本編
その日の夜──
熱い………それはとても熱い体。腹の中で蠢く欲望を掻き混ぜ、溶かし、酔わせていく。
齧りつかれれば、それは甘い痛みとなり、貪られれば、それは切ない快感となった。
今までかつて経験したことのない荒々しさで、夫は悠理を喰らい尽くそうとしている。
薬のせいか……はたまた………
鍛えられた体が咽び泣くような悲鳴をあげていることを、彼女は自らの肌で感じていた。
「っ……んんっ………!せ……ぁ……ぅ……ん!」
紡ごうとする言葉は片っ端から奪われてゆく。喉がカラカラなのか、唾液はすべて彼が吸い取っていった。
そんな状況下において、夫の張り詰めたペニスを奥深くまで受け入れ、激しい律動に耐え、灼熱の皮膚を感じながら怒りに震える悠理。
あの女には汗の一滴すら味あわせたくなかったというのに……
一体どこまで清四郎を弄んだのか。想像すれば殺したくなる。
「悠理……」
“愛してる”なんて言葉、今は相応しくないだろう。
彼はただの獣となり、悠理を喰らい尽くそうとしているのだ。
その獣欲にせめてもの抵抗を……
悠理は夫の背中に爪を立て、怒りを分散させた。
先ほど目にした悪夢のような二人。
もしかすると……いや、そんなことはないはず……
小さな小さな可能性を一つ一つ揉み潰しながら、汗だくでようやく辿り着いた部屋で、女はまるで勝ち誇ったかのように男を味わっていた。
心が冷える代わりに、頭は炎を纏う。怒りとはこれほどまでのエネルギーを生むのか、と悠理はその時初めて知った。
目の前にいる女狐と初めて会ったのは、確か高校生の時。
美しい顔立ちながらも世間慣れしていない態度が、悠理の中に憐れみを感じさせた。
まさかここまで、夫を慕い続けるとは……想像もしなかった。
貪欲な女の哀れな末路。
しかし彼女の赤い唇が清四郎の喉を捕らえた瞬間、歯ぎしりと共に血の味が広がった。
一体、誰の男に触れているのか
そこにいる魅力的な雄は、間違いなく自分だけのもの
夫であり、父親であり、恋人でもあるその男に、何人たりとも触れてはならない
猛烈な勢いで育つ怒り。静かに爪を研ぎ、女の喉元を狙う。
ストッパーなど掛ける必要もない。彼女の肌を切り裂き、悲鳴をあげさせ、地べたに這いつくばらせたい。涙と恐怖に見開かれる目を、今すぐに見たいのだ。
悠理はあの時、拳を握りしめた。滅多なことで女は殴らないつもりだったが、そんなルールは取り払われ、夫の上にしだれ桜のように寄りかかるこの悪女を屈服させたくて仕方なかった。
しかし──
それを止めたのは清四郎。
朦朧としながらも、妻の殺気を感じ取り、何よりも限界を迎えていたのだろう。
「悠理………来いっ……!」
悪魔を引き剥がし、愛する女を引き寄せ、腕の中にしまい込む。馴染んだ香りを吸い込めば、少しは薬の効果が薄れるかと思いきや、より深く欲情してしまったのは誤算といえば誤算。
どちらにせよ、清四郎の暴走を受け止めてくれる女はこの世に一人だけ。
美しく、強く、しなやかな体。
そして妻の悲壮な顔を見た清四郎は、ようやく思考が動き始めるのを感じた。
「出て……いけ……!」
これ以上見せるわけにはいかない。同じ空気を吸わせるわけには行かない。
暴れる獣を解き放ち、愛する妻の怒りを鎮めなくてはならない。
何か言いたげな悠理の口を塞ぎ、いつもの甘ったるさを封じ、まるで闘いのようなキスを与える。
それはあまりにも直接的で、乱暴でありながらも冴え冴えとした口付け。
破り捨てたドレスの下で熱く燃えたぎる体を思うがまま貪る我欲は、薬の所為だけにするには、少々無理があった。
「せ、せいしろう、大丈夫……なのか?」
荒ぶる清四郎を受け止めつつ、悠理は夫を窺う。
かつてない激しさで求められる事に歓びと戸惑いが交差するも、何よりも気になるのは彼の体調であった。
額の異様な汗を見れば、薬物による影響だと判り、今すぐ医者に診せる必要があるのではないか?と考えるも、逞しい夫に組み敷かれた体がその可能性を奪ってしまう。
箍が外れた……とはよく言ったもので、清四郎の暴走はもはやコントロール不能と言っても過言ではなかった。
「んぁ……!ま、待って…ちょ…っ……!んん!!」
制止しようと試みるも首に噛みつかれ、抵抗を見せれば口を塞がれる。八方塞がりの悠理に容赦ない律動を加え、獣の姿となりつつある清四郎。
「あ!?だめっ………中は駄目だって………!」
夫の絶頂を目敏く感じ取った悠理は慌てて体を捻り、逃げようとした。しかし清四郎の腕はしっかり腰を掴んでいて、それも叶わない。
「悠理……!」
「……!!!」
力強い射精。
濃厚な白濁液が子宮めがけ飛び出してゆく。
背中を駆けのぼるその快感は体に染み付いていて、やがて訪れる恍惚を待ち構えてしまうのはいつものことだった。
何度も腰を押し付けた夫は、最後の最後まで悠理の中に放出を続けた。
嵐のようなセックス。
腰が抜けそうになる。
しかし、彼の獰猛な姿はこの先も続き──
ようやく二人の肌が離れたのは、明け方……空がうっすらと白み始めた頃だった。
薬の副作用なのか、清四郎はぐっすり眠っている。悠理の体はありとあらゆる場所に愛咬の痕が残り、ヒリヒリとした痛みを残していた。
(や、やべぇ………こいつ、普段は手加減してたのかよ……)
夫の真の実力を改めて知った妻は這うようにサイドテーブルへ手を伸ばすと、フロントに「適当でいいから、女物の服と下着、一通り持ってきて。」とオーダーした。
ドレスどころの騒ぎじゃない。
上下の下着もすべて破り捨てられたのだ。
「はぁ……わりと高かったのに……」
がっくりと肩を落とすも、そこへ放り投げたバッグの中から携帯電話の着信音が響く。
「悠理。どうだ?」
それは頼りになる友人の声。
「どーもこーもねーよ……死ぬかと思った………。」
「ははは、お疲れさん。あの女から聞き出した限り、依存性のある薬じゃなさそーだ。安心しろ。とにかく水だけはたっぷり飲ませとけよ。あとで野梨子と可憐を向かわせるから。」
「サンキュ。腹減ったよぉ………」
「食い物は今、頼んである。30分ほどで届くだろ。」
「マジ?愛してる、魅録ちゃん!」
あの時、魅録の機転で悠理のもとに届いた電話。あれがなければ、もしかすると手遅れになったかもしれない。
粘着質な女の餌食に………
蜘蛛の糸に絡まれた夫を想像するだけで、怒りがこみあげるも、悠理はブルブルと頭を振り、健やかな寝顔を見つめた。
「清四郎ちゃんは、ほんっとモテますねぇ……。」
それはいつぞやの台詞。
結婚する前もしてからも、この男を好きになる女はどこかしらおかしかった。
笑顔の裏に隠された腹黒さ。知ってか知らずか、皆、手に入れようと躍起になる。
何がそんなにも惹き付ける?
見た目?権力?それとも……
悠理は自分の心に置き換え、探ろうとした──が、直後、清四郎の瞳がゆっくりと開いたため、それ以上考えることを止めざるを得なかった。
「悠理……」
掠れた声を聞き、悠理は慌てて冷蔵庫から水を取り出す。
そして魅録のアドバイスに倣い、たくさん飲むよう促した。
ひと息ついた夫は、疲れた顔で悠理を見つめた。
その身体に付いた無数の痣を見て、己の愚行を悔やんだが、それでもまだ下半身の熱が全て去ったわけではない。
記憶の断片を手繰り寄せれば、それはあまりにも強い快感で──リミッターを外したことで新たな世界に飛び込んでしまったかのように思える。
「大丈夫か?もっと飲む?」
「あぁ。」
言いながらも悠理の手を握り、そこへ口付けを。
「迷惑をかけたな……」
「………夫婦なんだから、気にすんなよ。」
「すまない。」
逞しい腕に引き寄せられ、夫の胸板に寄り添えば、悠理は焦りや怒りから解放される清々しさを味わった。
「やれやれ………油断しましたね。」
反省の言葉なんて滅多に聞かない。窮地に陥ることなど、そうそうあるはずもない男だから。
「……あの女に抱かれてたら、今頃命はなかったぞ?」
クスクスと笑いながら、悠理は清四郎の乳首を摘んだ。
冗談半分、本気半分。
いや、全て本気か?なにせあの母親の血を継ぐ者。持ち合わせる情がマリアナ海溝よりも深い。
「まあ……その時は殺されても仕方ない。」
「……間に合ってよかったよ。さすがに子どもたちの父親を亡くすわけにはいかないしな。」
そんな愛情深い妻が、いつも人生の先に立っていることを清四郎は知っていた。
懐の深さと情深さ。
どちらも自分には足りないもので、それを補ってくれている悠理が愛おしくて尊い。
「シャワー浴びれそう?そろそろ可憐たちが来るんだけど……。」
「手伝ってくれるなら……」
「…………何考えてるかバレバレだぞ?」
「おや?そうですか?」
昨夜の名残りを見せつけるように、シーツの中で悠理の手を引き寄せる。
「ちょ!?………薬、切れてないってこと?」
「かもしれません。」
嘘だな……と解っているのに、夫の我儘を聞き入れてしまうのも、悠理の深い愛がなせる技。
「い、一回だけなら……」
「努力します。」
獣の夜が終わり、穏やかな朝がやってくる。
一度堕ちた世界から抜け出せず、愛欲の限りを尽くす二人に、もう朝日などこれっぽっちも見えなかった。