思いの外低く鳴る出航の汽笛。
空気を震わせるその物悲しい音は、悠理の腹底にまで響いた。
そういえば昔、大型客船で旅をしたな、と思い出す。
あの時は手に入れた大金で贅沢三昧楽しんだっけ?
結局は皿洗いに落ち着いたが……。
「悠理、こんな所に居たんですか?部屋の準備が出来たそうですよ。」
「オッケ!いこっ。」
広い甲板には多くの客が港に向かい手を振っていて、しばらく離れる日本を惜しんでいる。
客のほとんどが裕福そうな老夫婦だが、中には新婚カップルも居るようで……肩を寄せ合い、自撮り写真を何枚も撮影し、SNSに投稿していた。
皆が一様にこの旅を楽しもうとしている──そう感じた。
悠理は隣に立つ男を見上げ、自分たちはこの船で一番変わった組み合わせなだろうな……と思い至る。
ただの高校生。
付き合いたての恋人。
まだ深くはない関係。
そんな二人が、豪華客船で世界を巡るだなんて、どう考えても気が早い。けれど清四郎の申し出を受け入れたのは、彼とアフリカの地に立ち、大自然に生きる野生の動物を眺めたかったから。いつもの六人でなく、二人きりでその広大な世界を噛み締めたかったからだ。
「六階のレストランは、24時間食べ放題とのことですが、味の保証はしません。どうせなら七階にあるイタリアン、もしくは鉄板焼きがいいでしょうね。そうそう、寿司屋もあったな。」
「了解……てか、もしかして船の案内図、全部覚えちゃった?」
「……僕を誰だと思ってるんです?」
「さっすが、せぇしろちゃん!頼りにしてるよ〜ん!」
腕と腕を絡ませ、二人は用意されたスイートルームへ向かう。
はたから見れば新婚さながらのラブラブカップルだろう。
見目麗しさも相まって、すれ違う人々は微笑ましく彼らを見送った。
とはいえ、部屋に入った瞬間。悠理は大きなベッドを眺めながらこう思った。
───ん〜、早まったかな?
船内とは思えぬ豪華で広いキングサイズの寝床には、これまた大きな枕とクッションが立体的に積まれていて、悠理が普段使っているベッドとサイズ感的には同じだった。
淡いバラ色のリネンが、新婚感をより濃く醸し出している。
部屋は80平米ほどの広さで天井も高く、プライベートバルコニーやジャグジーまで備え付けられているのだから驚きだ。
一体どんなコネを使ったのか聞いてみたくなった悠理だが、今は何よりベッドに釘付けである。
(え〜と、こんなに広かったら端っこで寝てもいいし……なんならそっちのソファでも問題ないよな)
ちょっとした逃げ道を思い描くも、悠理は自分の寝相を想像し、結局はベッドを選択した。
「荷解きしたら、プールでも行きますか?」
「え?寒くない?」
「温水らしいですよ。水着も貸してくれるそうですし。」
清四郎の申し出は悠理にとって心浮き立つもの。
「じゃ、そうする!」と快諾し、いそいそとスーツケースを広げ始めた。
広いベッドに散らばる中身。
彼女の荷物のほとんどがおやつであることは今更なので驚きもしないが、下着なんかも放り出される様を見ていると、まだまだ自分は男扱いされていないんだろうなと思い知る清四郎だった。
「お!水着あるじゃん。そ〜いやこの間、可憐と買いに行ったんだった。」
目の覚めるようなオレンジレッドのビキニスタイルは悠理らしいチョイスだが、清四郎はその形にこそ目を奪われた。
どこからどうみても、ハイレグなのだ。それもかなり際どい。
「……羽織るものはあるんですか?」
「ん?パーカーなら持ってきたけど?」
「じゃ、それを着て行きましょう。」
恋人としての気遣いを見せながらも、この先、こんな心配を何度も繰り返すことになるのか、とため息が出る。
だがしかし、彼女に女らしさを教え込む苦労より、自分が気を配ったほうがよほどマシだと考えを改め、清四郎は着ていたシャツを脱ぎ始めた。
すると……
「ちょ、ちょっと待て!」
制止する声。
「は?」
唐突な叫びに思わず振り返る。
「バスルームで着替えろよ!バカタレ!!」
リンゴより赤い顔をした恋人は、下着を握りしめながらそう叫んだ。
どうやら盛大に照れているらしい。まさかそんな現象が彼女に起こるとは考えてもみなかった。
「…………悠理」
「ち、近付くな…」
「意識してくれるのは嬉しいんですが、これから長い間一緒に過ごすんですよ?このくらいは慣れてもらわないと。」
「で、でも……おまえのパンツ姿なんて……まだ見れないよ。」
何を想像していたのか、悠理の脳内にある清四郎はよほど破廉恥な姿をしているのだろう。
思わず苦笑してしまう。
「分かりました。大人しくバスルームに引っ込みますよ。」
「お、おう……」
着替えを手に去っていく男の背中に安堵しつつも、「ちょっと言い過ぎたかな」と反省するあたり、悠理も成長したといえるのかもしれない。
「は~、心臓壊れちゃうよ。」
そんな焦りの声が空中に舞った。
「わ!ほとんど貸し切りじゃん!」
派手に飾り付けられた50mプールでは、小さな子連れの母親と新婚カップルらしき二人だけが楽しんでいた。くるくると回り下りてくるスライダーも設置されていて遊び心を擽る。
いの一番とばかりにパーカーを近くにあったガーデンチェアへ放り投げると、彼女は水を得た魚のように飛び込んだ。
「やれやれ。置いてけぼりですか。」
そう言いながらも清四郎は文庫本を片手にもう一つの椅子に座り、読書タイムを決めこむ。
これが各々の時間。
長い旅の始まりだ。
穏やかに過ごそう。
10分ほど経つと、まるでサメのような勢いでプールサイドまで戻ってきた悠理は、清四郎に声をかけた。
「なあ、一緒に泳ごうよ。」
「飽きたんですか?」
「ううん……そういうわけじゃないけど……」
どうやら寂しくなったらしい。ふと見渡せば、先ほどの新婚夫婦がプールの端でイチャイチャしている様子が見て取れた。悠理はそんな二人を見て、自分たちもカップルだったことを思い出したのだ。
清四郎は着実に成長を遂げている恋人を感無量といった表情で見つめ、優しく微笑んだ。
「いいですね……泳ぎますか。」
羽織っていたシャツを脱ぎ去り、その鍛えられた筋肉を披露する。
悠理はドキッとした。夏、皆で海に行けばこんな姿は見慣れていたはずなのに、と。
軽く水を浴びた後、プールに脚を浸けた清四郎は挑発するような表情で「勝負」を促す。もちろんそれに応えぬ悠理ではない。
「絶対負けないかんな!」
「それはどうだか。」
二人は客が疎らなのを良いことに、本気の競争を繰り広げた。
「あ~腹減った!!」
計10本の闘いで悠理が勝てたのは1本のみ。それもラスト、あまりのしつこさにやる気を削がれた男を相手にしての1本だけだった。
体力を使い果たした彼女が空腹に喚くのはいつものことで…… 二人はそれなりの服装に着替えた後、事前に予約しておいたイタリアンへと足を運んだ。
案内された席は小さなテーブルランプが置かれた比較的ムーディな雰囲気で、どうやらカップル向けに用意されていた場所らしい。窓の外は真っ黒な海が広がるだけだが、店内はロマンス溢れる内装に仕立て上げられていて、ここが船の上であることを忘れさせてくれる。
悠理は座るや否や高価なシャンパンをオーダーし、手渡されたメニューを食い入るように眺めた。
「肉は絶対!パスタは3……いや4皿かな。あと魚料理と……デザートはカッサータとパンナコッタと……」
「それ、二人分じゃないですよね?」
「ん?あたいの分だけだぞ。」
「………。」
彼女が大喰らいであることは親の顔よりも知っている。その胃袋がどこか別空間に繋がっていると言われても不思議に思わないだろう。
苦笑しつつも清四郎は大人しく前菜+メインのコース料理を注文し、驚愕するスタッフの顔から視線を逸らした。彼の気持ちはよくわかる。
「そーいやおまえ、あんなにも泳ぎ速かったのか?」
「まぁ、それなりには。」
「魅録なら分かるけど……なんか騙された気分だじょ。」
グリッシーニを齧りつつ不満を洩らす悠理。清四郎としても相手が相手なので、思いがげず本気を出してしまったのだ。
「まだまだ男として負けられません。」
悠理の左手に重なる清四郎の右手。 ドキッとした悠理は思わず周りを確認した。当然だが、どの席のカップルもお互いに夢中らしく、二人を気にしている様子はない。それに安堵しつつも、胸の動悸はなかなか落ち着くことはなかった。
「……ふん、いつかきっちり勝ってやるかんな……」
「受けて立ちましょう。」
余裕の笑みを浮かべる恋人に、いつか勝てる日が来るのか?
定かではなかった。
シャワーを浴びた悠理がベッドルームに戻ると、清四郎の寝息が聞こえてきた。室内は、ベッドサイドにある仄かな灯りだけ。どうやら彼は先に眠ってしまったらしい。
一気に緊張が解けるも、肩透かしを食らった気になる。
(そりゃあんだけ本気出せば……疲れるよな)
負けず嫌いは今更のこと。とはいえ、悠理の本気を受け止める事が出来るのは清四郎だけだ。
バスローブを着たままの悠理は、クローゼットから下着を取り出し身に着けた。比較的広い部屋だが、互いの存在を意識しながらの生活は、それなりに不便でどことなくくすぐったい。
日常で使っているものと変わらぬ肌触りの良いリネンに満足した彼女は、彼を起こさぬようそっとベッドに忍び込んだ。
ドキドキ
それは初めてのアトラクションを前にしたかのような緊張感だった。
今日から始まる二人きりの旅。仲間たちに告げた時、可憐が「婚前旅行なんてやるわね!」と茶化してきたことを思い出す。
婚前旅行──これはそんな括りになるのか。
改めて実感すれば、悠理としても覚悟を決めなくては、と不確かな未来を思い描いた。
ふかふかの枕に頭を預け目を閉じる。するとそれなりの距離があったにも関わらず、清四郎の手が悠理の手に触れた。
ドキッ……!
恐る恐る横を向くと、過去に見たことがないほど穏やかで充足感溢れる表情を浮かべた彼がこちらを見つめていた。
「お、起きてたのか……」
「少しウトウトしてましたがね。」
触れていただけの手が握られ、引き寄せられる。
一つのベッドで二人きり。
なんだろう……この緊張感は。
「悠理……」
「な……なに?」
「キス……したいんですが……」
「き、キス?あ、キス……う、うん…わぁった……」
シャワーを浴びた後、歯も磨いたし、マウスウォッシュもしたなと……安堵する悠理。
それでもドキドキ……胸は五月蝿く、目頭は興奮で熱かった。
ふわふわ落ち着かない様相の悠理に対し、清四郎はさぞかし通常運転に見えることだろう。
だが彼の胸の内は彼女の数倍荒れ狂っていて、欲望と葛藤、分裂する思考に苛まれているのだ。
一つの空間、一つのベッド。
爽やかな吐息すら感じられる近い距離。
手を繋いだはいいが、彼女のほんのり濡れた髪や、しっとりとした肌質が誘うように存在し、いくら自制心に長けた男とはいえ、目の前に好きな女が無防備な姿を晒しているわけだから、その心中は穏やかであろうはずがない。ギリギリの焦りと思いで”キス“を懇願しながらも、本心は悠理の全てを捧げてほしかった。
清四郎は手を握ったまま悠理を抱き寄せる。シーツの擦れる音と共に、その細い体はあっさり腕の中に包まれた。
彼のパジャマからは仄かな香りが漂い、それが清四郎の匂いだと認識すれば、悠理はそっと目を閉じた。
落ち着いた大人の香り……。
「“幸せ”……とはこういうことを言うんでしょうね。」
珍しい台詞だ──悠理はそう思う。
恋人同士になってからというもの、今まで知らなかった清四郎の顔や思いが次々に明らかとなり、そんな男をまるで新しい風のように受け止める自分もまた猛スピードで変化を遂げているのだろうと気付く。
「うん……あたいも幸せだよ。もっと早く、こうなるべきだったのかなって思うくらい。」
何気ない告白がどれほど清四郎を喜ばせるか分かっちゃいない。
彼女は無添加育ち。何の気なしに呟いただけだ。
感極まった清四郎の抱きしめる腕と想いが比例すると、悠理は目を見開き「うげっ!」とカエルのような声を上げた。
胸と胸。鼓動と鼓動。重なる体は互いの熱をダイレクトに伝え合う。
そんな中で一点………
悠理の理解し得ない場所が、特別な熱さを持ち接していた。熱くて硬くて長いソレが、バスローブのはだけた彼女の太腿に触れている。
(ん?………あ、あれ?まさかアレ?)
逞しい胸板を前に目を泳がせる悠理。男のあからさまな反応など、今までの人生でお目にかかったことはない。
わざとらしく押し付けてくるのは、彼の欲望が高まりつつある証拠。
「悠理………」
切ない声で呼ばれ、そっと顎を上げれば、清四郎はこれまた切ない顔で悠理に近付いてきた。
「おまえが欲しい………」
「………!!!」
答える間もなく口付けられる。それは労るように始まったはずだが、気が付けばいつぞやと同じ激しさで奪われていた。
声も
吐息も
唾液も
想いすら……
閉ざされたままの口腔内で混ざり合う。
キスの濃厚さとボルテージが高まり続け、そしていよいよハレーションに似た何かが彼らを襲った。
「……んっ……んんっ……!!」
背骨を通り抜ける快感。そして間もなく訪れた脱力感。
荒い呼吸の中、ようやく離れた唇は互いの唾液で糸を引いており、二人の目は絶頂を味わった後のように淡い光をまとっていた。
悠理は自身の下腹部がぬるっとしていることに気付く。そして太腿に触るその物体が更なる成長を遂げたことにも。
「悠理………僕はやめたくない……」
それは懇願に近い言葉だった。清四郎らしくない必死な表情。またしても新しい風が吹き抜ける。
もう少し口付けて、
もう少し触れ合って、
二人の距離をゼロにして、
そうすれば見たことのない世界が広がっているかもしれない。
悠理が望む新たな世界が──
「………いいよ。」
喉を鳴らし覚悟を決めた彼女は、恋人の瞳を真っ直ぐに見つめながら、そう答えた。