トントン
人の寝室を訪れるには少しだけ遅い時間帯。
しかし清四郎は躊躇うことなく、その部屋の扉をノックした。
「悠理、入りますよ。」
剣菱邸の部屋は基本、鍵が付けられていない。
なので締め出される可能性はゼロ。
清四郎はそれを踏まえた上で、敢えて彼女の返事を待たず、中へと踏み入った。
天蓋付きベッドの上。
胡座を掻いた部屋の主が小鼻を膨らませ、そっぽを向いている。
理由は一つ。
清四郎に非があった。
「悠理。」
「……………なんだよ。」
「約束を破って悪かった。どうしても抜けることが出来なかったんだ。」
「ふん!どうせ約束のことなんか忘れてたくせに!」
悠理は思う。
何故こんなにも腹立たしいのか。
たった一度の夕食を反故されただけのこと。
心を通じ合わせたわけでもない、形だけの婚約者。
責める理由など無かったはずなのに。
「そんな風に拗ねないで下さい。胸が痛む。」
「嘘ばっかり!」
「悠理!」
清四郎が駆け寄るのを見越して、悠理はベッドから飛び降りた。
そしてそのまま、青い月明かりが照らすベランダへと逃げる。
「こら!風邪を引きますよ!」
「こっち来んな!自分の部屋に戻れよ!」
聞く耳を持たない悠理を、清四郎の腕が絡め取る。
「言うことを聞きなさい!」
「やだ!!お前の言うことなんか絶対に聞かない!結婚もしない!レディ教育だって………もう二度と受けない。」
「悠理………」
真っ赤な顔で睨み付ける悠理は、聞き分けのない子供のよう。
そんな癇癪玉を爆発させた姿に、蓄積されてきた疲労が、彼の両肩に重くのし掛かる。
吐き出した溜め息は、冷たい空気の中、深く沈んだ。
「どうしても切り上げられなかったんだ。ごめん。」
「ふん!いいよ、別に謝んなくても。そんなに疲れてるんなら家に帰ればいいじゃん!あたいん家のことなんか放っておいていいからさ。」
「そうはいきません。僕には責任がありますから。」
「なんの?」
「おまえの生活を守るという責任です。…………まだ解ってなかったんですか?」
分からない。
分かるはずもない。
清四郎は何も言ってくれないから。
ただ、己の野心の為だけに悠理と婚約したのだと、そう思うしかなかったから。
「あたいの生活なんて………どうでもいいだろ?おまえは剣菱を操りたいだけじゃんか。」
言葉通りには受け取れない。
意地を張る悠理は清四郎の手を振り払った。
「………確かに、男として、こんなにも魅力ある機会を与えられ、心が浮き立たないわけがありません。だが僕はちゃんと、二人の将来も見据えていますよ。裕福な家に生まれついたおまえを全力で守っていかなくてはならない。そういった覚悟もないまま、婚約したつもりはないんだ。」
「清四郎………」
「こう見えて、結構、大事にしてるつもりなんですけどね。それも伝わらない、か。」
勢いの削ぎ落とされた清四郎に自嘲めいた微笑みが浮かぶ。
再び掴まれた腕は冷えた空気の中、とても熱くて、悠理は上目遣いで彼を見つめた。
疲労感漂う顔色。
すだれた前髪がいつもよりも多い。
「清四郎………おまえ、熱あるんじゃないか?」
「え?」
「ほら、手、ぬくいし・・・」
悠理は彼の秀でたおでこに、手のひらを当てた。
だが、その手に伝わるあまりの高熱に、思わず目を瞠る。
「ちょ、すげぇ熱いじゃん!」
「あぁ。この浮遊感はそれが原因ですか。」
「医者の息子のくせに何言ってんだ!やっぱお前らしくないぞ!」
部屋にある内線電話に向かい、慌てて駆け出そうとした悠理を、熱い腕が強く引き留める。
「悠理………」
「なんだよ!五代に言ってとっとと……」
「そんなにも僕と、結婚したくありませんか?」
「はぁ?今はそれどころじゃないだろ?」
しかし悠理の反論は完全にスルーされてしまう。
「僕が目指しているのは、この剣菱を世界一にすることです。それを達成したとき、おまえにはファーストレディのように、僕の隣で華やかに笑っていて欲しい。」
清四郎の告白は続いた。
「確かに多少強引なやり方だと認めます。でも相手がおまえだから、僕はここにいるんですよ。タフなおまえとならどれだけでも高みを目指せる。そう思ったから………婚約したんです。」
「清四郎………」
「一緒に……居てもらえませんか?」
これは、もしかして‘鬼の撹乱’?
体力と精神力の限界を迎えた男の、秘めていた想いが、発熱のせいで不意に溢れ出したのかもしれない。
日頃、クールな彼は滅多に心をさらけ出そうとしない。
なのに今、その瞳は夜目でもわかるほど情熱に揺れ、吐き出す言葉は真実だと感じられた。
━━━囚われる。
悠理はそんな清四郎に心を鷲掴みにされてしまった。
弱々しく懇願される心地良さ。
彼女の怒りがするりと解けてゆく。
「わ、分かった………居るよ。」
「…………ありがとう、悠理。」
そう告げた途端、清四郎はその場にへたり込んだ。
40度近い熱だった。
・
・
・
結局、次の日も熱は下がらず、悠理の寝室で看病されることとなった清四郎。
五代の手配で急遽医者が呼ばれ、適切な処置により微熱にまで落ち着いたのは、その日の深夜遅くだった。
「参ったな………」
天蓋にかかる豪奢なレースを見つめ、清四郎は呟く。
気を張り、自己管理を徹底していたつもりが、このていたらく。
己の失態を見つめ、どうしても落ち込んでしまう。
━━━どこかで緊張が緩んだのだろうか?
清四郎は自己反省の渦の中、身体に残る熱の名残りに身を任せていた。
部屋を明け渡した悠理は清四郎の部屋で過ごしている。
交換した理由は、彼を仕事から離れさせる為であった。
━━━隣は静かだな。
清四郎は朧気な記憶を手繰り寄せる。
あの時。
熱に浮かされた自分は、どうやら悠理に胸の内を語ったらしい。
最初は、約束を破った事を詫びるだけのつもりだったが、思いの外悠理の機嫌が悪く、直ぐに立ち去れなくなってしまった。
言い訳するよりも率直に謝罪しようと覚悟していたのに、目を合わそうともしない悠理を見て、不安がこみ上げる。
近付けば逃げる。
獣のような少女。
いつも、清四郎の思う通りにはならない、予測不能な行動。
だが、ベランダで放たれた彼女の言葉に傷ついたことも確かで…………焦りに任せ、自分でも驚くほど素直な感情を吐露した。
「結局僕は、悠理を離したくないんだな………」
シンプルな答えを見つけ、何故かホッとする清四郎。
額に手を当てれば、悠理の絞ったタオルがすっかり温くなっている。
他人の看病とは無縁な生活を送りながらも、彼女は意外にも献身的に見舞ってくれた。
約束を反故された事で、あんなにも怒っていたはずなのに。
一体どんな心境の変化だろうか。
「良くも悪くも単純明快。僕はあいつのそんなところに……………」
そう。
そんなところに…………‘惹かれてる’。
幼い言動をする彼女を、知恵と力で捩じ伏せたくなるのは男の本能。
初めての出会いから、どんな時でも女を守れる男でありたいと望み、強さを求め、努力し続けてきた。
もちろん、僅かばかりの意地もあったが、それよりも━━━━
「認めてほしかったんだ。」
悠理にだけは認めさせたかった。
どれほど強く、
どれほど逞しく、
どれほど有能な男に成長したかを。
「言いながらも……このザマですがね。」
そんな風に自嘲する彼を見計らったかのように、悠理が部屋の扉を勢いよく開ける。
深夜といえども遠慮がない。
自分の寝室なのだから当然の話だが。
「清四郎!よし、起きてるな。桃、食えるか?」
木製のトレーいっぱいに乗せられた季節外れの桃。
「桃?こんな時期に?」
「うん!山梨の農協に問い合わせたら、冬桃ならあるって言われたんだ。使用人に車で取りに行かせてたから、ちょっと遅くなったけど。」
「僕のためにそんな苦労を?もちろん頂きますよ。」
清四郎が口にしたそれは、普通の桃よりも固く、甘味の少ないものだったが、他のどんな珍しい品種よりも美味しく、そして貴重に感じた。
「とても優しい味をしていて、美味しいですね。」
「良かった。」
ニカッ
心からの笑顔を見せる悠理があまりにも可愛くて、衝動的にその手を引き寄せる。
「な、なに!?」
「ありがとう、悠理。」
「あ…………うん。」
短く切り揃えられた小さな爪に感謝の口づけを落とし微笑むと、悠理の頬が桃のようにほんのりと染まった。
照れ隠しに目を泳がせるが、清四郎は彼女の手を離そうとはしない。
ドキドキドキ……
高鳴る鼓動。
汗に滑る掌。
二人の淡い恋は、こんな切っ掛けから始まった。
・
・
・
それから三日後。
完全に回復した清四郎の前に、人騒がせな夫妻がハワイからようやく帰還する。
何十年ぶりかの結婚式を挙げ、あろうことかハネムーンまで楽しんできたという。
瑞々しいレイの首飾りと、日に焼けた肌。
腕を組み、満面の笑顔を見せるラブラブな両親を見て、娘はげんなりと溜め息を吐く。
清四郎もまた、そんな彼らを苦笑いで出迎えた。
「清四郎ちゃん、貴方、熱で倒れたんですって?もう大丈夫なの?」
「おかげさまで。」
「体には気ぃつけるだよ。これからは清四郎君の時代だがや!立派に剣菱を盛り立ててくれ!」
呑気な両親の発言に、真っ向から噛み付いたのは悠理だった。
「何言ってんだ、父ちゃん!こうやって帰ってきたんだから、父ちゃんが仕事すればいいだろ!清四郎は学校に戻るんだ!」
「そうは言うても………わし、母ちゃんと隠居するつもりで………」
「んな無責任なことすっから、兄ちゃんだって困ってんじゃん!どんだけ大変だったかわかってんのかよ!?」
娘の真剣な憤りに目を丸くする万作。
それでも冷静さを失わない母は、清四郎の顔をそっと見据えた。
「清四郎ちゃんはどう考えてるの?」
━━━━試されているのか?
そう感じてしまう質問に、清四郎は再び苦笑する。
「大変お恥ずかしい話ですが、身に余る仕事量に忙殺され、体調を崩してしまいました。自己管理も含め、僕にはまだまだ学ぶべき事があるようです。なので、悠理の言う通り、一旦学園に戻ります。」
「わしは、おめえならきっと上手くいくと思っとるんだが・・・」
残念がる万作。
しかし百合子は優しく微笑み、将来の息子の意見を聞き入れた。
「あなた。清四郎ちゃんの意思を尊重すべきでしょう?今はしっかりお勉強して、いつか悠理と二人、うちを盛り上げてくれればそれで良いんですから。」
「誠心誠意、頑張らせて頂きます。」
襟を正した清四郎に両親はホクホク顔。
悠理だけは苦みばしった複雑な表情で見つめていたが・・・。
・
・
・
書斎の温度は他の部屋よりも低く感じた。
あれこれ片付け始める清四郎の背中を、悠理の目はつぶさに追い続けている。
「実家いえ、帰んの?」
「そうするつもりです。」
「ふ~ん。」
「おや、寂しいんですか?」
「ち、ちがわい!!」
素直になれない性格はお互い様。
軽口を叩く清四郎はしかし、彼女の隠された不安をきちんと捉えていた。
背中で手を組み、足の指をもじもじさせる悠理。
何か言いたいことがあるらしい。
「あの………さ。」
「ええ。」
「今でもまだ、あたいと結婚したいの?」
「そりゃ………まあ。婚約を解消した覚えはありませんよ。」
「本気、なんだよね?」
窺う目には、そうであって欲しいという願いが見え隠れしている。
そんな悠理の変化が、寂寥に疼く彼の胸を高揚させた。
だが、ここは男としてはっきりさせておかなくてはならない。
片す手を止め、清四郎は悠理の真正面に立つ。
悠理もまた背筋を伸ばし、彼に真っ向から対峙した。
「もちろん本気です。僕は、おまえが…………この上なく好きですから。」
声は震えていたように思う。
それは悠理が初めて耳にする、愛の告白。
自分でもわかるほど顔が紅潮していく。
「今はまだ未熟ですが、必ずおじさん以上の実業家になってみせます。だからいつか、僕の隣に立ってください。」
「せぇしろ……」
「返事はいつでもいいですよ。まだ先は長いですからね。」
そんな台詞は卑怯な自分の一つの逃げ道だったのかもしれない。
本当は今この場で、悠理との確約が欲しかったくせに。
「……いいよ。いつか、な。」
「悠理?」
「あたいたち、まだ高校生だもん。おまえだって他に好きな奴が出来るかもしんないし……気持ちは変わっちゃうかも、だし。」
こんな返事は卑怯かもしれない。
けれど悠理は恋の在り方など分からないのだ。
特に清四郎のような男の気持ちに、どっぷり寄り掛かることは流石に怖い。
「変わりませんよ。それだけは断言できます。」
慌てて否定する己の拙さに、清四郎は嗤った。
「だけど……そうか。のんびりしていたら……悠理にこそ好きな人が出来るのかもしれませんね。」
「え?」
「今のこの遣り取りなど忘れて、誰か他の男に心奪われる可能性があるのか。それはまずいな。」
顎に手を当てながら一人納得する男を、悠理のまん丸に見開いた目が捉えている。
「しかしその時は、覚悟しますよ……僕は………」
「んなわけねーだろ!!」
部屋中に怒号が響き渡る。
突然胸に飛び込んできた悠理に、清四郎は珍しく蹈鞴たたらを踏んだ。
「なんでそんなこと言うんだよ!馬鹿野郎!」
「ゆ、悠理?」
「あたいをそこまで好きなら、’絶対に余所見させない!’くらい言えよ!男らしくないんだよ、おまえは!」
「普段誰よりも偉そうで、威張ってるくせに、なんでこんな大事なこと……ああ!くそっ!」
清四郎は、胸板に顔を擦りつける彼女の、なだらかな肩のラインから目が逸らせない。
「そんな台詞……言っても良いんですか?ずっと、僕だけのもので居ろ……と言っても良いんですね?」
「…………好きなら、それが当たり前なんだろ?」
じんわりとこみ上げる温かな感動。しかし清四郎の腕は、いつになく反応しない。
抱き締めて、
その柔らかさを確かめて、
甘い言葉を吐く彼女を窒息させてやりたい。
気持ちだけが逸る。
「やっぱ…………あたい、おまえに触ったら変になる。」
「え?」
「なんかさ、身体おかしいんだ。あの夜からずっと……」
どの夜?と聞くほど清四郎の頭は悪くない。
あの夜、それは悠理へ、男として初めて触れた夜。
「どう、変なんですか?」
「……い、言わない。」
言えない。
しかし赤面した悠理が全てを物語っている。
「まさか、感じてる?」
詰られるとわかっていても、言葉は口から飛び出してしまう。
「…………変なこと、言うなよ……馬鹿。」
清四郎はようやくその無骨な腕を動かし、悠理を抱き締めた。
激しい心音が彼女の耳に届くよう、ぎゅっと。
「僕に、感じてくれているんですね。」
「だから変なこと言うなってば……」
「変じゃない。それは………」
明らかな欲情。
決して逃さぬよう、強く抱き締めながらも、清四郎は迷っていた。
この先へ進むことが、果たして正しいのかどうかを。
しかし、奇跡的に訪れたこのシチュエーションを逃したくはない。
時は深夜12時。
二人には似つかわしくない甘い雰囲気。
徐々に持ち上がってくる若き欲望を、悠理に思う存分ぶつけたい。
「悠理。」
「ん?」
「我慢しようと思っていたんですが……どうやら難しいようです。」
「え?」
「選んで下さい。ここか、あちらの部屋か。」
「へ?」
「一生、よそ見が出来ないほど、僕色に染めてやりますよ。」
ふわり、抱えられた悠理を待ち受けるは大人への扉。
形ばかりだった婚約が、真実へと変化する奇跡の階段。
その夜、彼らは、二度と離れられない運命を知った。
・
・
・
~おまけ~
それから二年後。
成田国際空港にて。
「あーあ、とうとう行っちゃったわね。寂しくなるわぁ。」
「予定通り、三年で帰ってくるだろ。」
「何も悠理まで行かなくてもいいのにねぇ。」
「少しも離れたくないんでしょう。悠理も可愛い性格になりましたわね。」
「ケンブリッジ……か。清四郎はともかく、悠理にまで入学の許可が出るなんて、まるで奇跡だぜ。」
「袖の下、は通用しませんものね。頑張った甲斐がありましたわ。」
「帰国したら即挙式だな。」
「三年ってすごーく長い気がするけど、大丈夫かしら、あの子達。別れたりしないわよね?」
「この二年間の熱々ぶりを見てただろ?無用の心配さ。」
「あら、清四郎は心配してましたわよ。イギリスで悪い虫がつかないか、って。」
「あ~、確かに色気が出てきたもんねぇ。」
「はは!勉強どころじゃなくなるかもな。」
「ねぇ。早速、次の連休に押しかけましょうよ。」
「いいね。」
「馬に蹴られるのがオチかもよ。」