夜中───
基本熟睡するはずのあたいが、ここんとこずっと、目が覚めてしまう。
誰の所為?
決まってる、あの男、菊正宗清四郎の所為だ。
唇の感触が、消えない。
消えてくれない。
何度も、何度も触れられ、奴の匂いすら鼻が覚えてる。
抱きしめられた腕は熱く、 自分とは明らかに違う骨格に、胸が疼いた。
そう。
あたいはあの男に疼いたんだ。
魅録には感じなかった、甘い疼き。
魅録には感じなかった、切ない痛み。
菊正宗清四郎だけが…………それをあたいに植え付けた。
そんなもん、知りたくなかったのに。
どうしてくれるんだ。
馬鹿やろう────
どうしてくれるんだよ…………眠れないじゃないか。
・
・
「悠理ちゃん!」
「ユキノ?」
その日、寝不足の頭を揺らしながらダイニングルームに向かえば、朝から珍しい顔に出会えた。
タカシマ ユキノ───
遠縁かつあたいの幼なじみだ。
転勤族の父親の所為で昔から世界各国を飛び回ってて、今は確かカナダに住んでたはず………。
同い年ということもあって、仲は良かった。
七年、いや八年ぶりか?
「悠理ちゃん、変わんないね。」
「ユキノは……………変わったな。」
ちっちゃい頃からお互い、鼻垂れの暴れん坊。
二人して田舎の別荘に出かけ、野原や川でやんちゃに遊びまくった。
日焼けした肌と麦わら帽子がトレードマークの二人。
たとえどれだけ仲良く遊んでも、別れの日がやってくると知っていて、それが無性に悲しかった事、今も覚えてる。
けれど───
今のユキノに、そんな昔の面影はない。
肩まで伸びた黒髪。
細い手足。
おしゃれで可愛いワンピース。
肌はどこまでも白く透明で、爪先はほんのりピンク色。
世界を映す大きな目と長い睫毛だけは昔を思い出すけれど、他の全てはまるで別人のように繊細で儚げに映った。
親の都合でうちに三日ほど滞在することは素直にうれしくて、あたいはユキノの手を取り、中庭へと向かった。
昔はここに父ちゃん手作りのブランコがあって、二人でよく乗ったよな、と話しかける。
「悠理ちゃんは学校楽しい?」
「え?あ~・・・まあ、ふつうかな。」
「彼氏は?」
「か、彼氏??」
「居ないの?」
「んなもんいない!居ないったらいない!」
「そうなんだ。」
「ユキノは…………居るのか?」
聞いてほしそうな顔をしてたから尋ねただけなのに、ことのほかうれしそうな笑顔でこちらを振り向く。
「うん!居る!」
「へぇ、どんくらい付き合ってんの?」
「えっと………四ヶ月、かな?素敵な人なの。一個年上でね………………」
ユキノの恋愛話にそこまでの興味は無かったが、ふと気になっていたことを口にしてみた。
自分でも何で聞いてしまったのだろうと、後から後悔したけど。
「もう、キス………したりしてんの?」
「うん。とっくだよ。」
「それって………恋人だからだよな?」
「うーん、どうかなぁ。今の彼が初めてじゃないし、好きなタイプだったらキスくらいしちゃうかも。」
あっけんからん。
あまりにも発展的な考えに………あたいはついて行けなかった。
海外で暮らすと感覚って変わるんだな。
でも自分だって、あの男とキスしている。
あまつさえ感じてしまってる。
真っ当な理由も関係も存在しないのに、ただキスの心地よさに溺れ、身を任せていたんだから、反論する余地はない。
「そっか…………」
あいつは“キスしたいくらいには好き”と言った。
それって………どういう意味なんだろう。
好みとかってこと?
軽いな。
なんか、すごく軽い。
いや、でも………重くても困るんだけど。
「悠理ちゃんは?キスしたことある?」
「ふぇ??いや、ナイナイナイ!!」
嘘を吐く。
「へぇ………美味しそうな唇してるのにね。」
「な、何言ってんだよ!馬鹿!」
長く離れていると話が噛み合わない。
いやユキノが変わりすぎたんだ。
もうあたいよりずっと先に進んじゃってるのかもしれなくて───すごく大人に感じた。
昔みたいに無邪気に転げ回ることは無いんだろうな………。
そりゃあたいだって、相当な不良娘だけどさ。
「ユキノ。」
「なぁに?」
「今夜、ダチと遊ぶんだけど、一緒に行く?」
「悠理ちゃんのお友達?うん!会いたい!」
「ちょっとクセある奴らだけど、いいよな?」
「ぜんぜんOKだよ。」
「よしっ!じゃ、ガッコ行ってくる。」
ユキノは昔と変わらない素の笑顔で応えてくれた。
心があったかくなる。
幼なじみって、やっぱ───良いな。
うん、良い。
・
・
その夜はいつもより多くの族仲間が集まっていた。
馴染みの店は街から外れた場所にあって、バイクも制限無く駐車出来る。
マスターは四十代(自己申告)のちょっとオネエ的な何か。
あたいたちは無法地帯のそこが気に入っていた。
ユキノは案の定、族仲間に人気で、「女が来た!」と喜ぶ奴らはとことん失礼だった。
じゃあ、あたいは何だってんいうんだ!
そう叫べば、「悠理に女なんて感じねぇよ!」と返され、撃沈。
そりゃそうだ。
だけど正論も時には人を傷つけるって、知ってるか?
魅録はそんなあたいを「悠理は悠理だから付き合えるんだ。」って慰めるけど、その時は何故か誤魔化された気がして不機嫌になった。
酒が進み、歌を歌い出す奴、バイクでひとっ走りしてくる奴、マスターに口説かれる奴、彼女に振られたと泣き出す奴───それぞれが勝手に盛り上がり(下がり)始める。
そんな中、いつの間にかユキノが姿を消していて、あたいは店の中を一通り探したが、見つけられなかった。
慌てて外へ出る。
煙草の自販機が三台並ぶ横に古びた電話ボックスがあり、よーく目を凝らせばその中で、ユキノは男と抱き合い、キスしていた。
相手は哲平───つい最近、「年下の恋人が出来たんだ。」と喜んでいた奴だ。
二人は長くそこに留まり、何度も口づけを交わす。
他の誰かなら、目を逸らし、何も見なかったフリをしただろう。
酒の勢いだって相当なものだ。
あたいですらほろ酔い加減。
間違いだって───起きれば起きる。
でもそこにいるのは幼なじみのユキノで、嬉しそうに話してきたあの内容を思い出せば、ギリッと奥歯に力が入った。
大股で電話ボックスに近付く。
まだ気付かない。
二人とも夢中な様子で、ともすればそれ以上の何かをおっぱじめそうだった。
自分でも頭に血が上っているのは分かっていた。
けど、足は止まらない。
あと数歩───
そこまで来た所で、後ろから強引に腕を掴まれ、来た方向へと連れ去られる。
マルボロの香り。
間違いなく魅録だ。
「離せよ!魅録!」
「邪魔すんな。酔ってんのか?」
「ちがっ………!でもユキノは!あいつはっ………!」
店の外にあった腐りかけのベンチに突き飛ばされ、あたいは魅録を睨みつけた。
「…………あんなのおかしいだろ………ユキノには恋人が居るんだ。哲平にだって………」
「だから?」
「だから───」
「おまえが口出しするのはおかしい。邪魔するのはおかしい。………言ってること解るか?」
魅録は煙草一本取り出すと、それを咥え、火をつけた。
そしてあたいの口に無理矢理挟み込む。
「まぁ落ち着けよ、悠理。最近ちょっとおかしいのはおまえだ。」
「あ………たい?」
「どうかしたのか?話くらいなら聞いてやれるぞ。」
おかしいのはあたい?
おかしくさせたのは────あの男?
簡単にキスなんかしやがって。
恋人でもないくせに。
恋人にしようともしないくせに!
訳の分かんない話で煙に巻かれて………
本当のことは何も言わないくせに。
「キス───」
「あ?」
「キスしろよ………あたいに。」
「おまえ…………やっぱ酔ってるな。だからウォッカは止めとけって………」
「いいからしろよ!!!」
煙草なんか要らない!
酒にだって酔えない。
夜も眠れない。
あの男の唇が記憶から消えない。
胸は痛み続け、体は疼く。
どうしたらいい、なんて、誰も教えてくれない。
宙ぶらりんのあたいを………誰が………………
ギシッ…………
隣に座った魅録は、あたいの手から煙草を取り上げ、遠くへと放り投げた。
「…………わりぃ。茶化すつもりはなかった。何か悩んでんのは知ってたけどよ。俺も………そんな気の利く方じゃねぇから。」
「…………ごめん、あたいもおかしいって解ってる………」
肩を抱かれ、夜空を見上げる。
あの日よりもほんの少し欠けた月が、真っ白に光り輝いていた。
雲一つ無い真っ黒なキャンバスに、一点の白。
「キスしたいか?俺と。」
あたいは首を振る。
横に。
本当にしたい相手はもう分かってる。
記憶の上書きが出来ないことも。
夜眠れないくらいなら、とっととぶつかった方が良いってことも───全部分かってる。
「ごめんな、魅録。ダチはこんなことしないよな。」
「うーん………まあ、その時の雰囲気ってのもあるけどよ。少なくとも俺はしねぇな。」
「あたいがダチだから?」
「ああ、特別なダチだ。これからも長く、おまえとは付き合って行きてぇ………」
肩を掴まれた手に力がこもる。
菊正宗清四郎とは違う温度で。
あの腕とは全く異質な感触で。
「あんがと………魅録。」
月が狂わせたなら、月が出ている内に決着をつけよう。
あの男との関係に───意味を与えよう。
あたいはもう迷わなかった。
それに、たとえ馬鹿だとしても、こんな不安定な自分は大嫌いだった。
夜は眠りたい。
ぐっすりと。