ちっぽけな石を蹴ったとて、気持ちが晴れるわけでもない。
悠理が抱える悩みは、この晴れた空には不釣り合いに感じるが、
何の解決策も見出だせない自分がとことん嫌になり、もう一つの石を大きく蹴った。
ブロック塀に弾かれ、先ほどの位置まで戻って来る黒い石。
そんな石を見つめ、頭の中に宿る清四郎を振り払えずにいる。
「ごめん………」
昨夜のことを酒のせいにして、達也は潔く謝罪してきた。
電話口の声はほんの少し強張っていたように思うが、それでも努めて明るい声だった。
いい男だ。
魅録が気に入るだけある。
それなのに………
悠理は絶対的な現実を突きつけられ、今もなお苦悩している。
清四郎を頭から振り払えず、むしろ以前よりも強く彼の姿が瞼に浮かぶようになってしまった。
(どうすりゃいいんだよ……)
泣き言は心の中で。
そして今日もまた、重い足を引きずりながら学園へと向かう。
午後からはいつぞやのように、清四郎のクラスが体育をしていた。
以前と同じ400m走。
怪我をしたあの女子はとうぜん見学席に座り、クラスメイトを応援している。
清四郎の番が回ってくると、その歓声はひときわ大きく聞こえ、悠理は眉をひそめた。
(やっぱ、狙ってんのかな。)
そんな風に素直に感情を出せる彼女が羨ましくもある。
自分とは大違い。
なぜこんなにも苦痛を味わうのだろう?
清四郎の心を望めないから?
本当にそれだけ?
悠理の中にある蟠り……それは彼にとって女ではないという現実。
(あたいは……こんなにも女なのにな……)
報われないと嘆く恋に胸を焦がしている現状は、どこをどう見ても乙女のそれではないか。
想いを自覚し、悩んで、苦しんで、暴走して……結局は女なんだと思い知らされる。
清四郎へタオルを差し出す女生徒は、輝かんばかりの笑顔を見せていて、先ほどの憶測が正しいと判った。
従順で美しく、そして妬ましい女。
「近寄んなよ……それ以上……」
悠理の中に生まれた嫉妬。
それは彼女自身見たことのない顔をしていた。
授業が終わり部室へと立ち寄るも、翌日は土曜ということもあり、可憐はエステへ、野梨子は買い物へ、美童はもちろんデートへ、それぞれが早々に下校していた。
残っていたのは魅録と清四郎の二人だけ。
テーブルには悠理に残されたおやつと飲み物が置いてある。
「悠理、週末の飲み会どーする?もしかしてデートか?」
彼に罪はない。だが悠理は険しい顔でそれを否定した。
「ちょっと予定あるんだ。母ちゃんに頼まれごと。」
「そっか……そりゃあ断れねぇよな。」
百合子に逆らえる人間はこの地球上でも数少ない。
お気に入りのミリタリー雑誌を紙袋に詰めた魅録は「ほんじゃ、後はよろしく」と去っていった。
とうとう二人きり。
清四郎はパソコンに向かい、どうやら株価をチェックしているようだ。
帰ろうと思えば帰れたはずだ。
だが、悠理はおやつの前に座り、腰を落ち着けた。
彼の側にいて胸が高鳴るなんて、初めてのこと。
どうやら後戻り出来ないほど、この恋は育っているらしい。
涼しい目と高い鼻。
美しい輪郭と男らしい喉仏に視線を移動させる。
もちろんこっそりと。
(くそぉ………何が違うってんだ!)
恋を自覚する前と後で、ここまでの変化が訪れるとは驚きである。
心が揺れる。
彼の吐息や、こめかみを押さえる動作にさえ心震えるのだ。
悠理は気まずさを解消するため、可憐が放りだしたままの雑誌を手に取った。
そこには「男に愛される手法」とデカデカ書いてあるではないか。
(なんだこりゃ……)
そう思いつつも一枚めくれば、男心を擽るちょっとあざとい仕草や言動がずらり並べて書いてあり、その一つ一つが最近の可憐に当てはまるものだと分かった。
(可憐………おまえ、涙ぐましいよな……)
たまに方向違いな色気を発揮する彼女も、実際はとことん努力家なんだと理解する。
悠理はここに来て初めて、これらが有効に働くのでは?と考えるようになった。
一つ一つ文字を噛み締めていく。勉強以外の努力は久しぶりだった。食事の時の作法、送ってくれた時の感謝の言葉。キスを強請る合図などなど。
女って大変だなあと改めて感じながら、先を読み進めていく。
「ほぉ。”男に愛される手法“……ねぇ。えらく殊勝な心がけですな。」
「うわっ!な、なんだよ、いきなり……びっくりするじゃん!」
気配なく背後に立てるのは清四郎だけ。
覗き込むように腰を曲げ、悠理が目で追っていた記事を、悠理より速く読み上げてしまった。
そして「なるほど、ね。」……と呟く。
「こんなもの……何の役にも立ちませんよ。」
端っからの全面否定。
’んなことわかってる’……と言いたかったが、それでも悠理は苦し紛れの反論をした。
「そうか?男ってみんなこんな女に弱いんじゃないの?”あざと可愛い“ってやつ?」
「ま、一部の男はそうでしょうがね。まともな恋愛を望んでいるのなら、上っ面ばかり磨かれても響きませんな。」
「…………なんだよ。中身が大事ってこと?」
「その通り。」
そっか……中身。
じゃあ、あたいなんて空っぽじゃん。
馬鹿でおっちょこちょいで、いっつもトラブってて……。
それなりに美人だけど、きっと清四郎にとっちゃなんの価値もないんだろうな。
挫けそうになる悠理に清四郎は追い打ちをかける。
「もしかして、彼に愛されたいから、こんな雑誌を?よしなさい。無駄です。」
「!!!……んなの、清四郎に関係ないだろ!」
振り返り涙目を見せる悠理に、清四郎は完全なる誤解を抱いていた。
恋をしていないと思っていたはずの悠理が、人知れず芽生えさせていたのか、と。
(どういうことだ……?)
焦燥が胸を焦がす。
もし目覚めてないのなら、何とでも言いくるめ、自分のモノにする自信があった。
だが、そうじゃないのなら少々厄介である。
「悠理……」
「なんだよ?」
「………彼のこと、本当に好きなんですか?」
「………す、す……………」
”好き“と言えば、清四郎はどんな顔をするだろう。
だいたい、達也を好きじゃないのに、付き合ってる女っておかしくないか?
いや……でもお試しってことも……あるっちゃある。
ぐるぐると回転する思考を前に、悠理はこの男が何故こんなにも興味をもつのか理解できないでいた。
「好き……だよ…………たぶん。」
「たぶん………ねぇ。」
俄かに持ち上がる苛立ちを隠し、清四郎の手がいつものように髪を撫でる。
温かい手。それは条件反射だろうか。思わずうっとり瞼を閉じてしまう。
しかしその手が当然のように悠理の顎を掴んだ時、彼女はハッと目を見開いた。
「そんな曖昧な気持ち、1ミリ残らず消してやりましょう。」
いつの間にここまで接近していたのか?
屈んだままの清四郎の顔が僅か数センチの距離にあり、驚かされる。
いや、本当に驚いたのは次の行動だった。
顎を掴まれたまま、もう片方の腕で軽々腰を持ち上げられると、あっという間にテーブルの上に寝かされる。
天井が真上に見えるのだ。間違いない。
背中にある雑誌はあっさり引き抜かれ、床に放り投げられた。
(なんだ……?この状況)
考えが追いつかない。
覆い被さる清四郎の体は悠理の両脚の間にしっかりと挟まれていて、寄りかかる重みがすべての動きを封じている。
「な……なに?」
彼女が女としての自覚があったなら、この事態を「危険」と察知しただろう。
自分より強い男に組み伏せられる危機。
彼女が生きてきた中で一度もない。
清四郎の目は黒かった。
でもその色は単純ではなく、掘り起こす前の宝石のような昏い輝きを秘めていて、悠理は吸い込まれそうになる。
美しい目……
この目に一生捕らえられたい。
「おまえを略奪するんですよ。」
「りゃく……」
聞き返す前に呆気なく唇は塞がれた。彼の口によってしっかり、そしてみっちりと……。
言葉と吐息を奪われ、抵抗も出来ない。
否、もしかすると、そうしたくない自分が居たのだろうか。
この夢のような現実に、身を預けたいと願う自分が………
「ん………っ………」
何度も角度が変わるも解放されることはなく、清四郎の手が両頬を挟むように触れ、よりいっそう深い口付けが始まってしまった。
頭は完全に酸欠状態。
かろうじて鼻から供給できるも、すっかり酩酊状態の悠理は、我知らず清四郎の背中へと腕を回した。
それは慣れた仕草に見えたのかもしれない。
まさかキスの経験があるとは思いたくない。
独りよがりともいえる怒りを抱く清四郎は、より深く、より強く、まるで意識を奪ってしまうかのような口づけを与え続けた。
「んんっ……っ!!」
その口付けがセックスとどう違うというのだろう。
無理やりこじ開けた唇の中へ、彼の硬く尖った舌が侵入し、隅々までをも舐め尽くす。
歯も、歯茎も、彼女の舌の付け根も、なんなら咽の入口すら、その長く器用な舌で凌辱した。
絡む唾液を啜りながら、興奮に膨らむ股間を押し付けながら、清四郎は圧倒的な征服欲で、女としての悠理を味わっている。
冷静になどなれやしない。むしろこのまま行きつくところまで行ってしまいたい。
「好き……だよ…たぶん……」
好き……?
あのヒョロっとした頼りない男を好きだと?
そんな現実的じゃない答えはありえないだろう。
雑誌を捲る悠理の後ろ姿に、
その内容を真剣に目にする横顔に、
猛烈な支配欲が訪れる。
何年待ったと思ってるんだ。
──日本じゃ、トンビに油揚げをさらわれるって言うんだろ?
美童の台詞がリフレインする。
許すはずもない。
納得するつもりもない。
本当ならあの時、幸せそうな男の顔をこの脚で踏み潰してやりたかった。
ようやく離れた唇は互いの唾液で濡れそぼっている。
息は整わず、胸は上下に激しく揺れたまま。
放心状態の悠理の視線は、それでも清四郎へと注がれている。
まるで初体験を済ませた後の余韻を思わせる目で。
「あの男から奪ってやる。体だけじゃない………心もしっかりとね。」
「……どういうことだよ?」
「僕が何年おまえを想い続けてきたと思ってるんです?」
「───え?」
言いながら清四郎の手は、再び悠理の顎を捉えた。
いつになく艶のある唇が誘うように開いていて、その魅力に抗えない。
再び重ね合わせると、さっきとは違う角度で深く、そして浅く、貪り始めた。
悠理の頭はきっと追いついてこない。
混乱に次ぐ混乱。それを招いたのはもちろん清四郎だ。
ただ、反応は悪くない。
嫌悪感やいつもの逃亡劇も行われず、なすがままの状態で受け入れている。
このまま制服を破り捨て、その細い体を存分に味わっても問題なさそうだな──と思えど、さすがにそこまで鬼畜にはなれず………。
二度目の激しいキスを終えた後、清四郎はその腕の中から悠理を開放した。
「………清四郎。」
「なんです?」
汗が滲む額を手の甲で拭う。もちろん悠理にはハンカチを与え、自分は襟を整えた。
「あたいを………好きだってこと?」
「…………さっきそう言いませんでしたか?」
「ずっと……好きだったってこと?」
「…………ええ。」
まるで鈍器に殴られたような顔で清四郎を見つめる悠理。
気まずさを感じつつも、悠理から目が離せない清四郎。
「………おまえはあたいのことなんて、女じゃないって………そう思ってて………」
溢れだす涙の意味が即座に解るほど自惚れてはいない。
だが、もしかすると………いやこれは願望なのか?
清四郎は悠理をもう一度胸に包み込んだ。
「悠理、気持ちを聞かせてほしい。僕は、おまえがずっと好きで………誰にも譲りたくない。」
それは胸がはじけ飛ぶような告白。
キスよりも衝撃的で、大いなる実感を与えてくれる言葉。
今までの自分は何か醜いものに体を乗っ取られていたんだ。
だって、こんなにも清々しく、歓び溢れる気持ちが舞い降りてきたんだから。
清四郎の想いを知ることが出来たおかげで、もはや恐怖も緊張も感じなかった。
「あたいも………好きだ。清四郎のこと、大好き。」
彼の制服を涙で濡らしながら、悠理はようやく胸に詰まっていた想いを吐き出せた。
包み込む腕に力がこもる。清四郎の鼓動を耳にすれば、まだまだ隠された想いが伝わってくるような気がした。