残り香の行方

「おっかえりー!」

 

​寝室の扉が開いた瞬間、悠理はいつものように清四郎を迎え入れた。

今日は母親に買ってもらったばかりのシルクのアンダーウェア。

新婚なのだから、少しは色気を付けてさっさと子どもを作ってちょうだい!というのが母、百合子の言い分(命令)だ。

若夫婦はまだ25歳という年齢のため、そこまで子を欲してはいない。

流れに身を任せ、出来たら出来たで特に困ることはないといった考えを互いに持っていた。

こればかりは神のみぞ知る、である。

 

「ただいま……はぁ……疲れましたよ。」

 

かちっと整えられたオールバッグの髪型はそう簡単に崩れはしない。

外の世界で戦う彼のスタイルに、隙が見えないのはいつものことだ。

 

しかし、ハイブランドのコート(それも特注品)を脱いだその一瞬の隙間、悠理の鼻腔をかすかな、だが主張の強いフローラルの香りが通り過ぎた。

​妻の美しい瞳がスッと細くなる。

それは清四郎の選ぶ香水ではない。

彼が身につける香りは、もっと大人っぽく、控えめなものだ。

 

​「……おい、清四郎。」

​悠理は獲物を狙う鋭い眼光で彼を見上げた。そして逃げ場を塞ぐように、その胸元にあるイタリア製のネクタイを指先でグイと引き寄せる。このネクタイは悠理が買い与えたもの。小さく自分の名前が刺繍されている。

まるでペットに与える首輪のように。

 

​「この匂い、何?」

​「……何のことです?」

​清四郎は疲れた表情のまま、悠理の傍若無人な問いかけに困惑の色を浮かべた。

しかし悠理は許さない。彼のジャケットの襟元に顔を近づけ、クンクンと執拗に嗅ぎ分ける。

視力も嗅覚も人並み外れている彼女にとって、言い逃れなど到底無意味だ。

​「とぼけんな。明らかに女の匂いだろ?誰? 今日、誰といたんだ?」

​「ああ……なるほど。接待ですよ。多くの人間と接触しているので、そんな細かいことまで気にしていたら、仕事になりません。」

​清四郎はため息をつき、手を伸ばして悠理の手首を掴んだ。

その力は強く、けれど決して拒絶ではない。

​「ふーん。仕事ねえ。うち(剣菱)の経営陣ともなれば、そんな甘い香りを纏った相手とも『仕事』をしなきゃいけないんだ。……それとも、あえてその香りを持ち帰った?」

​「無茶を言うな。僕が悠理以外の誰かに興味を持つわけがないことなど、誰よりもおまえが知っているだろう?」

​清四郎の低く響く声には、疲労の中に隠しきれない独占欲が滲んでいた。

悠理は、彼が自分を突き放すのではなく、逆に追い詰めようとしていることに気づき、唇の端をニヤリと歪めた。

​「ふん……じゃあ、この女の匂い、あたいが全部消していいんだな?」

​悠理は彼のネクタイをさらに強く引き寄せ、夫の背中を壁へと押しやった。

されるがままの清四郎の目に火が灯る。

​「……いい度胸だ。」

​喉の奥から、低く掠れた笑い声が漏れる。

壁に押し付けられたまま、夫は悠理の手を払うどころか、その腰を片手で強引に引き寄せた。彼女が自分を支配しようとしているその強気な態度が、いとも簡単に理性を削り取っていく。

疲れなど一瞬で消え去り、今は可愛らしい挑発に乗ることだけに意識が囚われる。

​「その嫉妬、最後まで付き合ってあげましょう。」

​清四郎は悠理の耳元に顔を寄せ、わざと温かい息を吹きかけた。

風呂上がりの柔らかな身体がビクリと震える。

悠理がお気に入りのボディソープはバリ島でしか手にはいらない花のもの。

優しく、甘く、清四郎の心を和ませる香り。

とはいえ、今は狩りの最中だ。

嫉妬深い妻をどうやって組み敷こうか、そんな不埓な考えに全集中である。

色気ある声と、耳元への刺激。

またたく間に熱い吐息へと塗り替えられていく悠理。

​「ほら、消したいんでしょう?だが、 他の誰かの匂いなんて、残っているはずがない。」

​彼は悠理の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。

​「っ……!清四郎……」

「僕の身体には……おまえの匂いしか残っていませんよ……」

​悠理は強がっていた言葉を失い、彼の手の中でいとも簡単に蕩けてしまう。

清四郎は妻の髪を優しく、しかし離さないように絡め取りながら、先ほどとは打って変わって、あふれる愛を注ぐように彼女を見つめた。

​「仕事でどれだけ消耗しても、帰る場所がおまえがいるここだと分かれば、それ以外の余計なものなど、とっくに消え失せます。……それでも足りないというなら、今夜は朝まで、お前だけのものだと証明し続けてやりましょう。」

そう言って軽々と悠理を抱き上げると、そのまま巨大なベッドへと足を向けた。

​「………ちぇ、口では勝てないじょ。」

​悠理は清四郎の首に腕を回し、顔を赤くしてその逞しい胸に隠す。

(虫(女)除けスプレー買わなきゃな……)

こうして可愛らしい嫉妬で始まった夜は、朝日が昇るまで、互いの香りを濃くしていった。