treachery & determination
正直、気乗りはしなかったのだ。
剣菱商事に籍を置くようになってから、この手のパーティは出来るだけ避けてきた。
ドレスも靴も、用意すればする分、お金が飛んでいく。
かといってレンタルなんて、この年で着たくない。
昔、嫌いな女と見事被って、嫌な気分になったからだ。
とはいえ、結婚を見据えた交際をしている身なのだから、少しは節約しないといつまでも式は遠ざかったまま。
通帳の数字を見て、いまだ遠い現実を思い知る。
「響子、お昼どうする?」
同僚の佐智子だ。
ランチの美味しい店を知っている彼女だが、私はここのところ誘いを断り続けていた。
「ごめん、金欠なの。ほら、今度のパーティに着て行くドレス張り込んじゃったから。」
「ああ、そうだったね。課長命令の強制参加。ただで飲み食い出来るのは良いけど事前準備がねえ。」
佐智子も私と同じく、結婚を約束した恋人がいる。
三つ年下のイケメン君だ。
「剣菱のパーティは、いつもゲームで豪華な賞品が当たるから嬉しいんだけどね。」
「あら、何か当たった事あるの?」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれたわ。なんと、3年前にグアム旅行が貰えたのよ。」
なるほど、さすがに羽振りが良いだけある。
剣菱グループの会長はとにかく豪快な事が大好きだ。
今回も令嬢の結婚が決まったことで、相当な大盤振る舞いが期待されるらしく、社を挙げて皆で参加する事になっていた。
剣菱グループ創設60周年記念。
課長命令は絶対だ。
「ほら。本社の重役に収まった例の二枚目にも会えるから、結構楽しみなのよ。」
胸がざわりと蠢く。
「ああ、’彼’・・・ね。」
「あの若さで重役だなんてちょっとあり得ないけどさ、本当のところかなり優秀な男らしいのよ。」
でしょうね・・・・と胸で呟く。
社内のパソコンで彼の経歴をざっと洗えば、その凄さはものの2分で解るのだ。
「幼馴染みの令嬢ともすっごく仲良しなんだって。羨ましいわよね、生活に不自由しないって。あたしなんかこの間のボーナス、あっという間に無くなっちゃったわよ。」
「佐智子はちょっと遣いすぎよ。新作が出る度、靴買うの止めたら?」
「私の美脚を靴の方が求めて来るんだもの。仕方ないじゃない?」
すらっと伸ばされた脚は確かに美しい。
ストッキングなど必要としない滑らかな肌が彼女の自慢だった。
「とにかく、私は暫くお弁当よ。昼は誘ってくれなくても良いわ。」
「あ~ん、寂しい。」
嘘泣きをして見せる彼女を置いて、休憩室へと向かう。
そこには『お局様』と呼ばれる40前の女性と、中年の社員、そして派遣社員の女の子達が5人ほどで賑わっていた。
盛り上がっているところ水を差すのも気が引ける。
私は彼女達から出来るだけ離れ、窓際のテーブルで弁当を広げた。
今の恋人と付き合い始めてから手作りすることに目覚め、今じゃ見た目にも拘るようになっていた。
味もまずまずの高評価を得ている。
そう、彼にも手作り弁当を渡しているのだ。
少しでも節約して、お色直しは二回したい。
そんな乙女心を彼は馬鹿にするけれど、この年の女にだって譲れない事はあるのだ。
「結婚式、派手になりそうねえ。」
派遣の女子が呆れたように呟く。
その高くて甘い声は、あまり広くない休憩室で全員の耳に届いた。
「そりゃそうよ。あの会長夫人が手を抜くはずないじゃない?」
「お色直しは10回だって?そこまで来たら、もう道化(ピエロ)よねえ。」
同調しながら笑う彼女達。
なるほど。
若い彼女達にとって、結婚という現実はまだまだ遠い未来(さき)の事なのだろう。
しかし10回も・・・。
式が終わる頃には気絶しているんじゃないだろうか。
思わず花嫁を気遣ってしまった。
彼は・・・そう、彼はきっと見事にタキシードを着こなすだろうな。
あの日のように、柔らかな微笑みを浮かべながら・・・全てをそつなくこなす完璧な男。
「ああ、もう!」
おにぎりに箸を突き立て、私は小さく喘いだ。
・・・・・思い出さない。
それが今の恋人に対する最低限のルール。
なのに噂が耳に入る度、彼の逞しい首筋と鎖骨、そして香りを思い出す。
匂いというものはそう簡単に忘れられないのだ。
特に、あの夜味わった彼のセックスは、いまだ記憶から遠退かない。
婚約者は決して下手ではないが、やはり嵐のようなそれとはほど遠く、気絶したことなど一度もない。
物足りなさに身体疼く夜も、少なからずあった。
まったくもって自分の浅ましさに辟易するが、こうなってくると彼。菊正宗清四郎の魅力を深く認めざるを得ない。
たった一度の夜をこれほどまで強烈に印象付けるとは・・・正直、驚かされる。
『参ったな・・・』
私は歯噛みしながらも、一口サイズのおにぎりに齧り付いた。
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パーティ当日。
この日の為に選んだドレスは淡藤色。
パンプスもそれに合わせて新調した。
開場は午後四時。
私はちょっとだけ早くタクシーで乗り込む。
ギリギリまで仕事をしていた男性社員たちが、同じタイミングで慌ただしく駆け込んでいた。
恋人である大樹はどうしても外せない仕事があるため、ずいぶん遅れての参加と聞いている。
―――エスコートして欲しかったな。
私は、少し気落ちしながらも化粧室へと向かった。
折角のパーティ。
こうなったらたっぷり飲んでやる。
そんな気合いと共に・・・・。
しかし足を踏み入れた瞬間、甲高い、どちらかといえばかなり耳障りなぶりっこ声が飛び込んできた。
「ええーー?!弥生ったら磐乃井(いわのい)君にも手、出しちゃったの?」
磨りガラスで出来たパーティションの向こう。
少し奥まった場所でメイク直しをしているらしい女子社員達の声。
磐乃井――それは恋人の名字だ。
偶然?
決して小さくはない会社で、しかし彼のように珍しい名前は二人といない。
「ちょっと・・そんな大きな声で言わないでよ。」
慌てた様子で小声になったものの、話を止めるつもりはないらしい。
「だって・・・そりゃ驚くわよ。弥生ってほんと肉食なんだからぁ。」
「ふふ、内緒よ?ほらあの人、恋人いるじゃない?」
「あぁ、あの美人だけどおっかなそうな・・・」
確信の色を帯びてきた会話に、私の足はビクリとも動かない。
目の前の景色が次第に青く、そして灰色へと変化していく。
しかしそれでも頭だけは回転し続けた。
━━━弥生?たしか彼の部に『田神(たがみ)弥生』という可愛い女の子がいた。
・・・となると、やはりこの話は・・・・・彼?
気付けば、タフタ素材のドレスを強く握りしめ、掌に汗までかいていた。
━━━シワになってしまうではないか。
そう思い、慌てて手を開く。
「それに他人(ひと)の男は美味しそうに見えるじゃない? 磐乃井君、一見真面目そうで一途に見えるけど、やっぱり今の彼女に不満があったんじゃないかな?」
『ふふ』と笑う女の首を今すぐ捻り潰したくなったが、しかし、私はそうしなかった。
長く静かに深呼吸をし、足音をたてないよう化粧室を立ち去ると、ホテルのメインロビーへと向かう。
既にたくさんの招待客でごった返していたが、何とか片隅の空いたソファを見つけ、そこに座った。
身体が急激に重く感じ、自然と肩が下がった。
‘取り乱さない’
それはここ数年で身に付けたスキル。
不思議な事にショックはそこまで大きくもなくて、ただ何となく、彼も普通の男なんだなぁと実感させられた。
過去の恋人に浮気された事は何度かある。
だからもちろん対処は心得ている。
心を押し殺し、ただ沈黙すれば良い。
イイ男を摘まみ食いしたがる女など、どこにでも転がっているのだ。
人の良い彼はそれに引っ掛かっただけ。
私さえ我慢すれば、これからの二人の関係に何の変化も起きないだろう。
いつかきちんと結婚も出来る。
幸せな家庭だって作れるはずだ。
そう何度も自分に言い聞かせ、気を鎮めていると、鼻を掠める懐かしい香りに気付く。
クラシックな柄の絨毯から、のろり、視線を上げると━━━
そこに佇んでいたのは、いまだ記憶に鮮やかな「菊正宗清四郎」であった。
・・・あの時より更に貫禄が備わっただろうか。
理知的な黒い瞳がキラリと輝く。
ああ、やっぱりイイ男ね。
彼は声をかけようか迷った様子で視線を彷徨わせ、やはり、と決心したのか、大きく一歩近付いた。
「久しぶり、ですね。まさかうちの社員とは・・・」
━━━うちの社員。
彼の立場が窺い知れる、その台詞。
そう。
‘菊正宗清四郎’は本社の円卓に並ぶ15人の内の一人。
会長の秘蔵っ子と評判の人物なのだ。
次期会長候補である豊作にとっても大切なアドバイザー。
その他にもブレーンは複数存在するが、彼ほど優秀な男はさすがに見当たらない。
そして━━━
会長の愛娘を手に入れたとなれば、彼に逆らえる人間は実質、一人として居ないだろう。
ここ数年で、幹部クラスの顔ぶれも随分と変化した。
徐々にではあったが、頭の固いお偉方から、若くて精力的な人材へと入れ替わりを見せていたのだ。
「お久しぶり。ちっとも変わらないのね。」
努めて冷静に挨拶をする。
助けられた感謝を改めて告げるよりも先に、彼との夜が脳裏に浮かんだ。
まるで久々に会った元カレのように、ゆらり、心が揺れる。
気取られないよう、当たり障りの無い会話を数言交わし、それでも緊張に唇を震わせていると・・・
「具合でも悪いんですか?顔色が・・」
そう覗き込み心配する彼に、私は一瞬で縋りつきたくなった。
‘あの雪の夜みたいに私を助けてほしい’、そんな甘えた考えが頭を過ぎる。
見れば見るほど彼は良い男だ。
スマートに着こなしたフォーマルスーツ。
淡黄色のタイは華やかな場に相応しい。
カフスボタンに光るエメラルドは彼の誕生石だろうか?
職人技が垣間見える見事な出来映えだった。
全てのチョイスにこだわりが見て取れ、あの夜の彼もそうであったと思い出す。
━━━大樹の優しい笑顔が好きだったはずなのに。
手酷い裏切りは、そんな確固たる恋心をも朧気にさせてしまう。
心だけじゃなく、身体が疼くのは仕方のないこと。
たとえもし彼を許したとしても、乾いてしまった感情から目を背けることは、さすがに出来そうに無かった。
そして・・・・・
私は今、目の前に立つこの男の香りに惑わされている。
━━━━他人(ひと)の男は美味しそうに見えるじゃない?
『田神(たがみ)弥生』の嘲笑うかのような声が脳裏を掠める。
そして私はその言葉に何故だか共感してしまった。
頭の中でもう一人の自分が嬉しそうに囁く。
━━━━好みなんでしょ?奪ってみたら?
「そうね・・・・」
━━━━それも悪くないわね。
覗き込む彼に弱々しい微笑みを見せ、胸を押さえる。
白々しい演技だと思われても構わない。
彼に少しでも心配して欲しかった。
「気分が悪いの。・・・・どこか休める場所に連れて行ってくれないかしら?」
相当顔色が悪く見えるのだろう。
彼は迷うことなく頷いた。
そしてその長い手を優しく差し伸べる。
「確か、控え室が二つあったはずです。そこで休んでください。」
「ええ・・・」
寄りかかるよう力を抜けば、彼の腕が少し強張ったように感じた。
そりゃそうよね。
婚約者の居る身であまり褒められた姿じゃないもの。
招待客の中に、私たちの関係を勘ぐる人間が居ないとも限らないわ。
今回のパーティはマスコミがシャットアウトされているけど、噂というものは得てして尾ひれがつくものよ。
そんな事、彼ならきっと解ってるはずよね?
「悠理!」
許されていると感じ、もっと大胆に腕を絡めようとした矢先・・・・
彼はもう片方の手を挙げ、一人の女性に声をかけた。
「清四郎!」
天真爛漫とはこういうことを言うのだろう。
透けるような薄茶色の髪が揺れ、大きな瞳を輝かせ振り向く彼女。
菜の花色したタイトなドレスは、その見事なスタイルを見せつける。
括れたウエストから伸びる脚は、きっとハイヒールでなくても充分に長い。
そしてその笑顔。
愛されていると疑わない、その完全なる笑顔。
幸福の絶頂にいるだろう女を、彼は嬉しそうに手招く。
「ん?どったの?」
「ああ・・・・、彼女は昔のちょっとした知り合いでね。具合が悪いみたいなんだ。秘書に控え室へ案内するよう伝えてくれないか?僕はそろそろ壇上に向かわなくてはならないから。」
「わぁったよ。」
「それが終わったら急いで来なさい。プログラム上、婚約のお披露目が先だから。」
「ん。OK。」
’悠理’と呼ばれた幸せそうな彼女は、彼に代わって私の腕を取る。
優しい表情を浮かべた彼は、慣れた手つきで素直に言うことを聞く婚約者の顔を引き寄せ、おでこにそっとキスを落とした。
数秒後、名残惜しいとばかりに離れると、「では・・・僕はこれで。」とポーカーフェイスを取り戻し、颯爽と立ち去る。
私は唖然とした。
一度ベッドを共にした女を、婚約者と二人きりにする男。
全ての事があまりにも想定外で、思わず笑ってしまう。
「何?」
不思議そうに見つめる令嬢は確かに美しいが、少し幼く見えた。
「彼・・・・素敵ね。とても魅力的だわ。貴女が羨ましいくらいよ。」
これは、不幸な女からのささやかな意地悪だ。
すると彼女は表情を一変させ、にやりと口端を上げる。
まるで何もかも見透かした小悪魔のように・・・。
「あいつにちょっとでも手ぇ出したら、日本に居られなくなるじょ?」
あら、怖い。
だって仕事を失うわけにはいかないのよ、私。
そんな馬鹿な事出来ないわ。
ちょっと前までの愚かな考えを完全に消し去りにっこり笑うと、彼女から腕を抜き、軽く会釈をする。
「一人でも大丈夫よ。ホテルのスタッフに聞くから。」
「そう?」
「ええ、ありがとう。お幸せにね。」
素直な彼女は最後まで心配そうに見送ってくれたけど、私は振り返ることをしなかった。
ほんと、馬鹿馬鹿しいくらいラブラブなのね。
私の知っている彼はもう存在しない。
穏やかな顔の下で隠し持つギラギラとした欲望も、今はすっかり落ち着いたように見える。
たった一人の為に振りまく優しいオーラ。
そんな彼の側で、健気なほど幼い仮面を被りながら、それでも隙無く目を光らせている可愛い恋人。
━━━━私もそうすれば良かったのかしらね?そうすれば「田神弥生」が付け入る隙もなかったのかしら。
どちらにせよ、起こってしまったことは仕方ない。
彼との未来をどう決めるのか、そして田神弥生をどうするのか。
このパーティの間、じっくり考えるとしましょう。
それに・・・もしかしたら素敵な出会いが転がっているかもしれないしね。
「素敵なお姉様。ハンカチを落とされましたよ。」
フロントへ向かおうと足を踏み出した直後、軽やかな声がかけられる。
振り向けば、ちょっとお目にかかれないほどハンサムな金髪の美青年。
━━━━ほら、こんな風にね?救いはどこにでも転がってるでしょ?
私は今宵を楽しむため、極上の笑みを浮かべながら、彼へと一歩踏み出した。