My Only Hero(1)

※野梨子の恋話です。


 

 

彼女は悩んでいた。
冬の冷えた空気の中、白魚のような手には桃色の包装紙に包まれた小さな箱があり、露骨なハート型のカードまでもが添えられていた。
それはどう見ても特別な誰かに宛てた物。
男性を苦手とする彼女が、一体誰に渡すというのか。
“絶滅危惧種”ともいわれる大和撫子の胸の内は?

 

 

「…………はぁ。」

悩ましげな溜息を吐く野梨子は、中庭のベンチにそっと腰掛ける。
夕暮れ時の構内はひと気も疎らで、少々寂しいくらいだ。
いくらカシミアのコートを着ているとはいえ、気温はどんどん下がっている。
爪先がひんやりと痺れるほどに。
それでも今日は特別な日だから、この機会をみすみす失うわけにはいかない。

あの少女らしいおかっぱは封印したのだろうか。
空っ風になびく彼女の黒髪は昔と違い、華奢な肩を優しく撫でた。
女性らしい曲線を描く両肩が寒さで竦んでいる。
足下を通り抜けるポプラの枯葉もまた、一様に寒々しい光景だった。

「ん?野梨子か?」

突然の呼び声に振り返れば、そこには派手な色のレザージャケットを着た友人の姿が。
寒さなどちっとも感じていない様子で、両手には大きな紙袋が二つ、重そうに抱えられていた。

「まあ、悠理。まだ残っていましたの?」
「野梨子こそ。んな寒いとこで何してんだよ?」

慌てて荷物を下ろし、自分の手袋を外した彼女は野梨子にそれを手渡す。
どう見てもその白い手は冷え、すっかりかじかんでいた。

「………人を、待っていますの。」

そう呟きながら膝の上に箱を置き、悠理の好意を素直に受け取る野梨子。
たった三十分とはいえ、二月の風は充分すぎる程冷たく、下手すれば体温を奪いかねないレベルである。
悠理から渡された手袋には人肌の温もりが残っていて、固くなった指先をほんのり暖めてくれた。

「それ、もしかしてチョコか?」

隣に座り、目で合図する悠理の表情はどことなく険しい。

「え、えぇ。」
「━━━“あの”講師に渡すつもりなんだな?」

無言で俯いたとて、誤魔化したり出来ない。
仲間内にはもうすっかりバレている話なのだ。
想いを隠せるほど器用ではないし、隠さなくてはならない恋でもない。
赤い唇を噛みしめた野梨子は、小さく、照れくさそうに頷いた。

「………ったく、あんな“なよなよ”した野郎のどこがいいんだか。」
「ふふ………ひどい言い草ですわね。」

悠理の好みから遠く外れた彼の顔を思い出す。
確かに線の細い人ではあるが、決して“なよなよ”などしていない。
むしろ気骨ある男だと、野梨子は認識していた。

そう。
およそ二ヶ月前の出会いがそれを物語っている。
彼との出会いはまるで少女マンガのようにドラマチックだったのだ。



その日。
一人、都内の美術展に出掛けた野梨子は帰り道、タチの悪い若者達に声をかけられた。
大通りから少し外れた路地に入ったのが悪かったのだろう。
大学生になってからというもの、この手のナンパは増え、昔なら隣にいたはずのボディガードも今や誰かさんの恋人となりアテには出来ない。
一人で対処しなくてはならないと毅然とした態度でのぞむも、中には本当に厄介な輩も存在し、割と手子摺ることも多かった。
魅録に与えられたGPS機能付きの防犯ブザーは、時として役立つものの、あまりにも大きな音が鳴るため、つい作動させることを怯んでしまう。
音量を下げると意味がないことくらいは理解出来ているのだが。

運悪くこの日は自宅に置いてきてしまい、折角の活躍も自らの手で潰してしまった。
己のミスを悔いる野梨子だったが、それも後の祭り。
一人で何とか切り抜けるしかなかった。

「お!これまたべっぴんだねぇ?暇?今から俺たちとデートしようか。」

ニタニタと下品な笑い方をする色黒の男が野梨子の腕を掴み、壁際に押しつける。
煙草の匂いとはまた違った、薬物のような香り。
清四郎の研究室を出入りしていたら、危険な香りは否が応でも分かるものだ。
怪しげな香りを漂わせる男は他の二人に退路を塞がせ、野梨子の顎を無造作に掴む。
爪の伸びた無骨な指が、圧倒的な不快感を連れてきて、自ずと眉がしかめられた。

それでも━━━━

「離してくださいな。」

努めて冷静に、相手を刺激しない声色を使ったはずだった。
がしかし、目の前の男はそんな些細な抵抗すら気に障ったのだろう。
「ん~?なんだって?」………と濁った声でドスを効かせてくる。

カチンとくる野梨子。
ついいつもの剣幕が姿をあらわす。

「わたくし、あなた方にお付き合いする時間はありませんの。そこを退いてください!」

大きな目をしっかりと見開き、男たちを牽制するも、所詮はお嬢様のそれ。
彼らを諌めるほどの効力はなく、よりいっそう加虐心を膨らませる結果となった。

「“お付き合いする時間はありませんの!”………だってさ!笑える。………だけどな、俺たちはお願いしてんじゃねぇんだよ。」

そう言って男は、野梨子が背にしている壁を思い切り殴る。
どうやら喧嘩馴れしているらしい。
特に痛みを感じた様子もなく、ニタニタと不気味に笑い続けていた。
びりりと音を立てて響く振動に、思わず鼓動が跳ねた野梨子。
くそ度胸には定評のある彼女でも流石に驚いたのだろう。
小さい肩を恐ろしげに竦めた。

そこへ━━━━━

「おい、白鹿くんじゃないか?」

名を呼ぶ声に振り向くと、ライトグレーのワイシャツに黒いジャケットを羽織った、青年ともとれる若々しい姿の男が一人、こちらを見つめ歩いてきた。
よく見れば、それはフランス語専門の講師で、つい先月文学部に着任したばかりの人物。
15年ほどヨーロッパに住んでいたらしく、流暢なフランス語とドイツ語を話す。
ほどほどにイケメンな上、フランスで小説家デビューしているという噂が彼の人気を一気に押し上げ、女子学生達の心を浮き立たせていた。

「久世………先生。」

そう、確か━━━━久世 昌也。
野梨子は脳内で彼のフルネームを弾き出すと、ベストなタイミングでの助け船にホッと胸を撫で下ろす。
しかし何故私の名を?
講義も二度ほどしか受けていないはずなのに。
だか少なくともこれで、無理矢理連れ去られる可能性は格段に減った。

「まいったね。センセのお出ましか。」
「うちの学生に何か用ですか?」

柄の悪い連中だと一目で判っていながらも、久世は果敢に一歩を踏み出す。
野梨子が見る限り、彼の目には使命感のような光が宿っているように思えた。

「外野にゃ関係ないこった。引っ込んでろよ。」

壁を殴った男が悪態を吐くも、久世は怯んだりしない。
すかさず野梨子の手を握り引き寄せると、自分の背中へ隠すように移動させた。
今までなら、目の前にあったのは清四郎の背中。
この世で最も頼りになる背中が、しかし今はもう悠理のものだ。
鍛えられた幼なじみよりも小柄な久世だが、その時の彼の背中は誰よりも大きく見えた。

「(やれやれ。日本も治安が悪くなったもんだ。だいたい女性をナンパするのに暴力をふるうなんて、信じられないよ。女性に優しく出来ない男なんて下の下。何の資格もないね!さっさと去りたまえ。)」

フランス語でまくし立てる彼をポカンと見つめる男たち。
語学に弱い、日本人特有の反応でもある。
もちろん野梨子にはその美しいフランス語の意味が解っている。
彼女もまた数カ国語を操る才女なのだから。

咄嗟に反論することも忘れ、すっかり勢いを削がれた彼らは、唾を吐き捨てた後、野梨子たちから渋々離れていった。

「先生……ありがとうございました。」
「いや、無事でよかった。我が校きっての大和撫子に怪我でもされては大変だ。学長にあわせる顔がないよ。」

数々のトラブルを越えてきた野梨子を知らず、久世はにっこりと優しく微笑む。
その笑顔にやられてしまったのだろう。
野梨子はそれからというもの、彼の虜。
ついには二度目の恋を“久世昌也”に捧げることを決めたのだった。

 

続く・・・・・