本編

ディスコは大好きだ。
酒に溺れ、騒ぎ、踊り、夜を楽しむ。
同じテンションの人間たちとクタクタになるまで体を動かせば、よーく眠れるんだ。
ディスコ歴三年の楽しみ方。不良娘の特権。

なのに…………今はあんまり足が向かない。

理由は一つ。
菊正宗清四郎という男の存在。

 

 

「おっと。タバコ、落とすなよ?」

「あ、ごめん。」

マブダチとなった魅録の部屋に入り浸るようになって、早半年。
族の頭張ってるこの男が、あたいを招き入れてくれるのは、二人の間に変な感情が湧かないから。
今も、魅録のベッドに横たわってボーッとしてるけど、奴はバイク雑誌に夢中でこっちを振り向きもしないんだ。

男と女。
だけど、トモダチ。

「なぁ、酒飲んで良い?」

「あ?今日は親父が帰ってくるからダメだ。」

「うるさいの?親父さん。」

「…………知ってんだろ?警視総監だって。」

そういうおまえはでっかい族の頭で、そっちの問題は大丈夫なのかよ?って聞きたくなる。

「魅録。」

「ん?」

「おまえ、あたいのこと…………女だってわかってるよな?」

「はは。男じゃねぇな、確かに。」

「なら────あたいと、キス、出来る?」

降って湧いた突然の災難に、魅録は目を丸くし、雑誌を閉じた。
そしてぎこちなくこちらを振り向き、意図を探ろうと必死になる。

「何言ってんだ………悠理。」

「うん、何言ってんだろ。ちょっと聞きたかっただけ。」

「やめろ。心臓に悪い。」

「ごめん。でもあたい、魅録となら、出来るよ?」

「バーカ。───俺はしたくねぇよ。」

だよな?
ふつう、そうだよな?
あたいみたいな色気ねぇ女に手出そうとおもわねぇよな?

なら、菊正宗清四郎はどうしてあんなこと………

掠めた唇は一瞬で、思い出すことも叶わない。
でも鼻に残った奴の香り。
そしてほんの少し絡んだ熱い視線。
それだけが脳裏に焼き付いている。
痛いほど、強く。

拾われた消しゴム。
問題を解く手とシャーペン。
黒くて艶のある髪が風に揺れ、記憶を埋め尽くす。

止めろよ───

止めろ────

静かな嵐であたいの心を乱すな。
まだそんなこと気付きたくない。
今出来る楽しみをずっと追い続けたいんだ。
未来に広がる夢の世界を、目指したいんだ。

 

「ほら、一本だけだぞ?」

差し出された手には冷えたビールの缶。

優しい男。
優しいダチ。

この関係は心地よくて堪らない。

だから好きなんだ。
だから逃げ込んでるんだ。
繭の中で可愛がってくれるこの男の側に。

「あんがと。でもそろそろ帰るよ。」

「送ってこうか?」

「………いいや。一人で帰る。」

でかい屋敷の門をくぐれば、大きな月が路面を静かに照らしていた。

伸びる影。
小さな石を蹴り、追いかけるように歩く。

繁華街まで十五分の距離。
今ならディスコもたくさんの客で賑わってる時間だ。

金はある。
割引チケットも。
派手めのジャケット一枚買えば、きっと場違いにはならないはず────

 

「剣菱、さん?」

何で…………

何で、会っちゃうんだ?
こんなとこで。
こんな時間に。
月明かりの人気ない路地。
あと少しで大通りだってのに。

「菊正宗………」

制服を脱いだ奴は、モスグリーンのセーターと白いシャツ、そして紺色のズボンを履いていた。
手には本屋の小さな紙袋。

「驚いた。やっぱりそうだ。化粧したら随分大人っぽいな。」

「びっくりした。もう十時だぞ?優等生の出る時間じゃないだろ?」

「どうしても続きが読みたくなって、小説、買いに出たんだ。」

「そ、そうか。」

「剣菱さんは…………夜遊び?」

「────まあな。」

「ふ……ぅん。楽しくなさそうな顔してるけど?」

「ほっとけ。」

誰の所為だよ。
おまえだろ?

あれからずっと────ディスコを楽しめない。
夜を楽しめない。

人の娯楽、奪いやがって。
責任とれ!

……………なんて言えず、唇を噛む。

 

「剣菱さん。」

「何だよ。」

「もしかして……あの時のキス、怒ってる?」

ドン!!!

胸を叩かれたような衝撃。
不意打ちのあれは、やっぱりキスだった。
改められた事実に頭が煮える。

「ば、ば、馬鹿やろー!あんなもんキスの内に入るか!!!」

「……………どういうこと?」

「キスってのは………キスってのは…………その…………」

キスって何だ?
好き合った男女が交わすもの?
でも一方的な感情でも出来るのがキス?
やべ、わっかんねぇ。

「あれがキスじゃないとしたら………」

「え?」

「やり直すしかないね。」

「へ?」

月明かりを恨めしく思ったのは、その時が初めてだ。
菊正宗の真剣な顔が近づく。
髪を梳くようにして後頭部が支えられ、あたいよりでかい体に抱きしめられる。

「きく…………」

言葉は出なかった。
影は一つ。
重なり合う唇。
呼吸はゼロ。

途切れる────思考。

「や………やめろ……………」

酸欠になりそうになったとき、僅かに離れた隙を狙い、逃げ出そうとする。
でも出来なかった。
腰が砕けて。

再び覆われる口。
菊正宗清四郎の口。

「んぅ………!」

奴の腕がなきゃ、腰が立たない。

どうしよう!
どうしよう!

魅録────

ビール貰っときゃ良かった!

素直に送って貰えば良かった!

そんな後悔、なんの意味もないけれど。

 

ようやく頭を解放されても、腕は背中に回ったまま。菊正宗の腕が………熱い。

「これでキス、したよね?」

「…………どういう、つもりだ?」

「僕とキス、したでしょう?」

「菊正宗!!」

もう頭がぐちゃぐちゃだった。
涙だって出てくる。
こいつが何考えてるのかわかんない。

「僕は………………見返りじゃないキスがしたかっただけですよ。」

月が陰る。
今更………顔を隠すなんて、ひどいじゃないか。

真っ暗な路地で、
小さな街灯一つに照らされる中で、
あたいはこの男の胸で泣いている。

「わかんないよ……………」

「僕も………わかんないんです。」

「何が?」

「僕自身が。」

なんだ、それ。
なんだよ、それ。

「わかるのは…………剣菱さんの唇が柔らかくて、素敵だってことくらい。」

「…………………馬鹿、やろぅ」

涙は止まらない。
瞼の奥から止め処なく溢れてくる。
モスグリーンのセーターに全部吸い込まれていくけれど。

 

その夜────

あたいは生まれて初めて男の胸で泣いた。

涙の意味もわからぬままに。
胸の痛みに気付かぬままに。