように崩れる。

​「悠理……迎えに来てくれたんですね……。」

​その言葉には安堵と、愛しい人への切実な飢えが混じっていた。悠理もまた、駆け寄る足取りを止めることはできなかった。

二人は周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、ホテルのロビーの中央で強く抱きしめ合う。清四郎の胸に顔を埋め、彼の温もりを確かめるように背中に腕を回した。

清四郎もまた、彼女の体を慈しむようにしっかりと抱き返す。先ほどまでの、あの凍てつくような冷気と冴子の纏わりつくような執着が、嘘であったかのように思えるほどの密着。

​「うん、会いたかったから迎えに来たんだ。はやく、かえろ……?」

​悠理の掠れた囁きに、清四郎は彼女の髪にそっと額を押し当て、力強く頷いた。

​ロビーの高級感あふれる大理石の石床に、シャンデリアの柔らかな光が二人を照らす。

濃密な安らぎの中にありながら、悠理の心は、どこか遠くでまだ冴子の「始まったばかり」という言葉が響いているような、拭い切れない不安の残滓を感じ取っていた。

​けれど、今はこの腕の中にある確かな鼓動だけを信じていたかった。

清四郎もまた同じ気持ちであるかのように、彼女を抱く腕に一段と力を込める。

 

世界に二人だけでいい……

そんな陳腐な感情が、間違いなくこの二人の胸には宿っていたのだ。

パーティー会場の喧騒から遠く離れた中庭で、清四郎は足を止め、悠理と向かい合っていた。彼の瞳には迷いのない真剣な色が宿っている。

​「悠理、話を聞いてほしい。」

一刻も早く帰ろうとする悠理を呼び止め​た清四郎の低い声が夜風に溶ける。彼は、今となっては過去のしがらみである冴子と、今後一切の距離を置く決意を告げた。

それは悠理という「現在」を守るための、誠実な決断だった。

​「あ、あったりまえだろ!!二度と二人きりになんなよ!」

叫ぶ​悠理の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは怒りではなく、安堵と喜びが混ざり合った熱い滴だった。

​「おまえは……あたいだけのもんだ!」

​震える声でそう宣言すると、悠理は迷うことなく清四郎の胸に飛び込んだ。

​清四郎は優しく彼女を抱きしめ、悠理の髪にそっと触れながら、確かな愛を伝えるように、力を込める。

それでも………

「あたい……おまえがあの女を抱いてるとこ想像したらおかしくなる……!腹が立って、悔しくて……なんであたいが初めてじゃなかったんだろうって……!!あんな胸もデカくて美人で、頭も良いなんてズルいよ……。勝てないよ……」

何故自分がこんな思いをしなくてはならないのか……

冴子から告げられた言葉が反芻する。

全ては悠理自身の問題。

自信がないからだ。

果たして自分は本当に清四郎の横に立てる人間なのか………不安だからだ。

 

対する清四郎はそんな悠理の心情が痛いほど理解できた。

自分もそうだった。

果たして悠理の人生に寄り添って生きていける男か、不安だった。

だがそれよりも彼女を他の男に奪われたくない。共に高みを目指したい。

そう願ったから今がある。

交際期間は短いが、二人の心は一つと信じられる。これからもずっと……お互いしか居ないと確信している。

ほかの誰も割り込むことはできない。

だからこそ……悠理を求めた。

早急に………自分のものにしたかった。

学生だろうと関係ない。自身の判断に間違いはないと……清四郎は固く信じているのだ。

「悠理………」

ぐしぐしと泣きじゃくる恋人の頭頂部に顎を乗せ、清四郎は告げる。

「僕はね……おまえに憧れているんです。」

「あ、あこがれ……?」

「ええ……ずっとね。憧れて、焦がれて、自分にないものをお前に見つけて……それで、気付いたらそれは…………恋だった。」

「恋………」

鼻を啜りながら、悠理は清四郎を見つめた。

まるで初めて聞いた言葉かのように……。

「初めて恋をしたのがおまえだった。もしかすると……ずっと昔から、それこそ出会った頃からずっと……」

この上ない優しさを湛えた瞳が細められる。清四郎こそ泣きそうな顔だ、と悠理は感じた。

「あたいが……おまえの初めての恋……?」

「そう……そして最後の恋でもあります。」

「最後………」

「ええ……僕は初恋を実らせ、愛にまで育て上げたい。一生……おまえを愛し尽くし、守り抜きたい。わかりますか?」

悠理の瞼が何度も上下する。

それは清四郎の心からの声。

心からの望みだった。

「わかりますか?…………これはプロポーズです。」

プロポーズ───

脳内でポップコーンが弾ける音が響く。

悠理はわななく唇を噛み締め、そして開いた。

「あたいで……いいんだな?返品不可だぞ?」

「おまえこそ、僕でいいんですね?クーリングオフは受け付けませんよ。」

「い、いいよ!!女に二言無しだっ!」

強く抱き合う二人は、もはや無敵だった。

想いは育ち、いつかは見事な花を咲かせるだろう。

それは大輪の向日葵のように……。

 

清四郎の唇は悠理の耳へ触れ、「泊まっていきましょうか……」と囁いた。

断る理由などない悠理は小さく頷くと、「空いてるかな?」と、らしからぬ問いかけをした。

 

もちろん、剣菱財閥の令嬢に不可能はない。

二人は貴賓しか泊まれぬ最上級スイートへと案内され、滅多に見ることがないシャンパンまで届けられた。

そのシャンパンが開けられることは、とうとうなかったけれど………。