本編

人形奇譚

 

“人姫様”────本名は朱音(あかね)。

年齢については何度尋ねても『実際のところは解らない』と鸚鵡のようにとぼけた。

“本当に亡き魂を寄せる事が出来るのか?”

その質問には強く肯定し、死者の魂を人形(実物は見せてもらえなかったが)に宿した上で、生者にメッセージを伝える事が出来ると断言した。

村人の……正しくは一部の村人が、どうしても知りたいと願うときだけ行われる秘密の口寄せ。
彼女の妖しくも神秘的な目を見れば、不思議と抱いていた疑念が薄れてゆく。

────彼女はふつうの人間ではない。

それは僕に備わった第六感がヒシヒシと告げていた。

夕餉の時、初めて顔を見せた世話役もまた男だった。
痩せ形で色白の、どことなく不健康そうな一人の老人。
この寺の住職について尋ねると、年に数回だけ隣村からやって来て行事を取り仕切るとのことで、普段はやはり人姫様と二人きりで生活していると言う。

食事や掃除、買い出しも全て彼の仕事なのだが、体力的に辛くはないのだろうか?
思いの外、贅沢に揃った夕餉に、僕は首を捻らざるを得なかった。

人との交流を極限まで減らすことで、彼女の力は最大限に引き出される───と聞く。

正しい食事。
清潔な衣装。
世俗から離れた古めかしい生活。
特殊な霊力を維持するには、それ相応の不便さを求められるらしい。

年齢はさておき、『人姫様』という生態に、僕の興味はよりいっそう膨らんでいった。



そうこうしている内に時計はいつしか九時を回っていて、そろそろ宿に戻らねば……と村長に告げる。
すると「もう遅いから泊まっていけばええじゃろ」とにこやかに勧められ、世話役が僕を小さな和室へと案内した。
どうやら村長は泊まり慣れているようだ。
ほろ酔い加減の身体で、勝手に別室へと消えていった。

村特産のどぶろくを飲まされた所為か、確かに身体は怠く、宿に帰ったところで皆は遊び疲れて寝ているだろうし、ここは村長の提案に乗っかることに。
もちろん尽きない興味が理由の一端でもある。

部屋の隣には小さいながらも湯殿があり、世話役の老人は湯を溜めておいてくれた。
贅沢にも総檜の湯船。
昔ながらの格子窓からは深い闇しか見えないけれど、天井からぶら下がる裸電球は意外と明るく、快適に汗を流すことが出来た。

部屋に戻れば、これまた懐かしい行灯が枕元に一つ置かれていて、まるでタイムスリップしたかのような風情だ。
用意されていた浴衣を羽織り、携帯電話をチェックすると、魅録から短いメールが届いていた。
電波の悪い中、よく繋がったものだと感心する。

『なんか面白いことあったか?』

好奇心旺盛な彼も暇を持て余しているのだろう。
僕が何かしらの情報を掴んだと予想したらしく、前のめりな感じが伝わってきた。

しかし残念ながら───
『人姫様』の謎めいた力については何も解ってはいない。
夕餉の時も核心に触れることが出来ないまま、他愛もない世間話や村の乏しき未来について語り合っただけ。
よく喋る村長のペースに巻き込まれたといったほうが正しいか。
とにかく彼女は多くを語らず、にこやかに食事をしていただけであった。

まるで煙に巻かれたかのような心許ない時間。
口当たりのよい濁酒の所為なのかもしれないが、思考が上手く定まらない。
どうせ何も教える気はないのだろう。
強引に押したとて、機嫌を損ねるだけ。
僕は一旦引くことを決め、村長の話に相槌を打つ物静かな客人を演じた。


眠りは思いのほか、直ぐに訪れた気がする。

リーンリーン

鈴虫の音がやたら大きく聞こえるほどの静寂。
やがてその静寂を破り、襖の開く音がする。

スッスッ

続いて畳を擦る足音。
人がそこにいると判っているのに、瞼が開けられない。
首どころか指一本動かせない状態で、ようやく自分の意識がはっきりしているのだと気付く。
重い体は全てを放棄したかのように布団に張り付いている。

決して寝ぼけてなどいない。
夢を見ているわけでも────ない。

ひんやりとした風が首筋を通り抜け、それが彼女が纏う空気と同じものであると判ったのは、微かに薫る香の匂いだった。
目を開けることは出来ないのに、気配だけはしっかりと伝わってくる。

 

顔をのぞき込まれ、手を翳されている。
そしてそのひんやりとした手がそっと頬を撫で、僕の輪郭を辿る。
声を出そうとしても唇は動かず、まるで木偶の坊にでもなったような感覚に陥った。

「綺麗な男。………若くて、生命力に溢れていて………ほんとうに理想的だわ。」

甘い声が頭の中に響く。
近く、遠く、色んな角度から………
強い幻惑の中にいると感じる。
決して不快ではないけれど、かといって愉快でもない。
脳を支配される感覚は初めてのことだった。

彼女の白く細い指が喉仏に触れ、やがてゆっくりと浴衣の襟元から忍び込む。
ピクリともしない身体を弄ぶかのように、繊細な力加減で優雅になぞってゆく。
それは紛れもなく“愛撫”。
快感を呼び覚ますよう行われる、性なる戯れ。

「………精悍な身体ね。これならきっと、長く………保つわ。」

この触れ方から想像すれば、彼女の目的は明らかだ。
指先が腹部を擽り始めると下半身に熱がこもりだす。
声も出せない中、これらの刺激を跳ね除けるには相当な苦悩を強いられた。

ただ僕は、そこらへんにいる一般的な男ではない。
多くの修行を積み、精神的な鍛錬も重ねている。
簡単に惑わされるような鍛え方はしていない。

腹の下に力を込め、頭の中の自分が座禅を組む。
精神を統一し、まるで細い糸を長い針に変えるような想像で、誘惑から逃れようと試みる。
徐々に己の身体の輪郭がはっきりし始め、抵抗する力が漲って来ると───
まずは指先
次に唇
そして瞼………に意識を集中し、動けと念じた。
果てしない重圧を全身に感じながらの抵抗。
彼女の指は巧みだ。

しかし────

 

苦労の末ようやく目を開いた時、そこにあった女の顔は想像を遙かに超えたものだった。
あの妖しくも美しい姿はどこにも無く、ただ深く皺が刻まれた老婆が一人、舌なめずりする勢いで僕の身体をまさぐっている。

「!!!」

「あらあら………動けるの?凄いじゃない。意志が強いのね。」

先ほどと何も変わらぬ軽やかで愛らしい声。
だがそれこそが、ぞっとするほどの違和感と恐怖を僕に与えた。

完全には自由にならない体で必死に奥歯を食いしばる───。
そんな僕の姿を見つめながらも彼女の手は徐々に下腹部へと近付いていく。

「う………やめ……」

掠れる声で訴えるも、彼女に動揺した様子は見られず、より一層艶めかしい動きで弄り始めた。

───一体どういうつもりだ!?

睨みつけ、全身で拒否しようと唸る。
一遍の快楽も感じないほどの嫌悪感。

すると老婆は心を読んだのか、嬉しそうに口を開いた。

「ふふ………貴方も私の年齢をやたらと気にしていたでしょう?でもこれで解ったかしら。若さを保つ秘訣が…………」

紅い舌が頬を舐める。
瞬間的に粟立つ肌。
不快感MAXの状態なのに、まだ身体の自由は利かない。

「生身の男から貰う………精気だということを。」

全てを暴露するつもりか?
彼女は薄笑いのまま、僕の唇を奪った。
老婆に………それも得体の知れない者からの口付けなど、いくら相手が女とはいえぞっとする。

顔を背けようとすれば、皺のあるかさついた手で強引に頬を掴まれる。
焦燥からか、はたまた性的嫌悪感からか。
心臓の音ががなり立てるも、抵抗らしい抵抗は出来ないでいた。

「………そんなに厭がることはないでしょう?さっきは私に見惚れていたくせに。」

見惚れる?
彼女に?

確かに美しい女性だと思った。
その妖しい魅力に目だけは奪われたかもしれない。

だがそれだけだ。
心が惹かれるようなことは一度もなく、探求心のみが逸りだした。

そう────

心は簡単に動かない。
僕を惑わすことが出来るとしたら、
その女は────

ふと彼女の顔を思い出せば、失われていたはずの力がよみがえり、呆気なく呪縛は解けた。

勢いよく身を起こすと老婆は驚きを隠せない。
慌てて身を引き、逃げようとする。
しかしその枯れ木のような手を強引に掴み、退路を断てば、弱々しく首を振りながらも、何かを諦めたように脱力した。

「随分と………好き勝手してくれましたね。」

険のある声で脅すと、「ごめんなさい」と呟く彼女。
先ほどまでの傲慢な態度はすっかり失われている。

「どんな事情が隠されているのか………全て教えてもらいますよ?」

するとようやく覚悟を決めたのか、老婆は静かにうなだれた。

長い夜が始まる────