トクントクン……
心音はそれでも穏やかだった。
悠理はどうであれ、清四郎は川の流れのように自然に近付き、赦されていない唇へ自分のものを重ねた。
それはしっとりと冷たく、足の痛みに耐える女の唇。
触れるだけの行為でも、興奮が煙のように立ち昇る。
一体自分は、今どんな罪を犯しているのか───
しかし清四郎の思考は罪悪感よりも強く、彼女の唇を求めていた。
啄むように動かした後、そっと窺うように離れる。
互いの距離は爪の先ひと欠片分。目と目がぶつかりあったままの状態だ。
悠理はピクリともしなかった。
それが余計に清四郎を煽ったのかもしれない。
再び重ねると、今度は彼女の後頭部を大きな掌で支える。
男の手で簡単にへし折れるほどの細い首は、それでもしっかりと脈打っていた。
「んっ……んんっっ??」
唇をこじ開けられる段になって、悠理はようやく覚醒したらしい。今まで大人しくしていたのは、半ば気絶していたからだと判る。
とはいえ、顔を背けようとしても清四郎が固定しているためままならず……悠理は生まれて初めて、”異性の舌“をその口で受け入れた。
滑らかかつ器用な動きで歯列を割る清四郎の舌。
頭の中では『待て!待て!こらぁ!!』と悪態を吐いているのに、何故、俊敏なはずの身体は動かないのか。
思わずぎゅっと目を閉じるも、よりいっそう生々しい感覚が伝わり、結局目を開いてしまう。
事態が改善されたわけでもない。清四郎の高い鼻筋はすぐそこにあり、瞼を閉じた顔は、まるで音楽を聴いているかのように恍惚としていた。
(こいつ……なんでこんなことしてんだ!?)
震える手を渾身の意思により動かせば、それを見透かしたかのように清四郎の腕が悠理を抱きしめる。
「んぐ……っ!!」
理性を手放した男の力。逃げ出すことを不可能に感じさせるほどの強さだ。
しかし──ふっ……と力を抜けば、彼の腕もそれに倣う。
完全に抵抗を封じるわけではないのだろう。その瞬間を狙い、悠理は逞しい胸板を強く押しのけた。
息切れと激しい動悸。背中には冷たい汗が流れている。
散々舐め回された口は清四郎の味が残っていて、軽い違和感を感じた。
自分のものとは違う味───
「な……なにしてんだ……おまえ……」
睨みつけ、静かに怒りを伝えると、清四郎は唇をぺろっと舐め、前髪を掻き上げた。
それはいつも通りの彼。
余裕しか感じさせない、揚々たる仕草。
「キス……ですよ。そのくらい知ってるでしょう?」
「いや待て。あたいが聞きたいのは……なんでおまえがキスしてきたかったことで……」
「………何を伝えても、納得してくれそうにありませんがね。」
清四郎は再びガーゼを重ねると、手際よく包帯を巻き始めた。
自己完結したような男の態度に悠理は憤る。
かといって、どんな答えが聞きたいかなんて、分かりゃしない。
嵐の後のような混乱だけが残る悠理を知ってか知らずか、清四郎は手当てを終えた脚を優しく擦った。
「悠理………」
「な、なに?」
「おまえは僕を……どう思ってる?」
「………へ?」
想定外の質問は、彼女を更なる混乱に突き落とした。
目を丸くし硬直する悠理に対し、大きな手は、繰り返し優しく脚を撫で続ける。
「この島にきてから……僕自身戸惑っています。」
「戸惑う?どういうことだよ?」
珍しく言い澱む清四郎を注意深く眺める悠理に、ファーストキスのショックとやらは見当たらず、今は目の前の友人から吐き出される真実にのみ、興味を示した。
「おまえを誰にも譲りたくない………他の誰にも。」
「はぁ??」
「分かりませんか?………まぁ、分からないでしょうね。」
半ば諦めた口調で、清四郎は続ける。どこか自棄っぱちな雰囲気。何もかも吐き出して楽になりたいという安直な逃げ道を選択したいのか?
「芝田さんをどう思ってる?」
「おっちゃん?別になんとも……てか、何なんだよ、さっきから!あたい……分かんないんだけど!」
「………僕にキスまでされて、まだ分からないって?ふざけてるんですか?」
どうしてこっちが怒られなきゃなんないんだ!
今すぐにでも憤慨したい気分だったが、清四郎の情けなくも切ない視線を捉えた瞬間、飛び出しそうだった罵りも胸の内へと引っ込んでゆく。
(あたいにキスしたかった清四郎。それって……えと……それって……やっぱ、一般的な感じで言うと……)
「まさかおまえ、あたいのこと……す……好きになっちゃったのか?」
「端的に言えば……そうですね。」
「たんてき?トンテキの仲間?」
「…………。」
茶化すこともできない空気の中、悠理はどっと力を抜いた。
清四郎の苦悩めいた表情を見るに、本当はそんな事実を受け入れたくないんだろうと思う。
こんなお馬鹿で下品な女を好きだなんて、子々孫々にまで笑われること間違いない。
「好き………かぁ。なんか勘違いしてるわけじゃないよな?熱あったりしない?」
「たとえ40度の熱に魘されていようと、お前相手にそんな勘違い、するわけありませんよ。」
「どういう意味だ!?」
「ようするに!!シラフで唇を奪ってしまうほど、おまえにイカれてるってことだ!」
「!!!」
勢いよく押し倒された先はもちろんシーツの上であって、さっきよりも危険な体勢に落ち着いてしまったことを、悠理はようやく理解した。
「せ、せぇしろ……落ち着け!なっ?」
「落ち着いています……少なくとも今はね。だから答えてください。僕のことをどう思ってる?」
「ど、どうって……その……」
いきなりの難問に目が泳ぐ。
改めて見れば男の身体は大きく頑丈で、顔の両側に置かれた腕は逞しかった。
見下ろす清四郎の切実な瞳。
答えを聞くまで逃してくれないつもりだろう。
まるで小さな鳥籠に閉じ込められたような感覚に襲われる。
胸が痛くなり、言葉を紡ぐことに抵抗感が生まれ、悠理はそれでも何か言わなくちゃと必死で口を開いた。
「あ……あたいは、おまえのこと……」
「こらこら、怪我人相手に何してる?」
水を差したのはもちろん芝田。他の四人なら固唾をのんで見守っていたにちがいない。こんな面白いことを見逃すほど、善人たちではないからだ。
腕組みし、目を細める芝田は、不快な光景を見たといった表情で清四郎を睨みつけた。
その視線から逃れるように、二人はゆっくり身を起こす。
「話し合っていただけですよ。」
殊更落ち着いた様子で髪を整え、襟を正す清四郎だったが、それに対し、悠理は真っ赤な顔を隠せない。
脳内は混乱に次ぐ混乱で破裂しそうだった。
「話し合い……ね。そんな言い訳、おまえらしくないんじゃないか?」
「………貴方が口を出すほうが、“らしくない”んじゃないですか?僕達もそれなりの年齢です。見て見ぬ振りくらいして下さいよ。」
明らかな敵意。清四郎は芝田を挑発するかのように、腕を組んだ。
「ふっ。犯罪めいたことは見過ごせない性質でね。」
「……僕が本気で襲うとでも?」
「違うのか?あわよくばそのまま手籠めにしようとしてただろう?」
「何年もかけて築き上げた信頼を、そんな詰まらないことで失うはずないでしょう。」
苛立ちを隠さず吐き捨てる。
ハラハラしながらも男二人の様子を見守っていた悠理だが、これ以上続くと折角の楽しい旅が壊れてしまうと危惧し、彼らの間に割って入った。
「ストーーーップ!!二人共止めてくれよ!あたいは腹減った!おっちゃん、なんか用意してくれる?」
「いいのか?怪我人を襲うような友人を許して……」
芝田の問いかけに悠理は真っ向から反論する。
「あのさぁ……あたいもそれなりに強いし、こいつが本気であたいを傷つけたりしないことくらいわぁってるよ。長い付き合いだもん……。そんくらいはわかってる!」
それは圧倒的信頼の上に成り立つ発言だった。ある意味清四郎の欲望を鎮圧させるようなパワーを持っている。
「…………了解。君がそういうのならこれ以上追及しないでおこう。……で、プディングなら直ぐに用意できるからいつでもどうぞ。」
「サンキュ!」
チラッと視線を清四郎に戻す芝田だったが、それ以上何も言わず、廊下へと消えていった。
残された二人に、静かすぎる沈黙が流れる。
重苦しい空気の中、悠理はなんと口火を切るべきか考えた。
清四郎が………
清四郎があたいを好き?
その言葉だけは、疑いようがない真実なのかもしれない。
日頃、冷静沈着で理性的な行動しかとらない男が、まるで飢えた狼のように悠理を押し倒した。
あまつさえ……あんな激しい口付けまで………。
もし突っぱねていなかったら、今頃どうなっていたんだろう?
「…………」
「…………」
共に黙り込んだまま二分近くが経った。
「ふぅ…」
深い溜め息を吐いた清四郎は、わざとらしく肩を回し、悠理から距離をとる。
「………無茶な質問でしたね。忘れてください。」
「え……?」
「おまえが、僕の想いに応えてくれるはずはないと判っていたのに……つい衝動に身を任せてしまいました。本当にすまなかった。」
彼の知的な横顔を見上げると、ポーカーフェイスはどこへやら。
そこには苦渋が滲み出た表情で佇む清四郎がいた。
バツの悪そうな……それでいて取り繕うための努力をする哀れな姿。
悠理はそんな彼に胸が絞られ、そして痛感したのだ。
───こんな清四郎がもっと見たい、と
「………別に諦めなくてもいいじゃん。」
「………え?」
「あたいだって……いきなりそんな風には考えらんないけど……おまえのことは……それなりに……す、好きだし……」
照れる悠理を呆然と見つめる男の拳が強く握りしめられた。
これは大誤算。
想像の斜め上をいく反応だ。
「…………可能性はある、と?」
「わ、わかんないけどっ!!でもゼロ………じゃない……と思う……」
悠理が放つ精一杯の答えは、清四郎の胸を強く打った。
過去に経験したことのない甘酸っぱさと切なさ。
まるで今初めて恋を知ったかのようなもどかしさも孕み、目の前に座る悠理が七色の光を纏った天使のように見える。
「悠理……」
そっと手を伸ばし、頬に触れる。交差した視線は互いをキャッチしたまま離れない。
当然のように触れられても、悠理は抵抗しなかった。
否、出来なかったのだ。
「………おまえ、手ぇ早すぎだろ。」
精一杯の悪態を口にし覚悟を決めれば、清四郎の高い鼻が優しい風と共に近づいてきた。
「仕方ないでしょう?これが初恋なんだから……」
どこか開き直った顔で視界いっぱいに存在する男は、まるでお手本のような口付けを落とす。
そして………
ありったけの想いを込め、強く、強く、悠理を抱きしめた。
「ぐぇっ………」
「覚悟してくださいよ……。必ず僕の初恋を実らせてみせますから。」
知るか!!っと思えど、彼の嬉しそうな声が耳の中で反芻され、諦めた悠理はそっと力を抜いた。
さて、二人が南の島でどんな恋物語を繰り広げるのか。
乞うご期待。