次の日──
いつもと変わりない朝。
さすがに夜更かししすぎたのか、寝坊してきたユキノに「はよっ!」と挨拶だけして学校へ向かう。
あたいは一睡もしていない。
でも頭はすっきり、晴れ渡っていた。
目的が定まったからか、もうモヤモヤとした鬱憤を感じない。
全部魅録のおかげ。
やっぱあいつは良いダチだ。
名輪の車から飛び出し、中庭を抜け、玄関に辿り着く。
クラスメイト達からチラホラ挨拶をされ、上履きに履き替えると、沈んだ声で慰め合う男たちを見つけた。
確か白鹿野梨子の親衛隊。
いつも木の陰から覗き見している奴らだった。
「やっぱりそうか………」
「黄桜さんが言ってたんだから、ほんとだろ?」
黄桜?
ああ、あの派手な女。
うちのクラスではかなり浮いている方だ。
人のことは言えないけど。
「白鹿さんには菊正宗君がお似合いだもんな。分かってた事だけど辛いよ。」
「だけどまさかほんとに付き合ってるなんてな。あーあ、夢こわれちゃった。」
─────何?何の話をしてるんだ?
足が止まり、ついでに息も止まった。
菊正宗が、あのおかっぱ頭と付き合ってる?
いや───確かに仲は良い。
大昔から。
当たり前のように側にいて、毎朝一緒に登校してて。
でも………
でも…………
あいつは…………
頭がブン殴られたように痛む。
胸はそれ以上。
苦しくて、息の吐き出し方も忘れてしまった。
嘘だ。
いや────本当なのかもしれない。
黄桜が噂の出所?
同じクラスのあの女が………嘘を吐く意味がない。
地面が歪む。
眩暈のような、立ちくらみのような。
下駄箱に凭れ、目を瞑る。
なんだよ───
なんなんだよ───菊正宗清四郎!
おまえ、一体なんなんだよ!
吐き気がする。
気が付けば、無意識に唇を手で擦っていた。
くそ。
くそ。
嫌いだ。
嫌いだ、あんなやつ!!
なのに、どれだけ擦っても感触が消えない。
「こんなところで立ち止まらないでくださいな。通行の邪魔ですわ。」
いつもの嫌味な声が耳に届く。
恐る恐る目を開ければ、おかっぱの隣に奴の姿が。
噂が真実であるかのような親密さで、二人は並びこちらを見つめていた。
「おはよう、剣菱さん。」
爽やかな声と笑顔。
何もなかったようなその態度。
胃がキリキリ痛んだ。
怒りともどかしさと、ほんの少しの期待。
いや…………
もう、何も聞かないでおこう。
無駄に悩まないでおこう。
いつものあたいで居ればいい。
いつもの馬鹿で脳天気なキャラを突き通せばいい。
何も始まっていないんだ。
何も始めちゃだめなんだ。
ゆっくりと下駄箱から離れ、スカートの裾を叩く。
顔を持ち上げ、挨拶を返そうと二人を見た時、不意に涙が一筋、こぼれ落ちた。
不覚!!!
慌てて袖口で拭う。
だけど菊正宗と白鹿の目にはしっかり捉えられていた。
口が開かない。
慌てて踵を返し、逃げるように立ち去った。
行く先なんか決めていない。
ああ、でも教室はイヤだ。
二人がいる。
どこへ………
どこへ??
猛ダッシュで辿り着いた先は、いつものサボリ部屋。
扉を開け、勢いよく飛び込み、鍵を閉めようと振り返った時、まさかの人物が強引に割り込んできた。
あまつさえ、後ろ手で鍵を閉めてしまう。
「なにしにきたんだ!菊正宗!」
息は乱れていない。
髪を掻き上げた額に汗一つかいていない。
あたいの足に追いついた?
馬鹿な。
「聞きたいんですよ。」
当然のように話し始める男はやはり宇宙人。
背筋がゾッとした。
「な、何を?」
「涙のわけ。それと…………」
腕を掴まれ、壁に押しつけられる。
「本当に僕のキスが嫌だったのか、を。」
頭がくらくらする。
もう、この男に出す答えなんて見つからない。
「なぁ、止めろよ………」
「どうして?」
「どうして、って………わかるだろ?あたいは………あたいは…………おまえが…………」
「“気になって仕方ない”………ですよね?」
度肝を抜かれる回答。
いや、でも、それは当たってる。
気にならないはずがない。
あんなことされて、あんな風に感じて。
夜も眠れなくなるほど、こいつが気になっている。
「まあ僕も、随分前から君のことを気にしていましたし、これでおあいこかな?」
「………おあいこ?」
「そう。おあいこ。イーブン。」
流れ落ちた涙が奴の手で拭われる。
頬を包むように触れられ、顔が近付いてくる。
何度目かの行為。
綺麗な唇。
男のくせに、荒れてもいない。
ご飯カスすらついていない。
ニキビもなくて、
毛穴もなくて、
綺麗な黒い目が…………近付いてくる。
「剣菱さん…………」
触れる瞬間、菊正宗が呟いたあたいの名前。
優しい声だった。
目を閉じて、唇の感触だけに集中する。
柔らかくて温かい。
何度も啄まれるように吸われ、
何度も齧るように、食べられた。
気持ちいい。
こんなの───癖になっちゃう。
いつの間にやら背中に回った大きな手。
体ごと抱き寄せられる。
「んぅ………!」
密着する胸板に心臓の鼓動が伝わる。
自然と深まるキス。
唇を割り開かれ、忍び込む舌。
菊正宗!
菊正宗!
心の中でそう叫ぶと、身体の奥から熱いものがこみ上げ、閉ざしていたはずの感情がゆっくりと溢れ出していった。
「剣菱さん…………」
もう一度名を呼ばれた後、再び濃厚な口付けが始まる。
初めての領域。
浸食される心。
「あ………きく…………」
途切れる瞬間に呼ぼうと思っても、すぐに塞がれ、絡み取られる。
───言葉なんていらない
そんな気持ちを伝えてくるかのように。
腰が砕け落ち、二人して床に座り込む。
それでも止まらない執拗なキス。
どうしよう。
何も変わらないじゃないか。
こんなの………夕べのユキノと同じ。
いや………もっとタチが悪い?
腰が引き寄せられて、菊正宗の制服の上に乗り上げる格好。
恥ずかしさよりも、心地良さに振り子が揺れ、もう自分では止めることが出来なかった。
「君とのキスは………どうしてこんなに………好いんでしょうね。」
「わか……ん………」
答えさせてもくれない意地悪な男。
何度も何度も、唇が腫れてしまうほど続くそれに、新しい何かが体中を支配し始めた。
「拙いな…………」
「………え?」
「このままじゃ………終われない。」
「??」
背中にあった手はゆっくりと制服の中へ。
タンクトップの中まで忍び込む。
流石にビックリして腕を突っぱねるも、菊正宗の手はあっさりとブラジャーのホックにまで辿り着いていた。
「ま、待て待て!それはヤバいってば!」
「………ですよね。」
大人しく引き下がるのかと思いきや、またしてもキス。
もう何度目かなんて数えてもいない。
口全体で覆われ、丸ごと食べられた唇は、菊正宗の舌で舐め尽くされる。
唾液でべとべと。
普通なら気持ち悪いはずなのに、どうしてされるがままになっちゃうんだろ。
応戦なんて出来ない。
男の欲望なんて、あたいは知らない。
「剣菱さん………甘い………」
掠れた声が腰に響く。
体温よりも熱い舌が絡み、夢の世界へと引き摺り込まれてしまう。
「んぅ………ぁっ……!」
ああ、どうしよう。
こんなの覚えたら、また寝らんなくなっちゃう。
それに────
「と、とにかく待て、菊正宗!」
「………ここまできて?」
「ここもあそこもない!とにかくあたいの話聞け!」
「…………いいでしょう。」
真っ赤な顔で息を吐き出し、心を落ち着ける。
でも奴の膝の上に乗ったままじゃ、説得力なんてゼロに等しい。
「あたいは…………あたいこそ、知りたいんだ。」
「どんなことを?」
「おまえの……………気持ち。」
「ああ…………なるほど。」
思い当たったのか、髪を掻き上げ、神妙な顔を見せる菊正宗。
さっきまでの興奮はすっかり鳴りを潜める。
「僕は、剣菱さんを特別視しています。」
「とくべつし?」
「そう、色んな意味で。たとえば昔のいざこざは僕にとって大きな転機となったし、今は同じクラスになって、とても身近に感じるようになった。問題児としての剣菱さん、副委員長としての剣菱さん、それ以外の剣菱さん。全てに興味があって、とにかくもっとお近づきになりたいと思っているんです。そしてキスは────」
「キスは?」
「若さ故の衝動とでも云うのかな?とにかく君の顔を見ていたら、不意に襲ってくるんだ。欲求が───」
それは決してふざけているわけじゃない、この男の本音。
からかってるわけでもなく、どちらかというと戸惑っている感じがした。
「好き………って言ったよな?」
「ああ、言いましたね。」
「それは………本気なのか?」
「難しい質問です。」
困ったように笑う菊正宗は、大人と子供の境界線にいるかのような表情で目を細め、視線を外す。
「君を好きなのは確かだけど、果たしてそれが一般的な感情かどうかまではわからない。」
「どゆうこと?」
「僕は恋愛したことが無くてね。明確な答えを持ち合わせていないんだ。君に対してはもっと複雑で、厄介な気持ちが入り乱れてて、正直なところ────すごく困ってる。」
また小難しい話が始まった。
こいつ、頭良いんだから、もっと噛み砕いて話してくれよな。
でも────
「あたいにだけ?」
「そう。君にだけ。」
「白鹿とは………」
「野梨子?」
「付き合ってるって………」
「は?そんな噂があるんですか?」
「────違うの?」
「…………!!ああ、さっきの涙はそれか。」
うれしそうに笑われたってこっちは納得いかない。
問い詰めるような目で睨めば、あたいの頬に擦りつくような仕草で優しく触れてきた。
くすぐったい。
「彼女とはただの幼なじみだって知ってるでしょうに。」
「あんなに仲良くて、それ以上の何かがあるかもって思うのが、普通だろ?」
「野梨子を好きなら………委員長選出の折、彼女を庇いましたよ。」
「え………」
「僕は剣菱さんとの距離を縮めたかった。だから良いチャンスだと思ったんだ。」
止まっていた手が再び動き出す。
制服の上からやんわりと触れられる背中。
「ねぇ……キス、しましょう。」
誘惑の声は悪魔のように甘い。
「授業、サボるつもりか?」
「君の口からそんな台詞、似合いませんね。」
ああ…………似合わないな。
本当はこんなことしてるのも、きっと似合わない。
でも今、こいつとのこの時間は捨てられない何か。
疼く身体を、
ときめく心を、
押し殺すのはもう止めたかった。
流されるのならそれでいい。
菊正宗にとって、あたいが特別ならそれでいい。
途絶えることのない甘い接吻を、 二人が求めるのなら続けていこう。
「なぁ………」
「ん?」
「こういうの………いつまでするつもり?」
「二人にとって、もっと刺激的な何かが見つかるまで……ってのはどうです?」
「これ以上に?」
「これ以上に。」
わかったよ、菊正宗。
おまえの気持ちがほんの少し分かった。
退屈な人生はまっぴらごめん。
あたいと同じなんだな。
このキスも触れ合いも、それまでの前菜みたいなもんか。
いいよ。
乗った。
ならそれまでは────
二人きりでキスに溺れるとしようか。
誰にも内緒で。
まるで夢のような世界に漂うんだ。
きっといつかは
夢のような現実が訪れると信じて。
end