ひやり・・・・
悠理の頬を撫でたのは、白魚のような手だった。
優しく、時には厳しく。
彼女の美しい手はいつも公平に振る舞われる。
「野梨子・・・・?」
「いいえ、光子。」
「野梨子じゃん・・・・」
「貴方・・・・・・伊織・・・・・・私の大切な人。」
赤い唇は野梨子のものなのに、そこから洩れる声は違った人間に感じる。
触れるか触れないか、そのくらいの距離に近付いた時、悠理は慌てて顔を背けた。
しかし辺りは闇。
何故ここまで暗い場所なのに、野梨子の顔だけはハッキリと見えるのだろう。
考えることは酷く億劫で、背中にじっとりと張り付いた何かがとても不快だった。
「伊織。ねえ・・・ほら、私に触れて?」
「あたい・・・・伊織じゃない。」
「伊織・・・・・・」
浮かされたような声は徐々に熱を帯び始め、押し付けられた身体は異常なほど冷たいのに、その頬は紅を差したように赤かった。
悠理はそっと自分の身体を確かめる。
いつのまに白い浴衣に着替えたのだろう。
胸は開け、裾も乱れているが・・・着ていたタンクトップもショートパンツも、そして下着すら脱がされていた。
しっとりと肌をなぞるその手が、明らかな情欲を持って動いていることを、悠理は悟る。
「やめろ・・・・」
「いつもように触れて?伊織。」
「やめろってば!」
ろくに動かぬ身体とはいえ、嫌悪感は押し寄せる。
浮き上がった鳥肌を確かめるように這い回る手が、絶え間ない悪寒を呼び寄せた。
「何故・・・私を拒むの?桜が好き?それとも別の女?」
どうやら彼女の時間は25年前で止まっているらしい。
瞬く間に修羅へと変化する野梨子の表情に、悠理は恐怖を感じた。
「ねえ、伊織。私だけだと言って?」
「野梨子!しっかりしろ。」
「ねえ、悠理・・・・清四郎は私だけのもの。」
「の、野梨子?」
そこで初めて野梨子自身の意識が存在すると知ったが、その言葉はあまりにも衝撃的なもので、悠理の心がざっくりと抉られた。
「伊織・・・・お願い。言って?」
「悠理・・・お願い。取らないで・・・・」
細い指は徐々に首元を締め付ける。
人形のように愛らしかった顔(かんばせ)が、今はもう般若そのもの。
・・・・ああ、これはいつかどこかで見た能面に似てるなあ。
そんな感想を、悠理は抱いた。
苦しくなる呼吸。
じっとりと重みを増す背中。
一体、何に捕らわれているのだろう。
首を絞められながらも目だけを向け、背後を確かめる。
「ひっ・・・!」
そこには別の女。
口端から赤い血を流し、悠理にぴったりとくっついている。
目だけがぎょろりと動き、睨み付けた。
ここは闇の空間。
身体が重く感じたのは決して重力などではなく、この女の存在だったのだ。
「は、離せ!」
「伊織・・・」
「伊織・・・・・だめ。そちらを向かないで。その女を選ばないで。」
「悠理。清四郎を返して。」
狂気の狭間で女達の声がハウリングするように響く。
耳を劈く不協和音。
手で閉じたくても指一本動かぬ現状。
「せ、せいしろ・・・・助けて。」
首がキツく絞められる中、ようやくいつもの名を口にするが、彼は今どこに居るのかすら掴めない。
「の・・・りこ・・・・離せ・・・・はなし・・・て。あたいは・・・・・・あたいは・・・・・・・・・・・・せいしろうが・・・・・・・・・・・・・・」
ゴリ
その瞬間、喉骨が聞いたこともない音を立てた。
命の危険をヒシヒシと感じ、悠理は本気で慌て出す。
不屈の精神を発動させ、指先に集中するも、なかなか握り拳は作れない。
それ以前に、相手は野梨子なのだ。
昔はあれほど毛嫌いしていたけれど、今はかけがえのない友人。
力任せに殴ることは出来なかった。
自分を「伊織」と呼ぶ二人の女たち。
どのような関係かは解らないが、お互いの存在に気付いていないようだ。
血の匂いが鼻を突く。
これは・・・・意識を失う前に嗅いだ匂いだ。
雨?
しかし、ポツポツと頬に落ちるそれは、野梨子自身から降っていた。
黒目がちの大きな瞳は瞬きもせず涙を流す。
「野梨子・・・・しっかりしろ!」
振り絞った声が届くとは思わない。
けれど叫ばずには居られなかった。
「あたいに清四郎を取られたくないなら、正々堂々と勝負しろ!おまえはそれが出来る女だろ!?」
その瞬間、大きな音で何かが弾けた。
首への圧迫感も跡形無く消える。
背に張り付いていた女も居ない。
気付けば濡れた地面で一人仰向けに倒れていた。
そこが’かの庭’であると気付いたのは、雷で真っ二つに裂けた松の木が見えたから。
「ゴホゴホゴホ!」
酸素を吸い込んだことでむせかえったものの、いつもの重力を感じ、悠理はほっと胸を撫で下ろした。
震える脚でゆっくりと立ち上がり、全身に降り注ぐ冷たい雨を感じる。
白い浴衣が重みを増し、まるで枷のように裾を引く。
目を閉じ、耳を澄ませば、狂気に満ちた女の声が聞こえてくる気がした。
━━━━り・・・・伊織!貴方は………私の、わたしだけのもの!!誰にも渡さない!
瞬間、身震いしたのは彼女の慟哭のよるものか、はたまたこの冷えた雨の所為か。
この上なく浮き出た鳥肌を目にしたその時、再び暗転する世界。
悠理の身体から赤い血飛沫が飛ぶ。
痛みはない。
ただ鮮烈な赤に目が奪われるだけ。
これは伊織の記憶だ。
いや、どちらかというと光子の記憶?
彼女が刺し殺した男は、命絶える最期に何を見たのか。
再び闇に足を囚われ始めたその時。
「悠理!!!」
・・・・・・清四郎?
熱い腕が悠理を捕獲する。
びしょ濡れの身体が鋼のような肉体に包まれ、悠理はようやく目が覚めたかのように首を振った。
「せいしろ・・・・・?」
「大丈夫か?怪我は!?」
痛いほどの心配が肌を通して伝わってくる。
「うん・・・・大丈夫。」
激しい鼓動を耳にして安堵するだなんて、初めての経験だ。
「野梨子は?」
「元に戻りましたよ。おまえが危険だと叫びながら、僕を叩き起こしたんです。」
「・・・・・ほんと?」
どうやら清四郎も同じ時間、気を失っていたらしい。
強烈な張り手で叩き起こされ、慌てて助けに来てくれたのだ。
「今、どこにいんの?」
「魅録が面倒をみていますよ。」
「・・・・・・・そか・・・・。」
自然と流れ出る涙は、一体どういう意味を孕んでいるのだろう。
悠理は清四郎の浴衣に顔を擦りつけ、一頻り泣いた。
「よしよし・・・・・・」
子供のように扱われても、この腕を手放せない。
誰よりも逞しく、誰よりも心地良くさせてくれるこの腕を。
「・・・・・・・・・・・・・・・・好き。」
素直になるのは今しか無い。
悠理は呟きに乗せて、告白した。
「・・・・・・・・・・・やっと、ですか。」
「・・・・・・・・・・・うん。」
こめられた力の強さが彼の歓び。
二人は雨に濡れたまま、通じ合った想いを噛み締めていた。
その後。
雨は上がり、野梨子はすっかりいつもの調子を取り戻した。
「全く記憶にありませんの。私、何か変な事、申しておりました?」
それが嘘であることは、悠理にだって判る。
女に取り憑かれたことで、心の奥底に沈めていた本音が浮き彫りになったのだ。
けれど、悠理はその優しさに甘えた。
もし、彼女の思いが再び膨れあがったなら・・・・今度こそ正々堂々闘うしかないだろう。
まるで幼少時代のように。
「悠理。見つかったぞ。」
魅録が親指で庭を指す。
「やっぱり・・・・」
松の木の根元。
そこには実家に戻り、嫁いだはずの女中、桜の白骨死体が存在した。
死因はこれから明らかになるだろう。
そしてその犯人は・・・・・・
「おじさんが自供したみたいだぜ。」
「うん。」
「本気で惚れてたんだとよ。何度か関係も持ってたらしい。」
嫉妬に狂う男の手で、息の根を止められた女。
それを目撃し、慌てた母は、庭師が目を離した隙に彼女の死体を埋めた。
土を入れ替えたのは、その為だったのだ。
「嫉妬とは・・・本当に恐ろしいものですわね。」
ポソリ呟いた野梨子の背中を悠理が叩く。
「悠理、わたくしは・・・・」
「そういや、あたいも記憶にないんだ。ずっと首絞められてたからさ。」
泣きそうな瞳に首を振り、あっけらかんと答えた。
「ご、ごめんなさい。」
「しょうがないだろ?憑依されちゃってたんだし!あ、そうだ!」
「え?」
「お詫びにさ・・・・夏休みの宿題、手伝ってくれる?」
「まあ!」
手を合わせ懇願する悠理の背後で、いつの間にやって来たのか、清四郎が咳払いをする。
「そこは僕の出番ですよね?悠理。」
「あ・・・・せいしろちゃん。」
鬼家庭教師・・・もとい恋人となった男はそれでも手を緩めることはないのだろう。
「二週間で終わらせるよう、本気で頑張りますよ!」
「うげ・・・・んなの無理だってばぁ・・・!」
「やる前からそんなことでどうする。それに・・・・」
ともすれば逃げ出そうとする恋人の耳元に、清四郎はそっと顔を近付け、「余った休みは、僕と甘いバカンスを過ごしましょうね。」と囁いた。
息子が逮捕された翌日、母もまた息を引き取る。
こうして楽しいはずの連休は、とても残念な幕引きとなった。
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「あたい、もう信州には来たくないな。」
そんな悠理の呟きに否を唱える仲間はいない。