遠い島の小さな初恋物語(3)

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“安静に”と言われたとて、大人しく聞き入れるような女ではない。
せっかくのバカンス。 大好きな海は直ぐ目の前に広がっているのだ。

翌朝、芝田お手製のモーニングをたっぷり腹におさめた悠理は、早速海へ行きたいと喚き出した。
仲間たちの白けた視線を一身に浴びながら……。

「いい加減にしなさいよぉ……。治るもんも治らないじゃない。」

「そうですわ。縫うほどの怪我ですのに、よくそんなにも元気でいられますわね。」

「せっかくの旅だもんね。……気持ちはわかるけどさ。」

それぞれが幼い知能の彼女を宥めようとするが、そんなことで大人しくなるようなタマではない。

「魅録ぅ……ボート出してくれよぉ…。せめて船の上からマンタが見たいんだよぉ!」

と我儘全開で泣きついた。

「わりぃが今日は無理。いつもより深い海に潜る予定で、酸素も借りてんだ。」

「なんだよ、裏切り者ぉ……」

恨みがましい目で睨めど、魅録は黙々と支度を続け、悠理は仕方なく矛先を清四郎へと向けた。

「せいしろちゃんは?暇だよね?」

断定的な問いかけにカチンときたものの確かに予定はなく………

清四郎は「ボートの操縦なんか出来ませんけど?」と冷たくあしらう。
実はそれなりに出来るのだが、ケガをしている友人を連れて行きたくはない。

そんな彼らを見かねて、口を出したのが芝田であった。

「ボートなら俺のやつを出そう。夕飯に出す魚を獲りたかったから丁度いい。」

まさしく渡りに船。
悠理は「やったあ!」と両手を挙げ、子供のように喜んだ。
そんな彼女を微笑ましく見つめる芝田の目に、清四郎はどうしても深い意味を探ってしまう。

もしかして………

────いやまさかね。

大人の余裕と包容力。
その2つは清四郎にはまだ備わっていない男の魅力だ。

芝田の態度にプライドが刺激されるも、結局は悠理の思うがままに事は運びつつあった。
三人は小型のフィッシングボートで沖合に出かける計画を立て、清四郎はその支度に追われる。

「鎮静剤、忘れるなよ。」
「分かってます。」

悠理が負った傷は決して浅くはない。いくら縫合、止血されていても、荒くれ者の行動は時として予測不可能なのだ。油断は出来ない。
清四郎の荷物にはありとあらゆる事態に備え、数多くの医療品が詰められていた。
もちろんどんなトラブルにも対応できるよう、衛星電話は欠かせない。

「悠理、あまり迷惑かけるんじゃないわよ。」

エステの予約がなければきっと同乗しただろう可憐は、悔しそうに芝田たちを見つめる。

「了解!」

自分のわがままが通ったことで潔い返事をする悠理を、野梨子は眉を顰めながらため息と共に見送った。

 


 

「わ……わわ!あれってもしかしてマンタ?海亀もいるじょ!」

太陽は燦々と照り付ける。
少し沖合に出ただけなのに海の透明度は断然上がり、海底の珊瑚まで臨めるような絶景ポイントに辿り着いた。
ここは地元の人間しかしらない穴場スポット。
大海原とは違い、岸壁に囲まれたそこは、秘境と呼ばれるダイビングの聖地だった。

魅録も来ればよかったのに‥‥
悠理はぼやいたが、魅録は魅録で魅力的な海を堪能していることだろう。

「さ、俺は釣りでもするかな。」

芝田は早速釣り糸を垂れ、夜のおかずになりそうな魚に狙いを定める。
となると必然的に悠理の手綱を締めるのは清四郎の役割となるわけで………

「あ~あ、マンタと泳ぎたかったなあ。」
「また今度楽しめばいいでしょう?怪我さえ治れば、どこにでもお付き合いしますから。」
「ほんと?絶対だぞ!?」

宥める役も楽じゃない。
清四郎は海の中を指さし、「ほら、あそこにもわりと大きめのマンタが…」と悠理の好奇心を満たし続けた。

昼過ぎになると、少し雲が広がり始めたので、芝田が作ったサンドウィッチを頬張る。

先ほど釣った魚は手際よくさばかれ、カルパッチョへと見事生まれ変わっていた。

淹れたてのコーヒーとフルーツ、いつの間に用意したのか「フラン」と呼ばれるプディングまで。
悠理は芝田の器用さに感心しきりである。

「おっちゃんと旅したら困ることなさそう。」
「はは‥‥ひと通りの経験はしてきてるからなぁ。」
「どこの国が一番楽しかった?」
「うーん、どこも魅力的だけど、やっぱりペルーや南アフリカは何度行っても良いと思うね。」
「へえ!あたいもアフリカ行きたいんだ。一緒に行こうよ!飛行機は出すからさ。」

どうやら悠理は芝田に懐き始めたらしい。
一気に距離を縮め、子どものように誘惑する。

「こんなおっさんと一緒に行ってもつまらないだろう?」
「なんで?物知りで経験も豊富だし、あたいはおっちゃんと行きたいんだけど。」

二人の会話を聞いていた清四郎はまるで砂を噛んだような表情へと変化した。
目の前の友人は餌付けされることはあれど、ここまで熱心に何かを請うような女ではなかった。
まだ会って間もない年の離れた男を旅へ誘うなんてこと、今まで一度として見た覚えはない。

一体悠理の心に何が宿ったのか。
どうも引っかかる。

そして清四郎の胸にもまた、得体のしれない何かが芽生え始めていた。

 

「悠理、芝田さんにも仕事があるんですよ。」
「あ、ホテルのこと?……そっかぁ、長くは空けれないんだよなあ。」

心底残念そうに呟く姿が不快感を呼んでくる。
自分はいったい何を見させられているのだ。
悠理が頼りにする男は自分や魅録であって……決して他人の男などでは…。

「冬…………そうだな、いつも11月末くらいから長期休暇を取ることになっている。その頃ならお嬢様にお付き合いできると思いますよ。」
「え?マジ?やった~!!約束だぞ!」

両手を上げて喜ぶ悠理を、慈悲深い表情で見つめる芝田。
笑い皺すら魅力的な男が、何かを得たように口を緩める。

二人の距離がどんどんと近付いていく。
そのことになぜこんなにも焦燥感を抱くのか。
清四郎の頭は混乱し、握られた手が冷たくなっていくのを感じた。

 

先ほどの雲がどんどんと色を濃くしていくと、とうとう雨が降り出した。
南国特有のスコール。
しかし数時間は止まない気配だ。

「一旦、岸壁の陰に避難しよう。」

器用にボートを操舵する男は、比較的雨の届かない場所へと移動する。
ボートの中はさほど広くはないが、三人が横になれるだけのスペースはかろうじてあった。

「………ッ、いてて………」

小さなうめき声を上げた悠理に、いち早く気付いたのは芝田。

「清四郎、救急セットを。」
「あ、はい。」

荷物から取り出したガーゼと包帯、それに消毒液を並べると、またしても芝田の手できっちり手当てが成された。手際が良い。

ショートパンツから伸びる健康的な脚が痛々しく、清四郎は思わず声をかける。

「痛み止め、飲むか?」
「うん、頂戴。」

渡された薬を水で飲み干し、悠理は一息をつく。

「ごめん、あたい、こんななのに我儘言っちゃって。」

傍若無人、唯我独尊。
殊勝な言葉など彼女には似合わない。
肩を落とす勢いの悠理に芝田は笑いかけた。

「おかげであんなでっかいマンタが見れた。地元民でもなかなか出会えないクラスの大きさだったぞ。」

それが慰めになったのかはわからない。
しかし悠理は芝田を見つめ、「えへへ」といつもの笑顔を取り戻した。

清四郎の胸が痛む。
悠理を泣かせるのも笑わせるのも、自分が一番得意だと自負していた。
それなのに、経験値がものをいうのか目の前の男はすっかり悠理の懐に収まっていて、それがどうにも受け入れがたい。

痛み止めのせいでウトウトし始めた友人は、無防備に体を横たえる。おそらくはかなり無理をしていたのだろう。体力を消耗したに違いない。

男二人の間に沈黙が流れる。
雨の音がBGMとなり……

「清四郎。」

口火を切ったのは芝田だった。

「おまえは一見器用そうに見えるが、実のところ不器用だからな。」
「どういうことです?」
「たまには心赴くままに行動すればいいってことさ。」

清四郎の心の揺らぎを捉えたのだろう。
芝田の見透かすような目がイラっとさせる。
一体彼の目に何が映っているというのか。
清四郎は未だに分からない。
ただ、先ほども感じた焦りと憤りが、全て悠理に直結しているのは確かである。

「………僕の友人に、手を出さないでくださいね。」

それは清四郎が芝田へ初めて発した牽制。
目と目がぶつかり合う。
互いの沽券を示し合うかのような火花が散り、清四郎はとうとう思い当たった。

そうか。
僕は彼に悠理の信頼を奪われたくないんだ。
彼女の視線も、拠り所としての存在も、依存も………全て自分にだけ注いでほしい。
馬鹿馬鹿しい結論だと思う。
それでも清四郎はその答えに納得を見出した。

これも一種の愛情なのか?

解らない。
もしかしたら自分こそが悠理に依存しているのかもしれない。

 

「相変わらず、難しく考えてるな。」

喉の奥で嗤う芝田に、清四郎はいつものポーカーフェイスを決め込んだ。
これ以上、弱みを見せたくはない。
これ以上、自尊心を揺さぶられたくない。

「そうかもしれません。…でもこれだけは確定している。」

「なんだ?」

「悠理は────僕のものです。」

それは重い覚悟を決めた、渾身の一言だった。

 

 

(続く)