剣菱万作の朝は、アケミとサユリの世話、そして丹誠込めた畑の収穫から始まる。
万作にとって、早起きなど朝飯前。
朝日も昇りきらぬ内、けたたましい“コケコッコー”が邸内に轟きわたり、それを聞いた使用人たちは眠気を堪えて支度し始めるのが日常だった。
だがもちろん、その範疇から外れている者もいる。
妻、百合子は美容の為、睡眠時間を削らない。
きっかりゆったり七時間、ベッドにこもるのが習慣である。
娘、悠理はどんな爆音が鳴ろうが、目を覚まさない。
たとえ夫が出社する時間になっても、意地汚く枕にしがみつく。
涎垂らして夢の中。
大好きなご飯をたらふく食べているのだろう。
だらしない笑みがこぼれていた。
彼らの我が道を行くスタイルに振り回されるのは、もちろん周りの人間だ。
特に次期当主である豊作や、その義弟となった清四郎のような“真面目人間”にとって、三人はまるで嵐の存在。
まともに巻き込まれれば無傷では済まない。
過去も現在も未来も。
剣菱一家はいつも厄介事を連れ込んでくる。
あっと驚くような厄介事を………
「清四郎ちゃん、おかえりなさい。今日は随分と早いのねぇ。」
食卓にはシェフが腕によりをかけた豪勢な和食が並んでいて、百合子夫人はそれら秋の味覚に舌鼓を打ちながら、声をかけた。
夫、万作は昨夜から北海道に飛び、不在である。
どういうわけか“美味しい畑の作り方講習”を現地人に頼まれたらしい。
ふつう、立場は逆じゃないのか?
────と賢き娘婿は首を傾げた。
「実は明日から一週間ほどシンガポール出張でして………準備のために切り上げてきたんです。」
「あら、そう?じゃあ、ナッシムロードにある別荘に滞在しなさいな。先月ようやく素敵な建物に仕上がったの。
管理人には連絡しておいてあげるから。」
「すみません。ではお言葉に甘えます。」
数多の不動産を所有する百合子だが、万作ですら全てを把握しているわけではない。
莫大な富を持つ彼女は、友人でもある“松竹梅千秋”のアドバイスにより、毎年のように手堅い物件を購入していた。
いつかそれらの価値が上昇することを期待して。
「で、悠理は?連れて行くの?」
「さぁ、どうでしょう。まだ話をしていないので。」
「さっさと連れて行っちゃって。清四郎ちゃんが居ないと寂しいらしくて、私たちに八つ当たりしてくるのよ。」
思いがけず可愛いエピソードを耳にした夫は小躍りしたい気分で夫婦の寝室へと向かった。
そこは元々、悠理だけの寝室だったが、結婚と同時に隣室との壁をぶち抜き、大改造を済ませていた。
まるでホテルのスイートルームを模したかのような空間。
内装についてはもちろん、清四郎が慎重に選んだインテリアコーディネーターの力作である。
さすがに百合子ご自慢の少女(悪)趣味な部屋では寛げなかった。
「おっかえりー!」
「ただいま。」
結婚して二年と半年。
二人は25歳になっていたが、いまだ子はない。
孫を欲しがる百合子がヤキモキする中、それでも清四郎は計画性を重視し、少なくとも30歳を迎えるまでは二人きりの生活を楽しもうと考えていた。
まだまだ遊び足りない悠理への情けともいえる。
「今日は何してたんです?」
ネクタイを緩めながら、ソファで猫と格闘している悠理に問う。
ここ三年間でタマフクの他にもう二匹愛猫が増えた。
雄の“写楽”と雌の“千寿”だ。
どちらも旅先の漁師町で見つけた捨て猫で、薄い灰色をしたサバトラ。
見た目は大変可愛らしい。
だが利かん気な彼らの世話はなかなかに大変。
悠理は毎日のように遊び、ブラッシングをしているのだが、残念なことにその愛情は一方通行らしく、手にひっかき傷が絶えない。
「ん~と………プールで泳いで、遊びにきた可憐とお茶して………夕方、ちょっとだけ英会話のレッスン受けた。」
「ふむ。」
忙しい清四郎に代わり、退屈の虫を潰しているのが可憐と野梨子。
二人は各々の実家で仕事をしているが、比較的時間の自由がきく為、悠理の突然の呼び出しにも応えてくれていた。
どちらもまだ独り身。
しかし先にゴールインするのは恐らく野梨子だろう。
魅録との交際もそろそろ一年を迎え、
両家はすっかり結納をかわす準備を整えている。
「英会話はどうです?この前の教師とくらべて、わかりやすいですか?」
「ん~・・・まあまあ、かな。あたいのオツムに苦戦してるのだけはわかるよ。」
部屋着に着替えた清四郎は、悠理の隣に座り、よしよしと頭を撫でた。
昔と変わらぬお馬鹿な妻だが、最近では少しずつ“剣菱財閥の顔”としての自覚が芽生えてきたらしい。
不承不承ながらも、社交ダンスや語学を学ぶようになっていた。
「話は変わるんですが─────実は、明日から出張が入りまして。」
「へ~、どこ?」
「シンガポールです。」
「シンガポールかぁ。チキンライスにジンジャーチキン、チリクラブ。朝は絶対カヤトーストだよな。あたい、プラウンミーの旨いとこ知ってるぞ!」
「じゃ行きますか?一緒に。」
「え!いいの?」
「ええ。」
「んなもん、行くに決まってんだろ!」
清四郎の首にかじりついて喜ぶ悠理を見て、普段どれほど寂しがっているのかを理解する夫。
清四郎とて一緒にいてやりたいが、なにぶん仕事が山積みとなっていて、そうもいかない。
シンガポール出張も、取引先との会食ばかりで恐らくは不機嫌にさせてしまうと解っていた。
それでも、一緒にいたい。
目を離せば途端に不安がこみ上げる。
トラブルに巻き込まれでもしたら……そう思うと仕事に集中出来ない。
昔より遙かに強い想いで悠理を縛り付けている自分。
たとえエゴだろうが何だろうが、彼女を失うわけにはいかないのだ。
生きる意味を失うわけには─────
猫たちのブラッシングを終えた悠理を、清四郎は当然のように押し倒した。
ここからは夫婦の甘~い時間。
解放された猫たちはここぞとばかりに空気を読み、部屋の端にある自分たちのベッドへ身を沈ませた。
こうなってしまえば構ってなどくれない。
きっと夜が更けるまで………
「……なぁ、明日の準備は?」
「早起きすればいい話ですよ。」
現実的ではない提案を、悠理は諦めと共に受け入れた。
何故なら夫の熱はトップスピードで上昇していたから。
結局、荷物はメイド任せ。
出立ギリギリまで寝ていた悠理は、清四郎のデコピンでようやく目を覚ました。
空港までは万作ご自慢の地下道を使って短縮できるし、プライベートジェットは既に準備万端である。
一般人のように慌てふためく必要はない。
「さ、顔を洗って。服はそこに用意してありますから。」
「ふぁーい……ってか、あたいこんなワンピース持ってたっけ?」
清楚とまではいかないが、絶対選ばないであろうお上品な衣装がソファに広げられている。ご丁寧にパンプスまで。
「到着したら、取引先のCEOが出迎えてくれる予定になってるんですよ。これはTPOを考えた結果です。」
「…………小狡い手。」
「なんとでも。しかしおまえはこういうのも似合いますよ。」
「そぉかぁ?」
レースのハイネックブラウスとベビーブルーのカシュクールワンピース。
清四郎の好みがありありと解る。
「ま、いいや。今回は言うこと聞いてやるよ。」
夕べの余韻が残る気怠い身体を起こし、悠理は洗面台へと向かった。
そこもまた以前のような仰々しさはなく、機能的かつ落ち着いた雰囲気に仕上がっていた。
悠理はアクセサリートレイにある指輪とダイヤのピアスを慣れた手つきで装着する。
結婚式当日、清四郎がくれた二つのもの。
シンプルなプラチナリングと一粒石のダイヤは、ほぼ毎日身に着けている。
簡単に洗顔を済ませ、薔薇の香りがする化粧水を叩き込む。
シミ一つ見あたらない健康的な美肌に、パウダーファンデーションなど必要ないのかもしれないが、あのワンピースに合わせ、軽いメイクをしようと考えたのだ。
それすらも彼女の成長といえよう。
長い睫毛を整え、淡い紅色のチークをはたく。
唇にはベージュを乗せ、仕上げは百合子から貰った香水を。
年相応の装いを覚えた悠理だったが、可憐に言わせればまだまだ合格ラインにはほど遠いらしい。
パーティ会場で大輪の薔薇のように咲き誇る可憐だからこその厳しいジャッジだった。
「よし、こんなもんか。」
なかなか落ち着いてくれないくせっ毛を濡れた手で抑え込み、鏡の中の悠理は満足そうに笑う。
いざ!シンガポールへ!
仕事とはいえ、二人きりで出かけられることは何よりの喜び。
背中に羽が生えたような軽い足取りで、夫の元へと向かった。