本編

人形奇譚

 

冷えた夜が明け、眩しいほどの朝日に晒される。
涼やかな鳥の鳴き声は、美しい朝に相応しい。
頭の芯はまだ重い感じがして、快適な目覚めとまではいかないが、それでも心は不思議と軽かった。

夕べ、悠理に愛を告げた。
隣で眠る美童の事などすっかり忘れて。
体力のない彼は、昼間の疲れのお陰か深い眠りについていてくれた為、僕たちの会話は二人だけの秘密となった。

「せ、清四郎………何言って………」

「まだ、言うつもりはなかったんですけどね。………どうしても堪えられなかった。」

夜目が利く上、月明かりのおかげもあって、彼女の表情が余すことなく見える。
戸惑いに揺れる瞳が、それでも僕の顔を捉えたままでいることも。

「………らしくないですか?」

「……………。」

珍しく沈黙で返事する悠理。
どうやら本気であることは伝わったらしい。
それこそが僕にとって一番大切なことだった。

「今すぐ、どうこうなりたいわけじゃないんです。………ただ、いつか必ずおまえを手に入れたい。他の可能性は生み出したくない。一番側に居る男になりたい。わかってもらえますか?」

まくし立てるような言葉の羅列に悠理の喉がゴクリと鳴る。
空気を震わせるほどの緊張がありありと感じられ、危うく僕もその雰囲気にのみこまれそうになった。

「あたい………清四郎のこと好きだよ?でも………それが男としてかって聞かれたら、まだ分かんない。恋愛なんて………考えたこともなかったし。」

彼女の言い分はよく理解できる。
恋という檻に入ることは、自由を奪われること。
悠理はそれを本能的に察知しているのだ。
自分らしく生きていくために邪魔なものであるということを。

「他に気になる人は?」

「い、いないけど………今んとこ。」

「なら良かった。じゃあこれからは僕を意識してください。僕だけを“男”と見てください。僕がいつもおまえを大事にしていることを感じ取ってください。」

少々、露骨すぎたかもしれない。
だが彼女のオツムには、このくらいダイレクトに伝える事が正しいと思っている。

「………………本気なのか?」

「冗談で言えるほど、恋愛慣れしてませんよ。」

すっかり静かになった悠理は、「わぁった」と呟き、自分の部屋へと戻っていった。
いつになく静かな後ろ姿。
そのまま蒼く冷えた空気に消えていきそうな儚さを孕んで。

残された僕は、達成感に包まれながらも、緊張の糸が切れた深い溜息をこぼした。
“人姫様”に対峙した時以上の疲れが押し寄せてくる。
ただ、それは決して禍々しいものではない。
囲碁に勝ったときのような爽快感すら感じる。

相変わらず規則正しい寝息を立てる友人の気配を確かめた後、僕は再び布団に横たわった。
障子の向こうの月明かりは更に明るくなっていて、今なら読書も出来るだろう。

━━━告げるのは、時期尚早だったのかもしれない。
でも逸る心が動き始めてしまったのだ。
もう止まることは不可能である。
目を閉じればあの奇っ怪な老婆の顔は浮かばず、ただ悠理の綺麗な瞳が何度も何度も瞼を通り過ぎていった。

朝飯はそれぞれのタイミングで摂る━━━といってもだいたい同じ時間に集まって、素朴な田舎料理に舌鼓を打つののが当たり前になっていた。

「おかわり!」

と元気な声で茶碗を差し出す悠理に変わったところは見当たらない。
通常運転。
呑気な顔でガツガツと飯をかき込んでいる。

━━━ま、あいつらしいですな。

それこそが彼女の強みでもあるのだ。
普通の女ではこうはいかない。
僕という存在を忘れたように、真っ直ぐ前を向くその姿勢こそが尊い。

食後のお茶を啜っていると、ふと、“東雲勇一”が居ないことに気付く。
彼は早朝からカメラを構え、村に出ることが多かった為、誰よりも早くこの朝食会場に来ているはずなのだが…………。

「東雲さんは?」

辻堂氏に尋ねると、起きた時には既に布団はもぬけの殻だったと、言う。

「どっか迷いこんじゃったかなぁ?」

「後で電話してみようか。」

「電波届くとこだといいけどな。」

とまあ、のんびりした調子で周りのメンバー達は朝飯に集中していた。
ただ僕は何となく胸騒ぎがした為、彼を捜しに出ようと決めたのだが、
「清四郎、どこ行くんだ?」
目敏く声をかけてきたのは魅録。
夕べから僕の様子を気にかけていたんだろう。
当然の流れだった。

「東雲氏を捜すんですよ。手伝ってくれますか?」

「いい年をした大人だ。迷子ってこたねぇだろ?」

「さぁ……………どうでしょうね。」

興味に細められた鋭い目が、僕の不安を的確に読み取る。
彼の優秀な鼻がこの先どう利いてくれるか、半ば楽しみでもあった。
その為には、あの現実離れした話をしなくてはならない。
一体どこまで信じてくれるのか。

僕はまず彼と二人きりになる為、宿の裏手にある喫煙小屋を目指した。
そして魅録の手にあった煙草の箱が空になる前に全てを話し終えた。

「信じたくはねぇが…………おまえさんが嘘を吐くとは思えねぇしな。」

「おとぎ話にしては頂けないでしょう?」

「ああ、えげつないぜ。………にしても、よく逃げられたな。」

「人より少しだけ悪運がよかったんでしょうな。」

半信半疑といった顔でも、ひとまずのみ込んでくれるのが彼の良いところだ。

「で?東雲が何かしらの目的で連れ去られたかもしれない、と?」

「そんな予感がするんです。まぁ………杞憂ならいいんですけどね。」

「あんたの勘は悠理と同じで馬鹿には出来ねぇ。とっとと動いた方が良さそうだな。」

「百人力です。」

無事話も終わったところでアイコンタクトを交わし、狭い小屋から出たのだが、そこに━━━

「わっ!!」

耳を大きくした悠理が壁にへばりついていた。

「…………何してんです?」

「ず、ずっこいぞ、おまえらだけ!あたいもまぜろ!」

気まずさを取り繕うように大声を張り上げる。
どうやら全てを聞かれてしまったらしい。
珍しく気配を悟られぬよう、慎重に張り付いていたとみえる。
頬に壁板の跡がくっきり残っていた。

何ら変わらぬ、普段通りの彼女が愛しくも憎らしい。
昨日の今日でここまで意識されないとなると、本当に脈がないんだろうかと落ち込んでしまう。
が、今はそんなことを言っている場合ではないな。

「おまえにとっちゃ、苦手な分野だと思いますがねぇ。」

「清四郎の言うとおりだ。大人しく待ってろよ。」

いつものように厳しく忠告した魅録は、宿の主人に軽トラを借りてくると言って颯爽と消えた。
悠理と二人残されると、やはり気恥ずかしい空気が流れる。
もう、今までのようにはいかない。

「今回は分からない部分も多いんです。僕自身不安を感じている。だからおまえは宿で待っていなさい。」

「で、でも………あたいだって………」

「確かに。以前の僕なら頼ったと思いますよ。でも今は違う。おまえを危険な目に遭わせるのはすごく嫌なんです。」

不安げに揺れ動く目で見つめられ、僕の手は無意識に彼女の頬を撫でていた。
心はとっくに開け放たれている。
怖いものは一つだけ。
悠理を失うこと。

「……清四郎。」

「本当に困った時はお願いします。」

「…………わぁった。」

いつにない“しおらしさ”を見せた彼女の、心の中までは覗けない。

僕をどう思っているのか。
想いに応えてくれる可能性はあるのか?

つい問いただしてしまいたくなる衝動を堪え、そっと距離を取る。

「野梨子たちには内緒で。」

「言ったら逃げてくぞ、きっと。」

「そうですね………」

頬から離そうとした手はしかし悠理の指に止められた。
意外に細く華奢なそれが、僕の四本指をそっと掴む。

「怪我すんなよ?そんな化けモンほんとに居るなんて、ちょっと信じらんねぇけど、おまえに何かあったら……あたい……………困るから。」

ほんのりと潤んだ瞳。
明らかに不安を纏わせている。
それは心を、そして身体を揺さぶるに充分な台詞だった。
僕は自制することを忘れ、衝動的に彼女を掻き抱き、空気をたっぷりはらんだ細い髪に口付ける。

このまま小屋の中に引きずり込んで、甘い唇を塞いでしまいたい。
悲しげな懇願よりも、聞いたことのない官能的な声を絞り出させたい。

胸と同時に下半身が熱くなる。
悠理の髪に触れただけでこうなるんだ。
唇だと………恐らくストッパーが飛ぶな。

「っ……せぇしろ……くるし!」

僕の手を掴んだまま、それでも逃げ出そうとする矛盾の中の無自覚。
ゆっくり力を抜けば、真っ赤な顔と真一文字の唇が可愛らしく震えていた。

「…………珍しく素直なおまえに……ちょっと箍が外れそうになりましたよ。」

「………???」

どんな意味が隠されているかも分からない、罪深いほどの純粋さを、僕は僕の手で無茶苦茶にしたいと思っている。
果たして悠理は、そんな男を受け入れてくれるのだろうか。

「大丈夫。今はまだ………」

おまえの心をこの手に掴み取るまでは━━━

何も出来ない。