「お好きなのをどうぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
案内された場所は重厚感漂うロビーラウンジで、パーティに疲れた客達がちらほら腰を落ち着け、お茶を飲んでいた。
差し出されたメニューを眺めれば、驚くような金額の飲み物が羅列されていて、迷った挙げ句、ダージリンを選ぶ。
私が貰っている時給の約二倍。
なんかとことん情けなくなってくる現状だ。
こんな世界が日常の人と、本当に渡り合えるのだろうか。
不安が募る。
「………で、話とは?」
足を組み、ゆったりとした革ソファに座る彼はアダルトな雰囲気を醸し出していて、文句無しにかっこいい。
同じ年頃の男子と比べるのもおこがましいくらいの色っぽさで、運ばれてきた薫り高い珈琲を一口啜った。
私の前にも高そうな陶器に入った紅茶が置かれ、その鮮やかな深い紅色の液体は、恐らく口にしたことが無いほど高級な味がするのだろう。
そう思ったのだけれど、いざ一口味わってみると、緊張のためか、全くその違いは解らなかった。
でもこれが真っ当な庶民の反応だと思う。
私は震える唇を一度固く結び、それからゆっくりと口を開いた。
いざ、勝負!
小娘の本気でぶつかろう。
「私を…………貴方の側に置いては頂けませんか?」
「……………と言いますと?」
跳ね上がる鼓動。
細められた理知的な瞳で全てを見透かされるような気がする。
頑張れ、私!
「実は、母が逝く少し前、言い残したんです。貴方を頼れ、と。」
こうなったらどんな嘘でも吐いてやる。
たとえそれがバレるような嘘でも、突き通してやる。
私は彼の怪訝な顔を無視し、先を続けた。
「私には身寄りがありません。母と子、本当に二人きりで暮らしてきたんです。来春には学校も卒業します。あるのはこの身一つだけですが、貴方が望むどんな事でもしますから………だから、私を………」
ここは空調も効いて快適なはずなのに、彼から伝わる冷えた温度が私を静かに攻撃する。
そう。
彼は私の提案の意図を正確に汲み取り、怒っているのだ。
いつもの穏やかな笑みが封印され、明らかな怒りを滲ませている。
整った眉の間に皺が寄り、目の前にいる小娘の浅はかな考えに不快感を隠そうともしない。
それでも食らいつくしかなかった。
全てが暴かれた状態でも、勝負に出るしかなかった。
「…………私を買ってください。」
上擦る声で、彼の目を真っ直ぐ見つめながら伝えた。
せっかくのワンピースが皺になるのも忘れ、強く握りしめる。
絵のように整った彼の唇から、どんな蔑みの言葉が放たれようと、受け入れる覚悟は決まっていた。
冷えた汗が背中を伝い、靴擦れで疼いていたはずの踵よりもずっと、心臓が痛みドクドクする。
彼の綺麗な目に、自分は今どのように映っているのか────
そればかりが気になって仕方ない。
「津乃峰さん。」
しばらくの沈黙が破られ、額の汗が耳元へ流れる。
目の前に置かれたおしぼりすら手に出来ない緊張。
涙がこぼれそうだった。
「は、はい。」
「貴女の学校での成績は?」
「え………あ、上位10位以内ですが、英語が少し苦手でそれ以下になることも。」
────何故、こんなことを聞くのか?
さっきまで放たれていた憤りの気配がすっと解け、張り詰めたムードの中、面接される。
彼が尋ねるその意味も解らぬまま、ただ淡々と答える事しか出来ない。
「では、得意科目は?」
「数学と………物理。理系が好きです。」
「大学に進まない理由は経済的な問題だけですか?」
「…………そうです。母が生きていた時は、早く社会に出て働かなくちゃと思っていましたから。」
「親が亡くなった途端、こんな安易な方法を?」
冷えた視線で射抜かれ、反射的に背筋を伸ばす。
ダメなの?
彼の心にはちっとも刺さらないレベルなの?
そりゃあ………あんな綺麗な奥様が居れば、解らなくはないけれど、男なら少しくらい揺れてくれてもいいんじゃないの?
涙が今にも落ちそうだった。
自分のあざとさも狡さも解った上で、真っ向から勝負をかけたのに………
この人にとって私は少しの価値もないのだと思えば、地の底に沈んでいきそうな気分だった。
あの福来の手に汚されてまで請うているのに。
それとも────
もしかして、そんな事情を察した上で、拒否されているの?
福来が持つ何かしらの企みに気付いている?
私たちの不道徳な関係も含めて───
瞬間、ドッと汗をかいた。
それは一番知られたくないことなのに───
彼の洞察眼が優れたものならば、有り得ないことはない。
全て知った上での対峙。
途端に身の置き場が無くなったような気がした。
私は………私は、彼に憧れている。
今までの恋人より強く、欲している。
薄汚いやり方だと知っていても、こんな方法しか思いつかなかった。
裕福な暮らしの為だけなら、水商売でも何でも、遣り方はあるだろう。
だけど───それだけじゃ嫌なんだ。
彼の側に居たい。
夢のような現実を手に入れたい。
この男の側で幸せになりたい。
「…………安易、とは思ってません。私は……誰でもいいわけじゃないんです。」
「………安易ですよ。これはあまりにも浅薄な方法だ。」
「貴方が好きだと言っても!?この先、仕事以外で貴方に会える方法はこれしかないと思ったんです!」
あまりにも下手くそな告白。
けれど私は自分の感情を押し殺せなかった。
他の客が閉口しながらこちらを見ている。
彼の立場を思いやれば、こんな遣り方は拙いと解っていたのに。
「迷惑な話です。正直、心底迷惑だ。」
「…………欠片すら、望みはないんですか?」
「貴女が僕をどのように思っているのか知りませんが、こんなのは恋でも何でもありませんよ。」
バッサリと心を切られ、それはむしろ清々しいほど私を追い込んだ。
「べ、別に妻にして欲しいとは言ってません。…………愛人にしてください。週に一度でもいい。貴方のプライベートな時間を私に下さい。」
「それこそ笑止の沙汰だ。僕にとっての女は妻だけです。確かに金も権力もありますが、過去も未来も、愛人を必要としたことはありませんよ。」
悔しすぎる結果に涙が落ちる。
どうして
どうして、ここまで届かないのだろう。
こんなにも膨らんだ想いを、どうして彼はこんなにもバッサリ否定出来るんだろう。
悔しさは怒りを導く。
私は初めて、彼の無慈悲な態度に憤りを感じた。
弱者を切り捨てるその態度に────
どうせ通じないのなら、せめて紅茶をぶちまけてやろう。
喚き散らして困らせてやろう。
誰かがゴシップ記者に告げ口するかもしれない。
奥さんとの間に亀裂が入るかもしれない。
それくらいの報復でこの人が顔色を変えるとは思えないけれど。
小娘なりの怒りに任せ、ティーカップを手に取ろうとしたその時───
「清四郎!」
怒濤の勢いで彼の妻が姿を現した。
その後ろには福来の小さな影。
バツが悪そうな顔の男は、何故か髪とスーツの肩が濡れそぼっていた。
「悠理?」
「こいつクビだ!」
「クビ?……………どうしたんです?」
「決まってるだろ!あたいのケツ触ったからだ!ふざけやがって。」
途端に彼の気配が変わる。
「一体…………どういうことだ?」
すっくと立ち上がり、妻の元へ。
福来はカタカタと震えながら、それでも地面に張り付いたように固まっていた。
「あたいがデザートに夢中になってたら、後ろからケツ撫で回してきてさ!その上、気持ち悪い声で口説いてきやがったんだ!」
怒り心頭。
美しい顔が憤怒に歪んでいる。
「福来さん───本当ですか?いや……悠理はこの手の嘘を吐かない。本当なんだな?」
「す、すみません。つい………その………出来心で。」
福来の声は聞いたことがないほど小さく、怯えていた。
私にはいつも尊大な態度で接するくせに。
「“出来心”。なるほど。僕の妻と、知っていながら、出来心を抱いた、と?」
台詞一つ一つを区切るように、彼は福来を責めた。
気配はいよいよ暗黒のものへの進化してゆく。
見たことのない、感じたことのない怒りの周波。
私は思わず息をのんだ。
「す、すみません!!何でもしますから、許して下さい。クビだけは───クビだけは困るんです!」
土下座する勢いで頭を下げる福来。
なんてみっともないんだろう。
いい年をした男の無様さに、私の心はどんどんと冷えてゆく。
────あぁ、でも私も同じか。
それこそ無謀な挑戦をしてしまった。
貧しさからすがりつく相手を間違え、恋だと思いこんだ上、安直な安らぎを手に入れようとしてしまった。
ストン
憑き物が落ちたような感覚だった。
意地も、見栄も、蟠りも。
全てがサラサラと消えてゆく。
現実は一つだ。
彼は大金持ちの愛妻家で、今も妻への恋心を隠さない。
福来のスケベ心に本気で怒りを感じるほど、彼女を強く想っている。
理想的な素晴らしい夫婦像。
羨ましさを通り越して、まるでラブロマンスの映画を観ているようだ。
「なぁ、清四郎。あたいのケツはそんなにも安い?」
「………世界一、高いですな。」
「だろ?ちなみにこいつ、どこぞの女子大生を脅して囲ってるらしいぞ。松阪(秘書)から聞いた。」
「ほぉ──ようやく証拠が手に入りましたか。」
「なんだ。調べさせてたのおまえか。」
氷のように固まったままの下らない男を、彼はもはや処置無しと見なしたらしい。
「…………福来さん、しばらく謹慎を。処分は追って伝えます。」
「……………はぃ。」
蚊の鳴くような声で呟く福来。
私はもう、あまりの莫迦莫迦しさに笑いたくなってきた。
しかし────
小さくなったまま消えていった男の次は私だ。
傍らの妻をよしよしと撫でながら、愛妻家の彼は「さて。」と振り返る。
「津乃峰さん。僕は貴女に二つの提案があります。」
「提案?」
この期に及んで何を言い出すのか。
私は蒼白しながら怯んだ。
「一つ目は、将来、剣菱への就職を約束とし、大学に通うこと。もちろんそれなりの大学への合格、卒業が必要ですが………学費は剣菱で全額負担します。」
それは寝耳に水な話だった。
天と地がひっくり返るほどの話。
彼は一体、どういうつもりなのだろう?
こんな薄汚い取引を持ちかけた小娘に、何を期待しているというのか?
「もう一つの提案。…………それは、来春、今バイトしている清掃会社に就職すること。社には寮があるらしく、そこなら家賃も格安で済みますし、食費の補助もあたるとのことです。ただ、勤務地は大阪となりますが。」
どちらかといえば、後者が現実的だ。
けれど………そうなるともう、この人との接点は消え失せてしまう。
それは………今の私にはすごく寂しい。
「どうして………私なんかに?」
「解りませんか?」
「…………はい。」
彼の整った顔に真正面から見据えられる。
それだけでやっぱり胸は高鳴ってしまう。
「貴女のお母様は生前、立ち話で僕に頼んだんですよ。私に何かあれば、力になってやってくれ、と。あの子は賢い子だから、きっと役に立つ、と。」
「……………うそ。」
母さんがそんなことを!?
本当に??
「きっと予感がしていたんでしょう。お母様が亡くなった後、僕が清掃会社にバイトを続けられるよう頼んだんです。身元保証人の無い、まだ高校生の身。これから大変な苦労が待っていると解っていましたからね。それに貴女の素質を知るためでもあった。」
それは嘘みたいな話だった。
彼がずっと観察していた??
それは───
それは、あの福来との関係も全て知っているという証ではないか!
足が震え出す。
無意識に涙がこぼれる。
お母さん
お母さん!
私は
失敗してしまったのね?
大きな過ちを犯してしまったのね?
“慎ましく生きれば幸せになれる”
私はその言葉を否定した生き方を選んでしまった。
大きな幸せを…………逃してしまった。
「清四郎。」
彼の妻は私の顔をジッと見つめながら、夫を呼んだ。
「この女にそこまでする価値はあるのか?」
彼女の言うとおりだ。
私にそんな価値はない。
福来のようなゲスにそそのかされ、身の程知らずな行動に出た。
母の気持ちを踏みにじった。
だけど
だけど、本当に彼が欲しかった。
その大きな肩に包まれたかった。
母が恋した男を手に入れたかった。
幸せはそこにあると信じていた。
「そうですね。僕は………彼女の母親の仕事ぶりを評価していて、そんな彼女の最期の望みを叶えてあげたかっただけです。」
「ふん。おまえって………やっぱ甘いよな。」
「悠理ならどうします?」
「あたい?あたいはおまえに近付く女は絶対にダメ!母親も娘も要らない。」
そう断言する彼女の気持ちは良く解る。
彼の愛を独り占めしてきた女の、それは紛れもない嫉妬。
「でもな、清四郎がそれで満足するんなら、見逃してやってもいいぞ?」
「おや。これまた寛大な。」
「───へへ。よく出来た奥さんだろ?」
愛しげに見つめ合う二人が挨拶のようなキスを交わす。
ごく自然な流れの中で。
私の愚かな行動など、この二人にとっては些細なことなのだろう。
とても割り込める余地が見当たらない。
「……津乃峰さん。どうします?考える時間が必要なら………」
「いいえ!」
私は決めた。
これ以上の醜態は母の遺志に反する。
「いいえ。私はどちらも選びません。お気遣い頂き、感謝しております。けれど、一人で、独りで…………自分だけの力で将来を見つけたいと思います。大変………ご迷惑をおかけしました。」
最後は鼻を啜りながらの情けない退場。
でもこれでいいんだ。
私にはこんな姿が丁度いいんだ。
背中に注がれる二人の視線。
哀れみでも蔑みでもない、ただの視線。
彼らとは世界が違う。
見ている世界が違う。
私はそれを、今度こそ正しく思い知った。
・
・
・
・
「せぇしろちゃん!相変わらず君はモテるねぇ?」
「なんです?その言い方は。それよりあの男にどんな風に触られたんだ?言いなさい!」
「うわ、ヤブヘビ………」
「悠理。いつも気をつけろと口が酸っぱくなるほど言ってますよね?」
「わあってるよ!ゴメンナサイ!」
「その服はもう捨てろ。腹立たしい。」
「わわっ!どこ連れてくんだ!?」
「最上階の部屋です。」
「…………あいつら(双子)、家で待ってるぞ?」
「その前にしっかり消毒をして、僕の匂いに戻してから、帰りましょう。」
「…………帰るつもりなんてないくせに。」
「ほぅ。その覚悟はあるんですね。いい子だ。」
「うひゃ!あ、ちょっと………こんなとこで……………ぁ、せぇしろ……………んっ…………」
「あの男………今度会ったら半殺しにしてやる。」
「…………あたいだって……………あのガキ見たら、許さないぞ?」
「もう、会うことはありませんよ。義理も果たしましたし。」
「ふふ…………やっぱいつもの清四郎だ。」
「さ、お喋りするよりも………」
─────濃厚な二人きりの夜を楽しみましょう。
END