この村は───“人姫様信仰”で成り立っている
そう聞いたのは、宿で皆と夕食を食べている時だった。
鄙びた──というよりは老朽化した、と評した方が正しいだろう。
床板は必要以上に軋み、畳もさほど新しくはない。
部屋こそ広いがどことなく湿気ていて、可憐はブツブツ言いながら扇風機を回していた。
唯一良かったのは温泉。
小さいながらも露天の岩風呂があり、湯のぬめりから、相当に強いアルカリ泉だと判る。
美肌の湯だと告げれば、女性陣は喜んで長湯した。
同好会のメンバーは全員が男で、僕たちよりも年長である。
東雲氏の変人ぶりを当然のように受け入れる面々なのだから、ヒトクセもフタクセもある人間が多かった。
所謂────“オタク”と呼ばれる彼ら。
どちらかというと僕よりも魅録の方が早く馴染んでいる。
何故この同好会に興味を示したかといえば、全ては東雲氏に起因する。
大学内で彼が話しかけてきた時、その情報の多さと知的な会話の魅力に惹かれた。
日本全国のあらゆる伝説や神話、霊障に精通していて、彼自身もわずかばかし霊感があるらしい。
悠理ほどではないだろうが、幼い頃から幾度となく悩まされてきたと言う。
両親とはそれが原因で仲違いしているとも聞いた。
とにかく─────
この村に目を付けたのも何かしらの理由があってのことだろうが、彼が『人姫様』を知っていたかどうかは定かじゃない。
一番大きな座敷で食事していると、宿の主人がおもしろ半分に語りかけてきた為、当然同好会メンバーは興味を示した。
「さっきも聞きましたわ。その“人姫様”は本当に“生き仏”なんですの?」
野梨子が眉を顰め、尋ねる。
「そう、伝えられています。限られた村人しか会えないそうですが………30年以上もあのお寺に住まわれてらっしゃるとかで。私は10年ほど前にこの宿を継いだんですけどね。人伝に聞いた話じゃ、見た目がちっとも変わらないとか。『奇跡の女人』と呼ばれていますよ。」
「………30年………てことは、軽く50以上だな。」
魅録の指摘通り、やはり“姫様”という名に相応しく無い年齢なのだと確信した。
「僕はその話、信じるよ。」
興味深く腕組みしていた東雲氏が目を光らせる。
先ほどからビールを数杯飲んでどうも調子が良い。
そんな彼に倣い、周りのメンバーも俄に高揚し始めた。
「是非会ってみたいな。」
「俺も行きたいですよ。」
「この目で生き仏を拝みたい!」
───等々。
それぞれが本来の目的を果たすべく盛り上がるも、宿の主人は首を振り、彼らを制す。
「人姫様は多くの人には会わないんです。何かしらの理由、もしくは村長の紹介でどうしても………という時以外は、決して顔を見せてはくれません。残念ですが………」
ブーイングが響く中、「そんな年増に会ってなにが楽しいんだか。」と可憐はぼやいた。
全く其の通りなのだが、僕はまた別の目的で“人姫様”とやらに会いたいと思っている。
一体どんな絡繰りでこの村を操っているのか、興味深い。
だからその場では、明日、村長のツテで案内してもらうことは告げなかった。
抜け駆けと思われるのは面倒だし、何よりも彼らが村長へ不躾な質問をして不機嫌になられると困るからだ。
「ごっそさん!」
悠理が三人前の飯を平らげ、満足そうに腹を撫でる。
彼女を連れていけば、もし何かあったとしても真っ先に察知してもらえるのだが───
到底、乗ってこないだろうその提案を口にせず、僕は出されたお茶を啜った。
明日、有閑倶楽部のメンバーは近くの川で釣りを楽しむらしい。
バーベキューの用意もあるので、昼近くには戻る予定だった。
朝食の後、村長が迎えに来て、寺まで案内されるという計画を魅録達に伝えないまま、僕は床に入る。
何故だろう。
僅かに胸騒ぎがする。
生き仏と呼ばれ続けてきた女性の正体を暴こうとする罪悪感からか?
それとも、東雲氏達を置き去りにし、抜け駆けしてしまうから?
「消すよ?清四郎。」
小さな電球だけを残し、美童が布団を被った。
魅録はまだ同好会の連中と酒を酌み交わしているんだろう。
「おやすみ。」
明日のことは明日解る。
僕は早々に夢の中へと引き込まれていった。
・
・
次の朝────
村長が顔を出した時には、皆は既に川辺へと向かってしまっていた。
兎月荘の主人は買い出しに出かけ不在。
雇われ人など居ないため、彼が全てを担っている。
「やぁやぁ、いい天気じゃ。」
白い帽子を被り、薄手のジャンパーを羽織った老人は、軽トラに僕を乗せ走り出した。
爽やかな風と、青青とした木々。
真夏でも東京と違い、涼しさを感じる。
山に囲まれた盆地の割には、標高が高い所為か、気温はそこまで上がらないのだろう。
新鮮な高地野菜や猪肉が特産品だった。
山の麓………と告げられていたが、実際は鬱蒼とした山の中の小さな寺で、百段ほどの石階段を登り、ようやく見えてくるような場所にあった。
想像より遙かに年季の入った本堂に驚かされる。
所々欠けた瓦からも、手入れをする金が乏しいのだろうと予想した。
こぢんまりとした本堂の横には、これまた質素な寺務所があり、そこから入るよう促される。
慣れた足取りで向かう村長。
腹を据えた僕も彼に続き、扉をくぐった。
ひんやり──というよりは寒い。
ギシギシと音を立て軋む床は、掃除こそされているが、踏み抜いてしまわないか気を遣った。
それほど古い……もとい、ボロい床板なのだ。
奥へ奥へと進めば、襖に仕切られた座敷らしき部屋が現れる。
「ここで待ってりゃええ。」
村長は僕をその中に残すと、何処へ行くとも言わず、消えてしまった。
薄暗い部屋。
日の光も届かない。
床の間に飾られたピンクのカトリソウだけが彩りを与えてくれる。
─────なんだろう、この悪寒は。
悠理と違い、霊感などないぞ?
武者震いにも似た感覚が肌を震わせ、正座した足をもう一度組み直すことにした。
畳が湿り気を帯びている。
風通りすら拒絶したような部屋。
息苦しさと不快感に苛まれながらも、ここまで来たのなら、人姫様とやらの顔を見なくては気が済まない……との意地が芽生える。
しばらくすると、サッサッサッと床を擦る軽い足音が聞こえ、いよいよかと気合いを入れた。
襖が静かに開き、明らかに振り袖と判る華やかな着物の裾が目に飛び込んでくる。
「待たせましたね。」
鈴の音のような声。
澄んだ水に雫が一滴落ちたような清涼。
思わず顔を上げれば、それは僕が想像していたような年老いた女ではなかった。
流れるような黒髪に朱い唇。
前髪から覗く目は、魔を秘めたように妖しく光っている。
白い肌には化粧すらしておらず、その瑞々しさを伝えるに十分な肌質だった。
細い首が彼女の華奢さを物語っていて、振り袖が重々しく見えるほど。
夏らしく淡い紫を着ているにも関わらず、だ。
「初めまして。菊正宗と申します。お目通り頂き、感謝します。」
「堅苦しい挨拶など必要ありません。秀一郎の紹介なら、いつでも。」
祖父ほど年の離れた村長を“秀一郎”……と呼ぶ彼女は、真向かいに置かれた座布団に座り、僕を見つめ、目を細めた。
「………東京からいらっしゃったと聞きました。こんな辺鄙な村に興味がおあり?」
全てを知られている───
そんな目を前にして取り繕うのは愚か。
僕は事の経緯を正直に話し、彼女の審判を待った。
「大学のオカルト同好会?それは楽しそうなこと!若い人たちは何にでも興味を持つのねぇ。」
若い………というのなら彼女も若い。
見た目だけで言えば同世代、もしくは少し上くらいだ。
「不愉快ではありませんか?」
「ふふ………ちっとも。この村には若さが足りないから、むしろ有り難いとすら思いますよ。」
白い手を口に当て、軽やかに笑う人姫様。
しかしその美しさに隠れた“悍ましさ”が僕の頭に警鐘を鳴らす。
「“人姫様”……とお呼びしてよいのでしょうか?」
「あら、そんなの詰まらない呼び名だわ。本名は“朱音”。朱音と呼んでください。」
「朱音さん……僕は“生き仏”と呼ばれる貴女に、尋ねたいことがあってここへ来ました。」
「そうでしょうとも。もちろん出来る限りの質問には答えます。───ただ、一つ条件が。」
彼女は人差し指を口元に当て、悪戯めいた笑みを浮かべた。
「条件?」
「ええ。今日一日、つきあってください。夕餉も含めて、ね。本来、私は村に下りる立場ではないので、いつも世話役と二人で寂しいんです。あぁ、もちろん、秀一郎も一緒に。」
屈託のない誘いだったが、ふとバーベキューのことを思い出し、断ろうと思った。
しかしどうしても好奇心が勝る。
目の前の年齢不詳の彼女に抵抗する気力が湧かない。
「…………わかりました。ご相伴に預かります。」
『藪をつついて蛇を出す』
頭の中を撫でるように諺が過るも、僕は結局、その提案を受け入れた。
ふと悠理の顔を思い出す。
この陰鬱とした場所に彼女が居たなら、随分救われただろうと───
もちろん速攻で逃げられる可能性の方が高いに違いないが。
しかしそんなささやかな後悔を凌駕する事態が、僕を待ち受けていた。