IF 剣菱家の事情。~あの時の二人が~

「…………なんてね。冗談ですよ。」

触れていた手は、風のように悠理から離れた。
仄かな温もりが、鮮やかなほどさらりと消えて行く。
未練を感じる肌とは裏腹に、すっくと立ち上がる大きな影。
悠理はそこでようやく顔を上げるも、薄闇の中、背を向けた清四郎の表情は窺えるはずもなかった。

「………冗談?」

声を振り絞り尋ねると、彼はこちらを振り向くこともなく、真っ直ぐな背中で書斎机へと向かう。
パソコンを立ち上げ、積まれた資料を手にすると、今までの雰囲気がまるで夢だったかのように冷たい口調で告げた。

「さ、僕は仕事の続きがある。おまえも早く寝なさい。いくら快適な空調でも、そんな格好じゃ風邪をひきますよ。」

‘そんな格好’………?
だぼだぼのトレーナーと、肌に馴染んだパイル地のショートパンツ。
タマフクをモチーフにしたスリッパはここ最近のマストアイテムだ。

「あと………男の部屋に忍び込むのなら、それなりの覚悟で来なさい。僕も聖人君子じゃないんだ。」

そんな台詞を聞かされた悠理の頭に、一瞬で血が上る。

「なんなんだよ!女に見えないって言ったの、そっちだろ!!」

「たとえそうは見えなくとも、おまえの性別は女でしょうが。僕は一般常識を説いているんですよ。」

「うっさい!清四郎のスケベ!!せっかく心配してやったのに………おまえなんか………寝不足で倒れちゃえばいいんだ!!」

「悠理!」

制止する声を振りきり、悠理は転がるように部屋から飛び出すと、自室のベッドへ大きくダイブした。
そして、ありったけのクッションを投げ散らかし、清四郎への悪態を叫びまくる。

スケベ
ヘンタイ
陰険野郎!

何であんなことしたんだよ!!
何であんなこと言えるんだよ!!

バカ!!
清四郎のバカ!!

一通り当たり散らした悠理は、花の香りがする布団に潜り込む。
剥き出しになった脚に残る艶かしい感触。
喉から飛び出しそうなほど煩い心臓。

━━━やだ、あたい…………

下着が熱く濡れている。

何故直ぐにでもあの手を振り払わなかったのか。
恥ずかしさと後悔が波のように押し寄せる。

知識はあれども、精神的に幼い悠理にとって、こんなことは初めてだった。
触れられた痕をごしごし擦っても、肌の記憶は消えようとしない。

「…………くそっ!」

清四郎は、五月蝿い小娘を追い払おうとしただけ。
それが無性に腹立たしかった。

━━━━まるでペットじゃんか!

それはいつものことだけど。

今、自分とあいつは友人よりも遠い距離にいる。

そんな風に思えば、胸がぎゅうっと痛み、心が落ち着かない。

眠ろう!
寝て忘れてしまおう!

悠理は大人しく、羊を数え始めた。
しかし200匹目を過ぎても頭は冴えたまま。
ふと気を抜けば、清四郎のあの指触りを思い出す。

━━━━あたい、どうなっちゃったんだよ!

壁一つ隔てた向こう側。
原因の男はまだ眠ってはいないだろう。

長い付き合いであるはずの男。
性格も行動も、よく知っている。
しかし、今日の清四郎は悠理が初めて見る男だった。

擦り合わせた脚のつけ根がひんやりと濡れている。

「うぇ………も、やだぁ~」

布団を跳ね上げ、クローゼットに向かった悠理はショートパンツを下着ごと下ろし、新しい物を取り出した。
足下に落ちたタマフク柄の白いパンツ。
見たことのない染みが浮かんでいる。

「トイレ、行かなきゃ…………」

呆然と目を泳がせたまま、彼女は歩き出した。
初めての官能に戸惑う悠理。

無論、そんな状況を露ほども知らぬ清四郎は、パソコンに浮かぶグラフを見つめながら、溜め息を吐いていた。
自動車部門の弱さがありありと見てとれる。

「一筋縄ではいかないが、取り敢えず一ヶ月後にそれなりの結果を出さねば……」

とんとん、と机を叩く指。
その人差し指を見つめ、先程感じた悠理の柔らかな肌を思い出す。

「あんなこと、するつもりじゃなかったんですけどね。」

『学校へ行こう』
しつこく誘う悠理にイラっとさせられたことは否定できない。
確かに、無責任で刺激ある学園生活も悪くはなかった。
だが清四郎は基本上昇志向の男。
自分の能力を試したい。
そんなこの上ない魅力に取り憑かれている。
万作から与えられた碁盤は最高級のもの。
才能のある男なら、魅せられて当然だ。

しかし、呑気な悠理を見ていると、ついつい苛めたくなる。
妻となるのなら自分好みに育てたい。
わき上がる欲望。

素材は決して悪くないのだ。
あとは教養美と身のこなし、そして少しばかし大人しくなってくれればそれでいい。

清四郎は笑みを溢す。

反発は想定内だが、確かに最近一人にさせ過ぎたな。
どうやら両親の喧嘩を見て、不安定になっている。
もう少し……労ってやるべきだったか?

反省と共に、彼女に触れた指を何度も擦り合わせる。

「女なんですよ、おまえは。」

初めて会った時から規格外。
しかし彼女は紛れもなく女だ。
誰よりも感情的に笑い、怯え、叫び、そして泣く。
たとえどれほど喧嘩が強かろうと、本気の清四郎には勝てない。
勝たせるはずがない。

「怖がらせたか………」

カチンコチンに凝固した悠理へ、あれ以上のことは出来なかった。
からかって、怒らせて、部屋から去ってもらう。
意地悪な策略。

けれど、悠理の肌はとても気持ちが良く、ギスギスしている日常を一瞬だけでも忘れさせてくれる。
俯いたまま、怯える心音を響かせる彼女は、まるで小兎のよう。

男として意識されたことはないはずだ。
その禁忌を犯す喜悦に、胸が高鳴った。

だが、強引に奪うつもりはない。
彼女に対して愛情がないわけではないのだ。
いつかは結婚し、子を成すだろう。
それまで上手く手懐けて、愛情を引き出すのも悪くはない。

まんじりとも動かない悠理。
限界を感じたのはそのあたりだ。

そっと手を離し立ち上がる。
やるべき仕事は山積みだ。
明日も朝から会議があり、古株たちのごたくを聞かねばならない。

それなのに今、清四郎の思考に割り込んでくるのは、あの柔らかくきめ細やかな悠理の肌だった。
真っ赤な顔で飛び出していく、彼女の後ろ姿だった。

「参ったな。」

清四郎は内線で珈琲を頼む。
もちろんブラックで。

コントロールに手こずる理性を宥めるために。
そして、今すぐにでも隣へ駆け込みたくなる衝動を抑えるために。

夜は更けていく。
それぞれの戸惑いを浮き彫りにして。



次の日。
早朝から英会話のレッスンとお茶のお稽古を済ませた悠理は、兄と出かけようとしている清四郎に声をかけた。

「おはよ。」

「おはようございます。ゆっくり休めましたか?」

どの口がそれを言うんだ、と思ったが、悠理はコクンと頷いた。

「おまえ、あれから寝てないだろ?」

「いいえ、三時頃から眠りましたよ。」

「嘘つけ。ベランダから煌々と灯りが見えたぞ。」

「ということは、悠理も眠っていないんですね?」

「う・・・」

やれやれと肩を竦めた清四郎が、豊作から離れ、悠理を廊下の隅に導く。

「夕べは悪かった。あんなことはもうしませんから・・・」

「え?」

「怖かったでしょう?少し悪戯が過ぎましたね。」

「こ、怖くなんか・・・」

’ない’と言いたくても言えない。
眠れなかったことは事実で、それはもちろん怯えによるものだったから。
だが本当の理由は自分の身体に起きた変化。
あの後、悠理は何度もトイレに駆け込み、落ち込んだ。

「今日は、一緒に夕食をとりましょうか。」

「・・・・早く帰ってこれんの?」

「ええ。恐らく7時半には戻れます。」

「そか。んじゃ待ってる。」

くしゃっと髪を掻き回され、心がくすぐったさを感じる。
二人を見送った悠理はそんな自分に驚かされたが、待ち構えていたマナー講師に腕を掴まれ、甘酸っぱい気持ちは吹き飛んでしまった。

━━━━やっぱ、あたい、変。

あれだけ怒っていたはずなのに、清四郎の顔を見たら、思わず声をかけてしまう自分が不思議で仕方ない。

━━━━まるで飼い主に懐く、犬じゃん。



午後からのマナー講座では散々お小言を食らったが、三時のおやつが好物のアップルパイだったので、悠理の機嫌は持ち直した。
学校を休むようになって、一日が長く感じる。
本当はレディ教育なんて放り出して、皆とワイワイ騒ぎたい。
神経質で顔色の悪い清四郎なんか見たくない。

なのに━━━━

今の悠理の胸の中には「清四郎」しか居なかった。
思い出すのは、肌を優しく辿る彼の指。

━━━━欲求不満かよ、あたい。

「嬢ちゃま。ダンスのお時間ですぞ。」

「今日はパス!ちょっとプールで泳いでくる!」

「嬢ちゃま!!」

困惑する五代の声を振り切り、悠理は一直線に駆け出した。

━━━━そうだ、きっとストレスなんだ!めいいっぱい身体を動かせば、すぐに忘れちゃうはず。

二時間も全速力で泳げば、いくら体力自慢とはいえバタンQ。
目が覚めた時、時計は7時を指し示していた。

ダイニングルームへ行くと、大好きなハンバーグの香りが漂ってくる。
湯気の立つクラムチャウダーや、鮮やかな温野菜の数々。
自然とお腹が鳴った。

「五代、清四郎、まだ?」

「それが・・・その、どうやら夕食には間に合わない、と連絡がございました。」

「え?」

「先に食べていて欲しい、と。」

「あっそ。」

期待した自分が馬鹿だった。

悠理は椅子にどかっと腰掛け、無言で食べ始める。
美味しいはずのハンバーグがこんなにも味気なく感じるなんて、初めてのこと。

「清四郎のばーたれ・・・。」

━━━━約束ってこんなに大事な物だったっけ?

いつもならたった10分で3杯飯を完食する悠理。
その夜は僅か1杯のご飯に約一時間かかった為、心配した五代が主治医に電話する羽目となった。