本編

「若いねぇ………さすが、肌に張りがある。」

福来の指は見た目よりも細く、繊細なものだった。
体型は少し小太りで、身長は173センチといったところ。
不摂生が祟ってるのか、肌の状態はあまりよくない。

私は意識をどこかへ追いやり、抜け殻のような、人形のような感覚でやり過ごすことを決めた。
別にこれが初めてというわけではない。
過去に二人ほど恋人は居たし、違いと言えば相手へ何の感情も抱いていないことだけ。
心さえ殺せば、後は時間が解決してくれる。

───そう信じて身を預けた。

男はそんな私の諦めを目敏く感じ取ったのだろう。
わざと弱い部分を攻めるような、そんな指使いを見せ、いたぶった。

「やめっ………」

「僕を満足させなけりゃ、さっきの話は無しだよ?」

憎らしい男。
でもgive-and-takeなのだから仕方ない。

私は結局大人しく、男の思うような反応を見せ、よがった。
瞼に裏に彼、“剣菱清四郎”の秀麗な顔を思い浮かべながら。



福来と過ごした夜が片手では足りなくなった頃、私はとある銀座のブティックに連れて行かれた。
仕事終わりでヘトヘトだった身体をまたしても貪られるのかと思いきや、そのラグジュアリーな門構えに一瞬で疲れを吹き飛ばしてしまう。

「ここは………?」

「来週半ばに慈善団体が行うパーティがある。そこに君を連れていってあげるよ。もちろん、彼も来るからね。」

「え、パーティ?」

まさかあの約束をこんなにも早く守ってくれるとは、思ってもみなかった。
私は思わず福来の顔を二度見する。
男は、こちらの反応にしてやったり。
ニヤリと笑いながら腰を抱き寄せた。

「…………大人っぽくキメてもらえよ?高校生には見えないくらいに、な。」

そこで購入したワンピースと小物は、私の稼ぎのおよそ五倍。
サービスでメイクアップまでしてもらえた。
それを一つ一つ記憶させられ、後から練習するよう伝えられる。
この男がここまでする理由はまだ見えないけれど、それでも“彼”に堂々と会えるのなら、感謝の言葉しか見つからない。

「ありがとう……ございます。」

「ふ………ん………割と化けるな。俺は化粧臭いのは嫌いだが、一般的には良い女の部類に入るだろうよ。」

「こんな雰囲気の女性が……………彼の好みなんですか?」

「…………さぁ?あの人は…………あの人の趣味はよく解らない。だが、少なくともただの高校生では相手にしてもらえないのは明らかだ。」

「…………はい。」

その夜は大荷物を抱え、福来が掴まえたタクシーに乗り、何もせず帰宅した。
化粧した女は嫌い───あの言葉は本当だったようだ。

古く狭いアパートに、場違いなほど煌びやかなワンピース。
ラズベリー色のパンプスも、まるでシンデレラに出てくるガラスの靴のよう。
思わず誰かに披露したくなり遺影の前に立ったが、母の数少ない笑顔は………心なしか哀しそうに見えた。
私の選択を咎めるような───

パーティ当日。
カラオケのバイトを休み、朝から身支度を整える。
開場は夕方五時だというのに、心が浮き立つのはどうしようもない。
風呂場で念入りに身体を磨く。
爪の先まできっちりと。

あの男に買って貰ったアクセサリーは小粒の真珠で、だが本物の存在感はさすがだ。
華奢な鎖が細い首に絡みつき、鏡を覗けばとても上等な女に見えた。

彼に会えるというだけで高揚する心。
ストッキングを履く手が震え、何度も爪を引っかけそうになる。
こんな打算混じりの恋など、褒められるはずはないというのに、私はそれにしがみつくしかなかった。
不純な動機。
誰に嗤われてもいい。
他の誰よりも、彼が欲しい。

贅沢にもタクシーで向かい到着したホテルは、去年オープンしたばかりで、剣菱の財力を感じさせるゴージャスな建物だった。
金色の絨毯に出迎えられロビーを見渡すと、どこもかしこも着飾った紳士淑女で溢れかえっていて、自分が場違いであることが容易に窺い知れる。
ただでさえ若い女は少なく、高校生などもちろん、誰一人として見当たらない。
ドレスアップした私はほんの少し背伸びしただけ。
見る人が見れば、直ぐに未成年とばれるだろう。

「やぁ、来たね。」

福来がいつもの胡散臭い笑顔で私を見つけた。
新調されたスーツと若草色のタイ。
髪も念入りにセットされていて、ムースのくどい香りがこの上なく不快だった。

「上手く化けてるじゃないか。女子高生には見えないよ。」

スケベ心は健在。
腰に回された手は、薄い生地越しに背中をなぞる。

「そうですか?」

足取りもおぼつかない子供に何を言ってるのか。
私は呆れ顔で答えた。

「まだ時間がある。……控え室に行こう。」

「化粧臭い女は…………嫌いじゃないんですか?」

「苦手だよ。でも不思議と君だとそこまで気にならない。」

にやつく男に手を引かれ、鍵付きの小部屋に連れ込まれる。

────まるで本物の娼婦ね。

私は自分を嘲りながら男の前に跪き、その行為に徹した。
ここまで来たら、必ず結果を手にしなくてはならない。
剣菱のプリンスを誘惑し、何としてでも振り向かせ、安定した生活を手に入れてやる。

吐き気を押し殺し、口に含み続ける男根。
噛み切りたい衝動を堪えるのはさすがに辛かった。



パウダールームに入り、何度も口を濯ぐ。
口紅を引き直し、職業病か、濡れた場所を全て拭き取っていると、一人の女性がヒールの音を響かせ入ってきた。

一目で解る。
彼の妻だ。

「あれ?掃除中?───じゃないよな。」

「………ええ、違います。どうぞ。」

「サンキュ。」

凛々しくも甘い微笑み。
化粧はさほど濃くはない。
銀色のチューブトップにタイトな黒のスカート。
横を擦り抜けていく細身の身体は、驚くほど均整がとれていた。
首には見たこともないほど豪華なジュエリーを纏い、その美しい鎖骨を引き立たせている。
細い腕に細い腰。
けしてモデルばりの身長ではないけれど、その圧倒的な存在感には、きっと誰もが目が奪われてしまうことだろう。

高いヒールは履き慣れていないのか、時折カクンと膝を折りながら、トイレへと消えていく彼女。
シミ一つ、デキモノ一つない美しい背中。
メディアで観ていたよりもずっと光り輝いている。

数秒後、とっぷりと見惚れていた自分にようやく気付き、慌てて首を振る。
彼があの人を選んだ理由が何となく解る気がした。
きっと自分には持ち得ない何かを感じ、どうしても欲しくなってしまうのだ。
あの瞳に映りたくて、まるで太陽に手を伸ばすかのように請うてしまう。

凡人と、そうでない人間の差。
私は今、それに気付かされた。
でも───だからといって、凡人が幸せになれないはずはない。
そんな不公平は母さんだけで十分だ。
もしかしたら彼も、一方ではそういう女を望んでいるのかもしれない。
庶民的な女に癒されるタイプかもしれない。

微かな望みを胸に、私はもう一度鏡を見つめた。
今、自分は高校生に見えないだろう。
かといって社会人にも手が届かない。
曖昧な年頃の女を演じるには、それなりの覚悟が必要だ。

慣れないヒールの痛みにも負けず、足を踏ん張る。
必ず彼の視線を奪い取ってやる。
そして大胆に誘惑し、夢のような一夜を過ごすのだ。
シンデレラの階段を昇る第一歩。

私は自分の中のモチベーションを最大限に引き上げると、豪華なパウダールームを後にした。
小さな靴擦れの痛みをひたすらに堪えて。



パーティー会場は、手慣れた司会役の進行でわりと盛り上がっていた。
すぐさま彼の姿を探す。
程なくして視線の端にとらえる事が出来たのは、彼の側にあの美しい妻が居たからだ。

こうして見ると、やはり其処だけ空気感が違う。
さっきまで盛り上がっていた強気がぐんぐんと萎んでゆく。

見目麗しい二人。
まるで世界が違う。
いくら着飾っても、あの中に入り込むことは不可能な気さえしてくる。

「後で彼を紹介してやるよ。奥さんはこっちに任せな。」

福来は耳元でそう囁いた。
私が引け腰になっていることなどお見通しなんだろう。

手に持たされたシャンパンの味は解らない。
これならジンジャエールの方がずっと美味しいと思う。

福来は割といいポジションに立つ男で、招待客がひっきりなしに声をかけてきていた。
皆、隣に立つ私を見て、一瞬、目を瞠る。
そんな人たちへすかさず「親戚の娘」と紹介し、男は適当にその場を濁した。

親戚、ねぇ───
さすがに無理があるんじゃないかしら?

暫くすると歓談の時間が始まる。
テーブルに並べられた美味しそうな料理は、時間が経ってもあまり減らない。
皆、お酒を嗜み、話すことに夢中なようだ。
そんな中、私の意識はどうしても“彼”へと注がれる。
大きな輪に包まれ、いつもの穏やかな微笑みを見せる彼は、たくさんの客を魅了していた。

───奥さんはどこへ?

ふと気になり辺りを見回すと、なんと、彼女は丸テーブルのそばで片っ端から料理に手を付けていた。
取り皿には山盛りの揚げ物。
オードブルの全種類が、所狭しと乗っかっている。

───すごい。

何がすごいかって?
それらがまるでイリュージョンのように消えていくことだ。
豪快な食べっぷりは見た目からは想像も出来ない。
あの細い身体に………どうやって?

空になった皿を放置し、また違うテーブルを彷徨う彼女。
すると私が居る場所に目を付けたのか、輝かんばかりの笑顔で小走りにやって来た。

「やたっ!ローストビーフあるじゃん!」

巨大な肉の塊は、料理人によって美しく切り分けられている。
それらを10枚ばかし皿に乗せ、フォークを突き刺す豪快さ。
大きく開けられた口に吸い込まれてゆく肉、肉、肉。
清々しさすら感じてしまうその食べっぷりに、私の身体は凝固したように動かなかった。

「ここの肉、旨いんだよなぁ。」

大きな独り言。
誰もが当たり前のように受け入れる彼女の姿を、私だけは目を丸くして見入っていた。

「こら。程々にしておきなさい。」

奪われていた視線が解放されたのは、彼の声が耳を掠めたからだ。
心が躍る。
しかし彼女の背後に立った彼は、まるで奥さんを全身で守っているかのように見えた。

心が萎える。

「清四郎も食う?ここの肉、超絶美味いぞ!」

「まったく。パーティーの前にうどんを三杯食べていたでしょうが。」

「あんなの前菜じゃん!」

どうやら冗談ではないらしい。
彼女の胃袋は底なし。
そしてそれを、夫は決して本気で咎めようとはしていない。

「やぁ、ご無沙汰ですね、奥さん。」

福来が気配を察知し、あちらの歓談から戻ってきた。
本気でお膳立てをするつもりらしい。
私の肩に手を置き、東京の私大に通う親戚の娘だと紹介した。

「まだまだヒヨッコですが、いずれは剣菱に就職したいと言いましてね。」

「へぇ、うちに?」

「こう見えて、わりと優秀なんですよ。」

「…………ふ、ん。一瞬、福来ちゃんの愛人に見えたじょ?」

「ははは…………ご冗談を。」

この奥さん、鋭い!
背中に冷や汗が流れる私とは違い、福来はちっとも動じていないようだ。

「ああ、そうだ。奥さん、あちらで特大のチョコレートファウンテンを用意させました。如何です?」

「行く行く!大好物!」

福来が私から離れ、奥さんの先を案内する。
しかし彼は動かない。
その理由にまで頭が及ばない私は、震える手でシャンパングラスを握りしめた。
チラッと見上げれば、妻の後ろ姿を見送った彼がこちらを振り向いたところで、胸がキュンと痛む。

あぁ、格好いいな………
本当に凛々しくて、当たり前だけれど福来との違いに愕然とする。
あんな男に身を委ねていることなど、死んでも知られたくない。

私がときめきの真っ最中で居ると、

「…………随分と、化けましたね。」

彼はあっさり冷や水をかけてきた。

「…………え?」

「津乃峰 結花(つのみね ゆうか)──さん。お母様は本当にお気の毒でした。しかし貴女は女子大生でもないし、彼の親戚でもない。そうでしょう?」

淡々と告げられる真実に、足が凍り付いてしまう。
さっきまで感じていたときめきをも奪い去る威力。

彼は───
彼は、全てを知っているのだ。
私がただの清掃員で、こんな場所に相応しくない立場であることを。

「どうして………」

「本社に出入りしている業者やその従業員は全員把握しています。特に貴女のお母様はとても有能な方でしたし、個人的に評価していました。娘と働いている事を彼女は誇らしく話してくれましたしね。それに僕は───」

ほんの少しトーンが落ちたその声は、ぞくっとするほど色っぽかった。

「化粧で誤魔化されるような男じゃないんですよ。」

完敗。
始まる前に終わった。

でも…………それでも諦められない。
ここまで接近したチャンスを、逃してはならない。

「………それで、彼になんと言って、そそのかされたんです?僕に近付く目的は?」

どうやら福来は何かしら企んでいて、それすら彼に怪しまれているらしい。
だがそんなことはどうでもいい。
彼が破滅しようと、私には関係ない。

今の私がしなくてはならないこと。
それは自身の手で道筋を切り開くこと。

彼との接点を失うわけにはいかない。

踵の痛みを堪え、背を伸ばす。
真っ直ぐに彼を見据えると、彼もまた探るように目を細めた。

勇気を総動員させ、唾を飲み込み、口を開く。

「貴方に…………お願いがあります。場所を変えてくださいませんか?」

「お願い?」

「あの……少しこみいった話なので………ここでは。」

彼は迷った挙げ句、「ではロビーへ。」と言い、承諾してくれた。

ドレスも化粧もアクセサリーもまがい物。
中身はただの高校生。
それならそれでいい。
真っ直ぐぶつかるしかない。
打算まみれの恋心そのものを、彼へと伝えよう。

無謀な挑戦。
マイナスからのスタート。
愚かな娘と嗤われても、私はこのチャンスに賭けるしかなかったのだ。