貴公子は恋を知らない(眠り姫は僕のものⅡ)
正面玄関から続く長い銀杏並木。
キラキラと輝く黄金の葉は、ふかふかの絨毯を作り始めていた。
聖プレジデント学園大学部に通う学生達は、皆ここを通り抜け、学び舎へと向かう。
広大な敷地には四季折々の花木が植えられ、彼らの目を歓ばせてくれる。
特に秋という季節は美しい。
ハラハラと落ちゆく黄色いポプラに加え、燃えるような紅葉はミセス・エールも好むもの。
イギリスにも四季はあれど、真っ赤に色付く木々は圧倒的に少ない。
その上、冬が長い為、紅葉を楽しむ時間は短いのだ。
そんな枝葉から漏れる光の下で、 フランスの貴公子、‘アンリ・フランシス・オーベルニュ’は金髪を秋風になびかせ、佇んでいた。
彼が待つ人物はただ一人。
日本有数の大財閥、剣菱家令嬢、悠理である。
彼女もハタチを迎え、今まさにお年頃。
つい最近、誰よりも頼りにしてきた仲間、菊正宗清四郎と交際を始めたところである。
清四郎が自分の気持ちに気付く切っ掛けとなったのは、この‘アンリ’の行動によるもの。
眠り姫を目覚めさせる王子さながら、キスしようとしたその現場を目撃し、言いようのない怒りに戸惑い、彼女への執着に気付いたのだ。
その後の清四郎は行動が早い。
即断即決。
衝動的に悠理を手に入れようとした。
というか、がっつり手を出した。
焦りと苛立ちは理性的な思考を極端に動かす。
独占欲は瞬く間に膨らみ、心赴くままに唇を奪い、そして………………
二人は絶妙なタイミングで両想いとなったのだ。
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あれから一ヶ月半が経つ。
無自覚だった恋は電光石火の如く燃え広がり、彼自身戸惑うほど、清四郎は変わった。
悠理から目が離せないのだ。 それは今までとは違う意味で。
特に、せっせとアプローチを続けるこの邪魔者が何をしでかすか解らない為、彼は片時も側を離れたがらない。
おかげでアンリは苦戦を強いられている。
大学内で最も注目されるビッグカップル。
そこへ横恋慕する貴公子の存在は、ある意味異様とも言えた。
─── 一体、剣菱悠理にどんな魅力が!?
万人が抱く疑問である。
二人の良い男から想われる彼女を、羨望の眼差しで見つめる多くの女学生達の中には妬みのあまり、有りもしない噂を流す輩も居た。
とある日の学内新聞では『剣菱家ご令嬢!二股か!?男を弄ぶ魔性の女!』 と大々的に報じられ、それを目にした清四郎の眉は吊り上がり、こめかみには血管が浮き出てしまった。
決して怒らせて良い相手ではない。
無論、その記事を書いた人物、そしてネタを提供した女は然るべき処分をされ、今後もし同じ様な醜聞が取り沙汰された場合、全ての責任を負うとの誓いを立てさせられた。
清四郎は執念深く、その手段に容赦はない。
恐らくは大学から追い出すことも考えている。
新聞部の存続はもはや風前の灯火だった。
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留学生でもある‘アンリ’の人気は日々うなぎ登りであったが、悠理に興味を持つ彼を強引に振り向かせるだけの女性は、未だ現れていなかった。
可憐は「あたしの魅力に気付かない男なんて、お呼びじゃないわ!」と、早々に戦線離脱。
だがその実、アンリの事はとても気に入っていて、問題は彼女のプライドの高さによるもの。
眼中にない男をどう振り向かせるべきか?
必要以上に媚びることを良しとしない可憐は、アプローチも出来ぬままギリギリと歯噛みしていた。
女の魅力で悠理よりも劣るとは思いたくない。
いくら清四郎が惚れ込んでいたとしても、だ。
二人が交際を始めたことで、仲間達は多少のぎこちなさを感じていた。
だが、アンリを厭わしく思う清四郎が、あまりにも『らしからぬ』行動に出る為、興味が勝った4人は結局いつものように振る舞う。
恋に溺れる男は見ていて面白い。
ライバルは、美童に引けを取らぬほどハンサムで、金も地位も、ましてや権力すらある。
白馬の王子に多くのおまけがついて来た、といった感じだ。
誰もが見惚れるほど、アンリは整った容姿をしている。
そんな彼が学内の至る所に顔を出し、悠理へのアピールを欠かさない。
目立つのも当然のことだ。
今や学内に留まらず、いつの間にか万作と交流を深め、剣菱邸にも現れる始末。
気付けば食卓を囲む頻度は、週に三日となっていた。
一体、その情熱はどこから生まれてくるのだろう?
悠理は確かに美人だが、一旦口を開けばとても年頃の令嬢とは思えない粗雑さが垣間見え、あまつさえ知能指数の低さまでもが露呈されてしまう。
真っ直ぐな性格や明るい笑顔は見ていて気持ち良いが、それが彼のような男の心を捕らえるとは、どう考えても信じがたい。
───何かしら、他のメリットがあるのでは?
彼らを見守る全員が同じ疑惑を抱いていた。
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「ユーリ!」
「アンリ…………」
うんざり、といった表情を隠すことはない。
しかしそれは悠理よりも清四郎の方が色濃かった。
「僕とデートしましょう。」
「………あのなぁ。おまえ、夕べもうちに来て、飯食ってただろ?“デートしよう”って連呼しながら。」
「ハイ!」
100点満点の笑顔で頷くアンリ。
普通の女ならば腰が砕けるところである。
「しつこいですなぁ。悠理、魅録に言ってストーカー対策を講じてもらいますか?」
刺々しい返答にいつものオブラートは見当たらない。
【恋人】である自分の目の前で堂々とデートに誘ってくるその無神経さに、清四郎も辟易としている様子だ。
「君達は結婚したわけじゃないだろう?ならユーリ、君も僕という男を知る時間が必要じゃないのかな?」
───なんと自分にとって都合の良い話だ。
呆れる二人に怯まず、アンリは更に攻め寄ってくる。
「何なら同時進行で付き合ってみればいい。僕の素晴らしさが理解出来るまで、ね。」
常軌を逸した発言はむしろ賞賛に値した。
美童だって、これほど厚顔無恥な台詞は吐かないだろう。
無論、彼のプライドが許さないからに過ぎないが。
「あほらし!」
そっぽを向く悠理は清四郎の腕を掴み、先へ進もうとする。
────恋は、そんな簡単なもんじゃない。
痺れるような心の震えと、甘い陶酔感。
目が合うことすらドギマギして、手を繋ぐだけで体温が上がる。
口付けはもう………幸せしか感じない。
その温もりに魅了され、与えられる柔らかさにのめり込んで行く。
心を預けたキスは、厚みある恥じらいを一枚ずつ丁寧に剥ぎ取り、互いの想いを余すことなく伝える手段へと変化する。
二人だから感じる恍惚。
麻薬のように止められない。
「あたいはおまえみたいな男と、一瞬でも付き合いたくないね!」
「何故?」
「だって、気持ち良くなさそうだから。」
「……………え?」
一瞬にして固まる空気。
様々な妄想が二人の男を惑わす。
しかし悠理は気にすることなく、先を続けた。
「清四郎となら、あたい、指と指が触れるだけでも気持ちいいもん。手を繋ぐのも楽しいし、見つめ合ったらドキドキして幸せな気分になる。でもアンリと目が合ってもそんな感じにはなんないだろ?」
「!!」
驚いたのはアンリだけではない。
目を瞠った清四郎は、恋人の顔をまじまじと見つめた。
自信に満ちたその表情を。
「…………悠理。」
「それに、さ。相手の良いとこ探そうとするんじゃなくて、たとえどんなヤツでもいつの間にか好きになってる。それが……恋、なんじゃないの?」
的を射た発言は清四郎を感動の渦に巻き込む。
悠理の本能的な部分が、こと恋愛にも発揮されていると分かり、嬉しくて仕方ないのだ。
しかしアンリは思案げに口元を覆う。
────思ったより簡単ではないな。
女性に不自由したことのない彼が、悠理のような珍品に目を付けたのはあくまでも偶然。
あのベンチでの一件は、悪戯心が先走った結果だ。
けれどその後、彼女の素性を知った時、アンリは本気で悠理を落とそうと心に決めた。
もちろん、利害が絡むからだ。
たとえ恋人が居ても、自分に靡くのは時間の問題だと思っていたし、この黒髪の男になど負けるはずはない、そう信じていた。
女は皆、アンリのような姿に心揺さぶられる。
家柄も財力も、そして紳士的な立ち振る舞いも。
どこをとっても、彼は極上の部類に入るのだ。
だからこそ、悠理のような女性を振り向かせたくなった。
始めてしまったゲームに敗北するのは、正直プライドが許さない。
この東の国の片隅で、女一人落とせないまま祖国に帰れるはずもないのだ。
「人の心は、変わるものだよ?」
過去の女達はたとえ恋人がいても、アンリがにっこり微笑むだけでその身を預けてきた。
’愛してる’
そんな言葉はもはや、何の価値もないように感じる。
「そりゃ………そういうこともあるけどさ。でもあたいは今、こいつのことしか考えらんないから。あんたがどれだけ迫ってきても無理!いくら父ちゃんの友達でも、しつこ過ぎると蹴飛ばすじょ?」
「むしろ、その美しい脚で蹴飛ばされたいね。」
「なら、足腰が立たなくなるまで、僕がお相手しましょうか?」
「君とは話していない。」
美しい景色を背景に、棘のあるやり取りを続ける三人は、通りがかかる学生達の興味を大いに惹きつけた。
珍百景を見るが如く。
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その後、噂を聞いた「アンリ親衛隊」(推定70人)は、更にヒートアップし、悠理への妬みを増幅させていく。
新聞部はさておき、匿名性の高い学内掲示板は荒れに荒れまくった。
そんな状況を、仲間達は外野よろしく見守っているだけ。
天下無敵の二人を、そう簡単に傷つけられる人間はこの世にいないと分かっているからだ。
「どうせなら、二人同時に付き合っちゃえば?」
可憐は雑誌を捲りながら、面白くなさそうにぼやく。
もはや自分にアンリの間に、可能性はないと理解していた。
「そうだよ。悠理がモテるなんて、この先一生無いかもしれないよ?」
美童の歯に衣着せぬ言葉を聞いても、悠理と清四郎は幸せそうに肩を寄せ合い、互いの世界に没頭している。
胃もたれするほど甘ったるい空気を纏わせ、何か内緒話をしているようだ。
「美童、無駄ですわ。」
「そうそう。馬に蹴られるぜ?」
野梨子と魅録は興味の失せた顔で、首を振る。
賢い彼らは直視することを避け、あるべき姿の日常を上手く維持しているのだ。
美童はやれやれと溜息を吐いた。
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結論として、アンリの妨害?は二人の絆を深めただけ。
一年間の留学生活を終え、傷心を抱えたままフランスに帰るその日、悠理は清四郎に黙って彼を空港まで見送った。
「…………いい経験になったよ。」
「そりゃ良かった。」
「かといって諦めたわけじゃないから。また日本にはやって来るつもりだし。」
「そん時はあたい、多分人妻だと思うけど?」
「…………え?」
ほら、と翳された左手はアンリに強い衝撃を与える。
「まさか…………結婚、するのか。」
「ん。半年後だな。父ちゃんから招待状、届くと思うよ。」
無言で立ち尽くす男を、悠理は真顔で見つめ続ける。
その端正な顔が歪んでゆく様を。
この一年間。
彼はどれだけ蹴り倒されようとも、アプローチを止めなかった。
意地だったのかもしれない。
惰性だったのかもしれない。
だが、アンリは悠理と過ごす他愛ない時間を、確かに好ましく感じ始めていた。
そしてゲームの行く末すら忘れかけていた。
しかし今、ショックを受けている自分に気付き、アンリは動揺を隠せない。
心音が高まる。
身体中を駆け巡る熱い衝動は、抑えようもない。
「いやだ……」
振り絞られた声に、悠理の目が見開く。
「いやだ、いやだ!結婚なんて……まだ早すぎるだろ!」
まるで駄々っ子のような物言いは、周りの目を気にすることなく続けられた。
「アンリ……」
「決着はついていない!」
そう断言した彼が悠理の身体を抱き締めたのは、言葉では言い表せない気持ちを伝える為。
瞼を熱くする感情の迸りに抗おうとはしなかった。
「ユーリ!僕はまだ…………君を諦めたくないんだ!」
その時、アンリは初めて分かった。
これはゲームなどではない、と。
自分は本当に恋に落ちていたのだ、と。
搭乗案内のアナウンスが流れる中、悠理は熱を持つその腕の中から逃げだそうとはしなかった。
それは恋に目覚めた彼へ、最後のプレゼント。
初めての失恋が少しでも和らぐようにと祈りを込め、優しく身を任せた。