番外編5

抜け出そうとする女シリーズ

 

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何杯目のシャンパンだろう。

5………いや、6か。
彼の手には次々と新しいグラスが運ばれ、テレビで見たことのある人物とにこやかに談笑している。
恐らく、彼に近付こうとする人々は何かしら有益な情報が欲しいに違いない。
計算高さが見え隠れする愛想笑い。
けれど当然のようにその距離で立っていられることを、私は羨ましいとすら感じる。

妻━━━はまだ来ていないようだ。
シャンデリアよりも目映い光を、そこかしこに振りまく彼女が現れたら、否が応でも気付かされる。
だから今がチャンス。
仲の良い派手な友人たちの影も見えず、私はホッと息を吐き、下腹を引き締め、気合を入れ直した。

しばらくするとパーティの主催者が壇上に上がり、スポットライトの下、話し始める。
どうやら今から簡単なゲームがあるらしい。
皆の興味ある視線が一斉に動いた瞬間、私は彼のいる方へと足を向かわせた。もしかすると少し震えていたかもしれない。

 

「おひさしぶりです。」

斜め後ろからの掛け声に、初めこそ気付かなかったものの、彼はゆっくり振り返ると、その涼しげな瞳を軽く見開いた。

ヒュッ……

小さく呑み込まれた呼吸までもが聞こえる距離。
あまりの興奮に胸が焼け付く。

「…………どうして、ここに?」

動揺を瞬時に隠した彼の心情はよくわかる。
周りにいる客たちに気取られてはならない。
私の存在を怪しまれてはならない。

簡単に理由を説明した私は、“恋人”の存在をわざと強調した。
不審に思われては計画がパアになる。
ここは大人しく、偶然を装うのが正しいやり方だ。

「では……結婚を前提に?」

「はい。彼の父親にも挨拶を済ませているので。」

「それは………おめでとうございます。」

ほんの少し、彼の肩から緊張が解け、私もまた胸を撫で下ろした。
あれほどひと悶着あった相手を前に、彼とてなかなか自然には振る舞えないのだろう。
美しい頬に多少の強張りが残っていた。

それを理解した上で私は丁寧に謝罪した。
一粒の疑念も抱かせぬように。
そして今の自分が幸せであることを大げさなほどアピールする。

空虚な時間。それでも疑惑の種を芽生えさせてはならない。

私はコンパニオンを呼び止め、二つのシャンパングラスを手にすると、乾杯を促した。

一つは悪女。
もう一つは……可哀相な愛妻家へ。

「お祝い、してくださいます?」

「………ええ。もちろん。」

綺麗な音を立て、グラスが鳴る。
彼が手にしたグラスには例の薬が混入されていて、無味無臭のそれに気付くことは決してない。
粉末にした状態で手の中に忍ばせておいた薬を、高級シャンパンの泡はさらりと一瞬で溶かしてくれた。

ふふ……マジシャンになった気分ね。

何も知らずそれを飲み干す端正な横顔。
私もまた美しい泡のグラスに口を付け、一先ずの成功に酔いしれる。
とても美味しいお酒だった。

あの老獪な男からは即効性だと聞いている。
どんな男であれ、その効能には勝てない悪魔のような薬だと。

念のため「もう一杯。」と先ほどのコンパニオンを呼び寄せ、グラスを差し出すと、彼は‘仕方ない’といった風に受け取ってくれた。
会場は豪華景品の当たるビンゴゲームで盛り上がっていて、誰も私たちを見留めてはいない。

無意識だろうか。
ターゲットはほんの少しだけネクタイを緩めた。
その額にはうっすら汗が滲んでいる。
違和感を感じているようだが、それを酒の所為だと勘違いしてくれればいい。
薬の効果は時と共に確実に侵食していき、熱く、そして妖しい情動を呼び起こすに違いない。

私は二杯目のシャンパンを半分だけ残し、胸元からハンカチを取り出した。
他愛ない話に頷きながらも、彼の意識はそぞろになってきている。
やがて一分もしない内に、呼吸が乱れ始め、私はようやく「あの………具合でも悪いんですか?」と最小限の声で尋ねた。

「……いや、そんなことは………」

そう言いながらも頬は紅潮し、酩酊したような目つきをこちらに見せる。

彼にこんな隙が生まれるなんて!

出会ってから今までで、初めてのことだ。
それにしても恐ろしい薬………。
本当に安全なのかしら?
健康被害でもあったらどうしよう。

しかしこのチャンスをものにしなくては、私がここにいる意味もなくなってしまう。

「控え室でお水でも飲んで休みましょう。」

そう告げ、会場の外へと促すと、彼は有り得ないほど大人しく従ってくれた。
嬉しすぎて涙が出そうだ。

賑わい増す広間からそっと出た私たちは、ロビーの端にあるエレベーターホールへと向かう。
私が確保した部屋へは一番左側のエレベーターが直通してくれる為、他の誰も乗り込むことは出来ない。

彼は何の疑問を抱かず、廊下の端を身を隠すように歩き続ける。
立場上、ゲストに見られるわけにはいかないのだろう。

「剣菱さん、大丈夫ですか?」

優しく尋ねても返事は返ってこず、意識が朦朧としているのか、時折足を止め、壁にもたれかかり、何かを堪えるよう歯を食いしばっていた。
気は急くがここは慎重に……。
ゆっくりゆっくり。
そして着実に………絡め取らなくては。

ホールにたどり着くと、私は即座にボタンを押した。
一秒も待たずして、軽やかな音と共にエレベーターの扉が開く。
もう………ここからは二人だけの世界。
邪魔者は居ない。

歓喜に震える身体を叱咤し、私は彼の背中をそっと支える。
ジャケットの上から触れただけで、酩酊してしまいそうなほどの興奮がこみ上げてくる。

さっきの薬、もしかして私も少し口にしてしまったのかしら?

そんな誤解が生まれるほど、エキサイトする頭。
エレベーターはあまりにも呆気なく最上階まで到達し、部屋にたどり着いた私はカードキーで禁断の扉をうやうやしく開いた。

「ここ……は?」

怪しげな呂律ながらも、最後の警戒心を見せつける彼。

そう。
ここは控室なんかじゃない。
私が用意した完璧な蜘蛛の巣。
貴方は今夜仕留められる極上の獲物。

「ベッドがあるので横になれますよ。お水を飲んで休んでください。」

よほどの自制心が働いているのだろう。
何度も首を振り、何かと闘っている姿は、涎がこぼれそうなほど美しく、雄々しかった。

「剣菱さん………さ、早く。」

胸を押しつけながら半ば強引に部屋へ押し込み、扉を閉める。
呆気ないくらい簡単に舞台は整った。

今宵一晩………貴方は私だけのもの。

思い描いていた全てのことを実現させるには少し時間が足りないかもしれないけれど、私にとって悲願が叶うこの上ない一夜だ。

もう、何も怖くない。

明日の朝、彼の顔が……たとえどんな絶望に彩られていようとも。
たとえどんな罵りが口から吐き出されようとも。
私はきっと充足感に包まれ、世界で一番幸せな女に生まれ変わっているのだから。
そう……何も恐くはない。

熱い呼吸と激しい鼓動。
ジャケットの下のシャツに覆われた逞しい胸板は大きく動き、うっすらと目を開き苦悶する彼の男ぶりに、私の欲情は溶岩の如く熱く溶けていきそうだった。

ベッドに倒れ込んだ彼は、苦しげに眉根を顰めている。
よほどの葛藤があるのだろう。
未だかつて意志がままらない状態に置かれたことはないはずだ。

「けん………いえ……清四郎さん。」

甘い呼びかけと共に、シャツのボタンを一つ一つ外していると、彼の反抗的な腕がそれを阻止しようとする。

「こんなことは…………互い……の為にならない……」

もちろん、薬はしっかり効いているのだ。
呂律こそかろうじて回ってはいるけれど、強固な態度を見せてこない。
弱々しい抵抗はむしろ物足りないほど。

私は彼の熱を帯びた唇にそっと指で触れ、安心させるよう微笑んだ。

「……これは夢だと思ってください。」

なんてチープな台詞。
再びボタンを外しながら、今直ぐにでもむしゃぶりつきたい唇をじっと眺める。

なんて綺麗な男なんだろう。
なんて魅惑的な輪郭なんだろう。
なんて女を惑わす表情をしているんだろう。

頭が良くて、仕事ができて、その上とことん愛妻家。
こんな男を独り占めする女がこの世に存在するなんて……不愉快で仕方ない。

汗ばむ肌が露わになった頃、私は自らのドレスを脱ぎ捨て、下着姿で彼の上に跨った。
革のベルトはいとも簡単に抜き去ることが出来たし、スラックスの下で脈打つシンボルは私の太ももでしっかり感じとれる。

熱い……そして逞しい。

それは想像より遥かに美しい形をしていて、ただでさえ騒ぐ胸は期待に大きく膨らんだ。
これ以上の脈動は危険かもしれない。

「夢、ですよ……」

もう一度、念を押すよう伝えると、彼の瞼が一瞬苦しそうに閉じたが、私の手が胸板を這えば、その甘やかな刺激にビクリと痙攣し、汗の香りを甘く撒き散らした。

そう……夢の中にいればいい。
私は長年抱いてきた望みを現実に変えるだけ。
悍ましいと感じるほど滾らせてきた情念を、官能の炎で浄化させ、新しい自分に生まれ変わりたいだけ。

「ゆ…………り……」

それは小さな小さな声だった。
妻を呼ぶ哀しげな声。
今、私がもっとも聞きたくない言葉。
瞬間、憎らしさが溢れ出し、生まれたばかりのそれをぶつけるかのように唇を奪い、反射的に口が開いたところへ舌を挿し込んだ。

妻を愛する男を凌辱する歓びもあっただろう。
薬に侵され、まともに動けない男を意のままに貪る愉しみ。

そう……私の恋は、あまりにも醜く歪みきってしまった。
拒否され、嫌悪され、無視されて……心臓の中に毒針が刺さったまま生きてきたのだ。
この男が欲しいが為に、寝たくもない助平爺の相手もした。
汚れた身体はもう元には戻らない。

どうしてここまで固執してしまったのだろう。
どうして犯罪まで犯してしまったの?

今更どうすることもできない。
欲望のまま突き進むしかないのだ。

だからこそ、この一夜を人生で最高の夜に。
彼の吐息も滴りも、肉体の全てを身体に刻み込む。

「清四郎さん…………… 好きです。」

答えなど求めてはいない。
どうせ返ってくる言葉は一つだ。

頬ずりし、再び彼の唇を奪う頃、夜景をのぞむ暗い窓に映った私は、まるで魔女のように………醜かった。