本編

恋も、愛も、友情も───
まだその手に掴めていない、そんな若者たちのお話。

 

どうやって帰ってきたんだろう。

──あぁ、流れてきたタクシーに押し込まれたんだった。

あの男に。
菊正宗清四郎に。

 

あれから涙も止まり、空を見上げるつもりで顔を上げたら、菊正宗の目とかち合った。
複雑な表情と穏やかな瞳。
唇に視線が奪われてしまうのも当然のことで、あたいはほんの少し濡れたそれをマジマジと見つめた。

「もう………帰った方がいいね。」

「……………。」

「いくら暴れん坊の君でも、そんな顔をしていたら、変な男に付け込まれるよ。」

何言ってんだ?
あたい、どんな顔してんの?

慌てて涙の残骸を擦ろうとしたけど、菊正宗の手の方が、一瞬早かった。

「…………泣かせるつもりはなかった。ごめん。」

指でそっと拭われる水滴。
自分でもわかる、腫れた瞼。

「あたい…………おまえのこと、よくわかんない。」

「うん。そうだと思います。でも、僕は剣菱さんのこと、少し分かった気がする。」

「何言って…………」

反論しようとしたら、人差し指が口に当てられ、諦める。

「可愛い人だね。」

思いがけない台詞にスパークする頭。

「……………ば、馬鹿やろ!なんだそれ!?」

「思ってたよりずっと可愛い人だ。」

もう一度強く抱きしめられ、ようやく全てから解放される。
温もりからの解放。
熱い腕が速攻で恋しくなった。

そこへタイミングを見計らったような、黄色い灯りが近付いてくる。
菊正宗は手を挙げ、一台のタクシーをとめた。

「また学校で。」

半ば無理矢理押し込まれた後、振り向けば、奴はずっとこっちを見つめていた。
小さくなる黒い影。
切なく痛むあたいの胸。

 

家に着いてすぐ、洗面所の鏡に映った自分は、ほんとに酷かった。涙で腫れた瞼は濃いめのアイシャドウが滲んでいて見るも無惨。

「うわ、ぶっさいく。」

唇………には元々何もつけていない。
素肌と素肌。
菊正宗の唇が重なり、触れた場所。

「キス…………あれがキスか………」

そっと確かめてみると、奴の感触がよみがえってきそうで、慌てて指を離した。

どうしよう………

あれは間違いなくキスで、前回のような簡単な触れ合いじゃあなかった。
風と勘違いするような………そんな軽いものじゃない。

───どういうつもりだ?

それは自分への問いかけ。
本気で逃げようとしなかった自分への。

寝室に差し込む青い月明かり。

眠れそうもない、こんな夜は…………
だからディスコで踊りたかったのに。

明日は土曜。
その次は日曜。
月曜日までまだ遠い。
学校まで───────まだ遠い。

 

 

「悠理?なにボケてんだ?」

「あ?うわっ……ぎゃ、もったいねぇ………ビールが!」

日曜は魅録と遊ぶことが多くて、この日も行きつけのクラブで族仲間と騒いでいた。
ひときわ目立つピンク色の頭。
この男を崇拝する多くの仲間たち。

胸元にこぼれたビールを払い落とし、おしぼりをもらう。
どーもカッコつかないな。
理由は解ってるつもりだけど。

「なぁ、悠理。そろそろケンカしたくねぇか?」

「え?」

「ほらあそこ。南中の連中が俺らを見てるぜ。」

いつの間に入り込んだのか。
クラブの端っこにめんどくさそうな面構えの奴らが5………いや7人ほど居て、こっちを見ている。
その内の一人とは一ヶ月前にやり合った記憶があった。

「いいよ。いつでも。」

「そうこなくちゃな。」

ニヒルに笑う魅録は、やっぱりあたいの扱いが上手だ。
気分が上がる。
ワクワクする。
強さを確かめる事で、自分の立ち位置が明確になる。

暴れるだけ暴れたら、眩しい月の夜もぐっすり眠れるはず。
別にそれだけが目的じゃないけどさ。

結局、クラブの裏で始まった乱闘は圧倒的にあたいたちの勝ち。
周りを取り囲み囃し立てる族仲間は一切手を出してこなかったから、二人だけの実力だ。

「はぁ~、楽しかった!」

「いい汗かいたな。よしっ、このままナンパしに行こうぜ。」

「ナンパだぁ?なんであたいが───」

男と間違われる事もしょっちゅう。
でもまさか女引っ掛ける為に利用されるなんて、考えてもみなかった。

「悠理が居てくれたら、良い女が引っかかりそうなんだよ。」

「ケッ、何言ってんだ。自分らだけで楽しめよ。あたいはもう………帰る………」

ふと、路地の入り口から視線を感じ、振り向く。警察だったら流石にヤバいからな。

でも目に飛び込んで来たのは菊正宗清四郎、その男だった。
紺色のジャケットに白いズボン。
隣には奴とよく似た女の姿。

遠目でも分かるほどの美人だった。

────なんだ、この偶然。

でっかい繁華街の雑踏。
それもこんな路地裏。
前回同様、“たまたま”なんて言葉、信じたくないぞ。
かち合う目と目。
お互い同じ事を考えたに違いない。

「清四郎、何してんのよ?」

強引に腕を掴まれ、大人しく去ってゆく姿は見慣れない光景だ。

恋人───にしては大人っぽいな。
となると、おそらく身内か。

どうでもいいことだけど気になる。

 

「おい、悠理。行くぞ!」

「あ、うん。」

結局、魅録のバイクに跨がって、横浜へと向かう。
その日の成果はまずまずで、解散したのは深夜二時。
帰るのも面倒くさくて、そのまま海を眺め、夜を明かした。

朝───いや、昼過ぎに学校へ到着し、睡眠不足の頭で授業を受ける。
我ながら真面目。
気になる男の視線は痛いほど注がれたままだけど。

 

「剣菱さん。ちょっと手伝ってくれる?」

放課後、そう言って連れて行かれた古い資料室はあたいが時々、マンガを読む為に使う小さな部屋だった。
ようするにサボる為の空間。
人気はほとんどない。

扉を開け、入った瞬間、菊正宗が壁に押しつけてくる。
それはなぜか予想が付いていた為、驚かない。
何故か…………なぜだろ?

 

「なんだこれ。や、め、ろ、よ!」

「イヤです。」

前と同じで、後頭部を掴まれ、引き寄せられる。
ん?前よりほんの少し強引?───気のせいか。

「おまえ………ほんとわけわかんない!!」

「言いましたよね?僕にもわからない、と。」

「じゃ………何で…………」

尋ねる事すら出来なかった。
固定された頭と、近付いてくる顔。
触れあう唇はやっぱり素肌で───

くそ………気持ちいい。
何なんだよ………これ。

くっ付いては離れ、またくっつく。
時々深く触れ合って、その先には一体何があるんだろうと思うけど、菊正宗はいつも躊躇うように離れた。
何度も…………時を忘れるほど…………何度も繰り返す。

「……………ふぅ。気持ちいいな。」

「…………こんなの………やっぱ、おかしいぞ? 」

「そうかもしれないけど、剣菱さんも悪くない顔、してるよね?」

「知るか!」

奴の胸にもたれたまま詰ったって、説得力はありゃしない。
上り始めた熱がお互いの制服を通して、全身から伝わってくる。じわじわと蒸されるように、息苦しさすら感じて。

何の好奇心なんだろう、いったい。

この男はきっと特別な感情なんて持っちゃいないはずだ。
あたいがたまたま側にいて、からかえる存在だからこうしてるんだ。
でなけりゃ、女にも見られないような相手にキスするなんてあり得ない。

好奇心────ただそれだけだ。

 

「そろそろ行くから、離せよ。」

「……………。」

「菊正宗?」

「………剣菱さんは、夕べの彼と付き合ってるんですか?仲良さげだったけど。」

「は?」

トンチンカンな質問に思わず笑ってしまう。
魅録と付き合ってるなら、おまえとこんなことしないだろ?たぶん。

「付き合ってたら………どうするってんだ?」

「うーん………そうだね。」

言った直後、腰に回った腕が強まり、奴の体から得体の知れない何かが立ち上った。
ゾクッとする何か。

「決闘?かな。」

「…………は?冗談だろ?」

ケンカなんてしたことないくせに、何言ってんだか。
だいたい正当な理由が無い。

「そう、冗談。」

────やっぱ、からかわれてるのか。

そう思えば胸がズクンと痛む。
何でだろう。
涙までこぼれそうになる。

「おまえの冗談に付き合ってる暇なんてないから…………行くよ。」

「僕が………冗談にしたくないって言ったら、君は困るんだろうね。」

瞬間カチンと来た。

「あたいで遊ぶな!おまえだって…………暇じゃないだろ!?」

「そう。暇じゃない。だから困ってるんです。」

こんなやり取りにどんな意味があるってんだ。
ムカついて、ムカついて、一発殴ってやろうと思った。
それなのに────

「好き………なんて感情、剣菱さんに押しつけたくないから。」

「………………え?」

「お互い暇じゃない。だから縛りつけたくない。意味わかるよね?」

宇宙人と話してる方がまだマシだ。
菊正宗清四郎の言葉はあたいに通じてこない。

でも────今、好きって言ったか?こいつ。

好きって……………
好きって……………

「おまえ、あたいを好きなの?」

「まあ…………なんとなく。」

「なんとなく???」

「キスしたくなるほどには。」

「そ、そんな理由かよ!」

「充分でしょう?僕たちはまだ中学生で、さすがにそれ以上の理由を出すのは早すぎます。」

「???」

チンプンカンプン。
やっぱ、付き合いきれない。

「じゃあ、もう、キスすんな!馬鹿!」

「しますよ。剣菱さんが本気で嫌がらないのなら。」

「なにぃ?」

「それとも…………僕に縛り付けられたいんですか?」

頭に血が上り過ぎて、まともに考えられない。
どうしたらいいんだ、こんな男!
魅録と大違いだ。

「帰る!!」

今度こそ本気で体を捩れば、呆気なく解放され、拍子抜けした。

「また明日。」

ヒラヒラと手を振る菊正宗清四郎。

鼓動の早さは怒りか、それともまた別のものか?

その時のあたいには解らなかった。

解りたくもなかった。