本編

「すっげぇ雷雨だな。参ったぜ。」

薄手のシャツに染み込んだ雨は、夏とはいえ寒々しい。
多少くたびれた様子を見せながら、魅録が駆け込んできた時、野梨子は明らかに普通の状態ではなかった。
まるで陽炎のように身体が揺れ、虚ろな視線をさまよわせている。

「おい、どうなってるんだ?」

納得のいく返答を期待し尋ねるが、世界一頼りになる黒髪の男は首を横に振るばかり。
お手上げ状態なのか、困惑した面持ちで魅録を見上げた。

「魅録ぅ、野梨子がおかしくなっちゃったよぉ!」

座敷の片隅でガタガタと震える悠理。
こちらも尋常ではない。
彼女の横には毛布を差し出す‘大叔母の息子’がいて、彼も心なしか顔色が悪かった。

聞けば、野梨子は座敷に戻るなり、畳にストンと腰を落とし、その後ブツブツと何かを唱え始めたらしい。
その異変に清四郎は慌てて駆け寄ったが、暫くすると口を閉じ、ゆらゆらと身体を揺らし始めたのだ。
どう見ても、いつもの野梨子ではない。

「何かに憑依されているかもしれませんね。」

過去の経験からそう推測するも、断言には至らず、清四郎は悠理の鳥肌を見つめながら溜め息を吐いた。
またか、という思いは当然あった。
悠理と霊障、切っても切れない繋がりがある。

しかし、いったいこの古き家に何が存在するというのだろう。
野梨子が感じていた不気味さは、霊感の乏しい清四郎には全くもって解らない。

「もお、帰りたいよぉ!!」

そう喚く悠理はいつもより弱腰だった。
何せ外は激しい雷雨。
先程、立派な松の木を引き裂いた雷の威力に、押し込めていたはずの記憶が甦って来たのだ。
彼女にとって今の状況は、まさしく『前門の虎・後門の狼』である。

「こりゃいよいよおかしいな。さっき車を調べたんだけどよ。どうやらラジエーターがイカれてるみたいなんだ。長く走るとエンジンがおしゃかだぜ。」

「車検から戻ったばかりなのに?」

険しい顔で尋ねる清四郎の不安は、魅録とて良く分かる。
彼自身、これらのトラブルについて、一つも納得してはいなかった。

「おじさん。」

即席の寝床を整えていた白髪の紳士は、魅録のかけ声にビクッと肩を震わせる。
それは明らかに過剰な反応。
突っ込みどころ満載だ。

「もしかして、この家に何かあるんですか?」

失礼な言い草だ、と思ったが構ってなどいられない。
何か良くないことの前兆であるのなら、一刻も早く解決の糸口を探らなくてはならないからだ。

魅録が予想した通り、数瞬の後、彼の怯えた反応が返ってきた。

「な、何かとは?」

「悠理は霊感が強いんです。特に死者のメッセージをキャッチする能力に長けている。もし少しでも何か知っているのなら教えてください。」

「…………何も知りませんよ。」

見え透いた反応に手応えを感じた清四郎も、別の角度から追及し始める。

「そういえば、野梨子も昔からこの家の妙な気配に勘づいていましたよ。」

「…………野梨子ちゃんが?」

催眠状態の娘を見つめ、とうとう男は項垂れた。
いくら疎遠だった親戚とはいえ、彼女に何かあっては申し訳がたたない。

それに野梨子は昔、母のお気に入りだった。
そのお人形のような姿形に目を細め、「野梨子は可愛いねぇ。」と髪を撫でながら、決して丈夫ではない膝の上に座らせていたほど、彼女を可愛がっていたのだ。

命の灯火が風に揺れ始めた今も、母の意思を尊重しなくてはならない。

しかし男は長い沈黙の末、ようやく口を開いた。

「………頑なな母が長年、口外せぬように、と言い聞かせてきた話です。」

作られた床に野梨子を寝かせ、清四郎は向き直る。
そして、聞きたくないとばかりに耳を閉ざそうとする悠理を呼び寄せると、目の前に座らせ、再びその体ごと後ろから抱きしめた。

「僕も魅録もここにいるから、大丈夫ですよ。」

「……………うん。」

赤面してしまうほど近い二人の距離に、魅録は慌てて煙草を取り出した。が、雨で湿気っていた為、結局ポケットへと戻す。

━━━━なんだ?こいつら………

いつもよりずっと優しげな清四郎と、いつになく素直な悠理。
思わず嫉妬してしまいそうになるほど、二人はぴったりと寄り添っていた。

雷鳴が轟き、障子から稲光が差し込む。
雨足はまだ緩む様子を見せない。

¤
¤

「かれこれ二十年以上も昔。この家には二人の女中が住み込みで働いていました。一人は‘光子’、もう一人は‘桜’。どちらもハタチそこそこの若さで器量も良く、その働きぶりにうちの母も相当気に入っていたようです。」

三人は出された茶を啜ることなく、耳を傾けた。

「同じ年頃のせいか彼女たちはとても仲が良くて、休みの日も一緒に出掛ける事が多かった。故郷は確か……東北の田舎と言っていたかな?一人は津軽弁を話していました。そんな中、町の喫茶店で知り合ったのが、‘橘家’の長男で‘伊織’という男です。」

「伊織?町の名士の息子ですか?」

「あの殺されちまったっていう?」

清四郎たちの反応に、男は「何故知っているのか?」と驚いたが、経緯を話せば、直ぐに納得し苦笑した。

「まぁ、有名なヤツでしたからね。古くから町に居る者なら、そのほとんどが知っているはずですよ。」

そして、チラと横目で悠理を見つめる。

「似ていると思ったのは、私だけじゃなかったか………。」

そういえばこの家にやって来た時、この老紳士の視線が悠理に釘付けだったことを、清四郎は思い出す。
その時は深く考えず、『男か女かを図りかねているんだろう』と推測したのだが。
どうやら、彼も『伊織』を意識していたらしい。

「こうして見れば、お嬢さんはやはり女の子っぽい雰囲気で、決して彼と間違うことはないんですがね。」

「いや、こいつ、よく男と間違われますよ。」

魅録がすかさずフォローする。
無論悠理は噛みついた。

「どう見ても女だろ?!」

「もちっとそれらしくすりゃあ、認めてやってもいい。」

「むぅう!」

二人の掛け合いに、場の雰囲気は少しだけ和やかさを取り戻したが、話の内容は決して楽しいものではないらしい。

「伊織はとにかく美男子でした。背もスラッと高くて、いつも粋な洋服を着ていましたしね。今でもあの見事な男振りは鮮やかに思い出せますよ。」

「もしかすると、その女中さんたちが関係しているんですか?」

ともすれば、憧れのような表情を浮かべる男へ、清四郎は話の先を促す。

「そう。伊織は見た目と違ってだらしない男でね。相手が若かろうが、たとえ既婚者であろうが、好みの女と見たら必ず手を出していました。トラブルは両の手では収まりきらないほどでしたよ。」

「へぇ………美童みたいだな。」

悠理の呟きに、二人の青年はコホンと咳払いした。
恐らくはくしゃみをしているであろう貴公子を思いながら。

「光子と桜もあっという間に惚れてしまって………最初は光子だったかな?伊織の住む離れに通い始めるようになったのは。」

「ということは、同時に二人とお付き合いしていた、と?」

「はは、そんな真面目なもんじゃありませんでしたよ。結局は遊ばれていただけなんです。」

「今じゃ珍しくもないが、こんな小さな町……あ、失礼。噂も広まるでしょう?」

魅録が食い込めば、老紳士は哀しげに微笑んだ。

「そうですね。だからこそ伊織は………殺されたんです。二人の女に。いや、正確には三人、か。」

「三人!?」

予想だにしていなかった事件の凄惨さ。
清四郎達は耳を疑った。

「まず最初に………伊織と一番長く関係していた女が、我慢の限界を迎えました。不幸にも彼女は旦那と別れたばかりで、実家に出戻っていたんですよ。そして親の反対を押しきり、何の約束もないまま、伊織との関係に溺れていった。惚れても無駄な男なのにね。それに気付いた彼女はとうとう彼に毒を盛ったんです。独り占めしようとして。今考えれば気が触れていたんでしょうな。」

当時、なかなか手に入らなかったその薬剤は、彼女の実家が病院である為、苦もせず盗み出すことが出来たらしい。
致死量を三回に分けて、茶と共に服用させた。

「いよいよ毒が回ってきた頃、伊織が夜を過ごしていた相手は‘桜’でした。彼女は我が家でこっそり、密会を重ねていたんです。しかし唐突に苦しみ始めた彼を助けようと、寝入り端だった光子を叩き起こし………」

「すべてが明るみになった、と?」

「まぁ、薄々は気付いていたんでしょう。でも光子は確信が持てなかった。すべてを悟った彼女の怒りは凄まじいものでした。相当お熱を上げていましたからね。」

包丁を持ち出し、まずは桜を切りつけた。
女の叫び声が響く中、苦しみながらも這い出てきた伊織は、そこで返り血を浴びた光子の立ち姿を見上げる。

「み………光子、おまえ………」

「貴方は…………貴方は………私だけのもの。そうでしょう?伊織。」

手を下さずとも恐らくは死に至ったはずだ。
しかし光子は振りかざした刃を躊躇なく彼の胸に突き立て、何度も何度も………彼を殺した。

大怪我を負った桜はその残酷すぎる光景を、縁側の柱に凭れながら見つめていたらしい。

血と、雨と、そしてケタケタと嗤い続ける女。

逃げ惑った伊織は庭に倒れ、雨水に浸りどんどんと赤く染まっていく。
彼の寝着であった白い浴衣は、遂に椿の色へと落ち着いた。

愛しい男の最期。
光子は満足そうに見終えると、自らの首に刃物を突き刺す。
折り重なる二人の交じり合う血は女の狂気を示すようで━━━

その光景を目にした桜は、とうとう気絶してしまった。

「………ま、まさか、それがこの庭………だったり?」

今にも気を失いそうな悠理はカタカタと歯を鳴らしながら、清四郎の腕にかじりつく。
毛布よりも何よりも、彼の懐が一番安心できると信じていた。

「事件の直後、母の命令で庭木、そして土をもすべて入れ換えています。名士の息子のスキャンダルですからね。あまり表沙汰にはならなかったようですが、それでも町の人間ならば皆、知っていますよ。」

「桜さんはその後、どうされたんです?」

「里に帰しました。東北の地で恐らくは所帯を持ったはずです。私も事件の後処理で忙しくて………流石に見送ることは出来ませんでしたが、後に母がそう言っておりました。」

繰り返し鳴り響いていた雷は、いつしか遠くへと退き、今はただ雨が降るだけ。

震える悠理の瞳が清四郎に請う。
早くこの場から立ち去りたい、と。

しかし、このままの野梨子を置いて離れる事は出来ない。
問題解決への糸口を探らなくては……。

じわじわと夜が更けていく。
三人がこの家で一夜を明かすと決断したのは、それから20分後のことだった。

湿気った布団は、ここ数年、客が一人として泊まって居ないことを示している。

簡単な夕食を摂り、大叔母に付きっきりだった嫁が手際よく皆の寝床を用意した頃、悠理の鳥肌もようやく落ち着きを取り戻していた。
とはいえ、決して油断してはならない。
野梨子の状況に今も改善は見当たらないのだから。

二間続きの座敷が開け放たれ、等間隔に敷かれた四組の布団。
しかしそれらは嫁が立ち去った後、悠理の手で近くに寄せられた。
もちろん、恐怖と不安から我が身を守る為である。

「清四郎ちゃん!魅録ちゃん!何かあったらあたいを守ってね?」

苦笑いする男達の横で、野梨子は相変わらず夢見心地といった様子だ。
清四郎たちの呼び掛けに、瞼だけは薄い反応を示すが、心此処にあらず。
心なしか顔色も青く見える。

当初、医者を呼びつけようと、電話を持ち出した大叔母の息子。
しかしそれを止めたのは清四郎だった。

霊媒師ならともかく、医者と霊障はむしろ水と油のような関係。
自分のように、怪しげな世界へと興味をそそられる者は、そう多くはいないはず。
下手をすれば精神科に放り込まれるのがオチだ。

「野梨子………どうしちゃったんだよぉ。」

涙目の悠理が望むはただ一つ。
この屋敷から一刻も早く別荘に帰ることだけ。
野梨子には申し訳ないが正直、悪い予感しかしない。
かといって「見捨てる」なんて言葉を吐けば、二人の男に冷えた目で見られることだろう。
悠理にとって、ヘビよりもミイラよりも、やはり幽霊が一番怖いのだ。

あれほど酷かった雷も終息へと向かい始めたが、雨は止む気配がない。
ふとすれば迫り来る夜気を感じ、肌がぶるりと震えた。

「困りましたね。僕もトランス状態の人間に催眠術をかけたことはないので、結果どうなるか解らないんですよ。果たして憑依されているのかどうかも定かじゃない。」

「おいおい。こいつの鳥肌が何よりの証拠だろ?ここには絶対やばいもんが居るんだって。それが死んだ女中か、はたまた女たらしの男かは、さすがにわからねぇけどな。」

「くっそ~!なんであたいばっかり気味悪いヤツが寄ってくるんだ~!!」

悠理の意見は尤もだが、あらゆるもの、特に死後の世界に興味を示す二人の男にとってはご褒美でしかなかった。

「僕なんか羨ましいくらいですけどね。今までおまえのおかげで色々な体験をしてきましたが、それはあくまで‘おまけ’のような物ですし。」

「そうだよなあ。俺にも霊感ってやつがあったら試したいこといっぱいあるぜ。」

━━━こいつらには一度、あたいの恐怖を味あわせてやりたい!

そう憤慨する悠理だが、言っても無駄だと解っている。

「ふん!いつでも替わってやるよ!こんな能力いらないもん!」

今のところ、霊媒師やイタコへの進路は考えていないわけで、出来る事ならこの二人に二等分したいくらいだ。
すっかりふて腐れた悠理の前に、そっと浴衣が差し出される。
綺麗に折り畳まれた、白っぽい浴衣。
よぉく見れば小さな花が無数に描かれているのだが、パッと見は死に装束そのもの。

「んぎゃ!何だよ、これ!!」

「奥さんが用意してくださったんですよ。まあ確かに、あんな話を聞いた後では着る気になれませんな。」

差し出した張本人は苦笑しながらその手を引っ込めた。

「あたりまえだろ!あたいはこのまま寝るかんな!」

「俺も浴衣要らねえや。」

二人揃って羽織っていたパーカーを潔く脱ぎ捨てる。
タンクトップとショートパンツ姿になった悠理が、ひんやりとした掛け布団に潜り込むと、それを見届けた魅録もまた、清四郎の隣に敷かれた布団へと寝転がった。

「もう十時、か。何かあるとしても、丑三つ時(深夜二時)あたりかな。」

「さぁ・・・どうなることでしょうね。」

長時間の運転疲れからか、掛け布団も被らず眠りへと落ちていく魅録。
電球は未だ煌々と光っているのに、驚くほど早く寝息をかき始めた。

しとしとしと━━━━

柔らかい雨音が立ち込める。
清四郎は豆電球だけを灯し、渡された男物の浴衣に着替えると、胡座を掻いて柱にもたれ掛かる。
こう暗くては、持ち歩いている文庫本もさすがに読む事は出来ない。
仕方なく布団を手繰り寄せ、三人の仲間達を緩慢な動きで見渡した。

━━━どれほど異常な状況下に置かれても、こいつらと一緒なら不思議と怖くはないな。

清四郎はゆったりと微笑む。

そして次に、こんもりと膨らんだ一つの山が微かに振動している事に気付いた。
布団に頭ごと突っ込んでいる為、その表情までもは窺えないが、恐らくは震えているのだろう。

「悠理。」

優しく声をかける。

「………なんだよ。」

「抱っこしてやりましょうか?さっきみたいに。」

「…………。」

数秒後、のそのそと首を出すその姿はまさしく海亀。
思わず吹き出しそうになる清四郎だったが、不安げな悠理が枕に顎を乗せ、「いいの?」と、か弱く尋ねてきた為、慌てて口元を引き締めた。

「コホン。良いですよ。ほら、ここにおいで。」

悠理は広げられた腕の中へと吸い込まれるように辿り着く。
ピタっと寄り添えば、清四郎が自らの布団でふわりと包み込んでくれた。

「こうしていると………おまえもすっかり女に見えるんですけどねぇ。」

「む?」

囁くような声で皮肉られ、悠理はふてぶてしく彼を見上げた。

「何言ってんだ、今さら。女に見えるから………告白してきたんだろ?」

「う~ん。………というよりも、悠理という名の『生き物』に惚れたってとこですか。」

「い、生き物!?」

小声で交わされる会話がどこかくすぐったくて、悠理の頬が自然と染まる。

「世界中どこを探しても、これほどまでに僕を楽しませてくれる珍獣は居ないでしょうから。」

それは酷い言いぐさだった。 しかし彼は、こちらが蕩けてしまいそうなほど甘い視線で絡め取る。

「そろそろ、返事を聞かせてやくれませんか。」

「い、1ヶ月待つって言ったじゃん。」

「おまえの足りない頭では、いくら時間を与えても答えなど出ないかもしれませんよ。むしろこうして、身体に聞いた方が早いのでは?」

暴言に近い台詞と共に、布団の上からがっしりと抱き締められ、呻く悠理。

「うぐっ………あほ!約束だろ?ちゃんと一ヶ月待てよ!」

周りを気にし、更にトーンを落として詰るが、清四郎の腕力は増すばかり。

「こんなにも僕に身を預けきっているのに、一体何を迷う必要があるんです?」

「だ、だって…………」

骨まで軋みそうな力の中、悠理は言葉に詰まった。

かれこれ二週間前。
放課後の部室で清四郎と二人きりになった悠理は、そこで思わぬ告白を受けた。

「おまえが好きです。僕の恋人になってくれませんか?」

あまりにもストレートな意思表示に、彼女の幼い脳は一度それをスルーした。
「どうせ冗談だろう。」
悠理はそう思い、笑う準備を整えたのだが、彼の目を見た瞬間、背筋が真っ直ぐに伸びた。
何故ならば、茶化したが最後、命に危険が及ぶかもしれないほど、その表情は真剣だったから。

『一体あたいのどこが好きなんだ』と怯えながら尋ねると、彼は何故か自虐的な笑みを浮かべ、『全て……………です。』と答えた。

果たして本音なのか、それともその場を誤魔化す為だけの曖昧な言葉なのか。
悠理は悩んだ挙げ句、一ヶ月の猶予を設けさせた。
清四郎もまた「わかりました。待ちましょう。」と潔く納得したはずなのだ。

とはいえ本当のところ、悠理もとっくの昔から気付いていたのかもしれない。

清四郎の秘めた想いに━━━━

与えられる優しさはいつも特別なものだった。
ただ、未熟な悠理にとってそれは受け入れ難い現実だっただけで、自分もまた結局は、清四郎を特別視していたのかもしれない。

そう。たとえどれほど意地を張ってみても、彼とは離れられないと解っていた。
離れたくないという……心の奥底に沈んだ欲求も。

嫌みくさくて、偽善的な部分も多くて、動物扱いされる事にも苛立つくせに、それでも悠理は彼を頼ってしまう。
縋り付いた途端、自分が弱き立場であることを認識してしまう。
温もりある懐で、甘えて、擦り寄って、そのままずっと一緒に居たいと願って………

「ねえ、悠理。もう誤魔化せませんよ?おまえは僕が好きなはずだ。」

逃げ場を失った悠理はビクッと身を縮める。

「あ、あたい……」

声は震え、頑固なほど力強い腕からは、とてもじゃないが抜け出せそうもない。
今はもう、目に見えぬ幽霊よりも、この男に意識の全てが奪われている。

━━━このままどうなってもいい。

それを望んでいる自分が確実に存在した。

焦らしたつもりはない。
けれど考える時間が欲しかった。
自分の中で育ち続けてきた’真実’が知りたくて……答えを得るために一ヶ月の時が必要だと感じたのだ。

しかし━━━━
それももはや限界なのだろう。
獲物を定めた狩人のように、清四郎の眼光は鋭かった。
悠理の心を見透かすその瞳は爛々と輝く。

━━━決して逃しはしない。

覚悟の時は、直ぐそこにまで迫っていた。

野梨子は彼らの会話を聞きながら、身の内で騒ぐ女の気配を感じ取っていた。
憎悪や嫉妬といった昏き炎が燃え盛っている。

こんな感情、ここ数年抱いた事はない。
大昔…………そう、悠理とクラスメイトになった中等部時代。
清四郎が何の気なしに悠理を褒めたあの日━━━チリチリと焦げるような妬みを初めて感じた。
そして二人の婚約話が持ち上がったあの日も━━━焦りと憤り、そしてマグマのような独占欲に駆られた。

清四郎を男として愛しているわけではない。
けれど自分よりも彼女を選ぶことは、どうしても耐えがたいのだ。

いつまでも側に居て欲しい。
誰よりも大事にしてほしい。
これからもその順位は譲れない。ずっと。

野梨子はゆっくり顔を傾け、ピタリと寄り添った二人を眺める。
かつてない距離で、彼らは言葉を交わしている。

━━━その人は私のもの。

声なき声が身体を支配し始めたが、野梨子はそれに抗えなかった。

━━━━清四郎。貴方は私よりも悠理が大切なの?

それは幼い独占欲かもしれない。
けれど、長年目を逸らし続けてきた現実は、あまりにも残酷に野梨子を切り刻む。
視線だけで想いを伝え合う二人に、憎しみに近い感情が立ち込め、想いの決壊が直ぐそこにまでやって来ていると感じた。

━━━━これは果たして私の意思なのだろうか?それとも…………

ゆらり身を起こした野梨子は幼馴染みの名を呼ぼうとした。 しかしそうする前に、もう一人の女が彼女の意識を覆い尽くす。
シンクロする女達の執着。

「伊織は………私のもの。」
「清四郎はわたくしのもの………」

甘い時間は終わりを告げ、野梨子の声に振り向いた二人は瞬く間に闇の世界へと引きずり込まれ、全てを支配されてしまう。

直前、二人の鼻を通り抜けた雨の匂い。
それには微かな血の香りが混じっていた。