忘れられない女(3)

 

PM6:00───菊正宗家

清四郎が学校から帰宅して10分あまりが経つ。
夜に行われるESPオンライン会合の準備を整えていると、仕事を終えた修平を待ち構えていたかのように、冴子はやってきた。
いつの間に面接したのか、菊正宗病院で働く事が本決まりとなっていて、その御礼を言うため訪れたらしい。
手には風呂敷に包まれた高級和菓子。
銀座の老舗、それもなかなか手に入らない貴重な品だった。

「先生、本当にありがとうございました。これからどうぞよろしくお願いいたします。」

深々と頭を下げる冴子に修平は「期待してるよ。」と肩を叩く。
冴子から渡された紹介状には彼女が優秀な医者であることが明記されており、修平にとってもありがたい人材だった。
ただでさえ心臓外科医はなり手が少なく、特に若い医者が居着かない。オペ慣れした医者はまさしく金の卵。後はその優れた腕を磨くだけ。

どちらにせよ冴子は病院にとって必要な人材だった。

 

 

「よかったですね。」

すっかり日も落ち……手入れされた中庭は青い月明かりに照らされていた。

廊下で冴子とすれ違った清四郎は、一言そう告げる。
本音ではこれ以上の縁を望んではいなかったが、こうなっては仕方がない。
どうせ彼女も忙しくなるだろうし、接点は自ずと減っていくはず……そんな風に考えていた。

「ありがとう。でも顔に出てるわよ。」

何もかも見透かしたような目で冴子は微笑む。
そして月を眩しそうに見上げると、「タイミングが悪かったかもね。」と小さく呟いた。

「どういう意味です?」
「ん~、気にしなくていいわ。独り言よ。」

清四郎にとって、冴子はすこぶるやりにくい相手だ。
正直、関わり合いを持ちたくない。
とはいえ、一抹の懐かしさが過ぎるのは仕方のないこと。
彼女は未熟な自分を知る唯一の女なのだから当然だ。

「言いたいことがあるのなら、どうぞ。」
「あら、言っていいの?困るんじゃない?」
「困りませんよ………」
「へぇ………随分と頼もしいのね。」

人の気配がない場所で、こんな会話は危ないと解っていても、清四郎は止められなかった。
それは決して男女の駆け引きなどではなく、どちらが上かをはっきりさせる為の意地と闘い。
もちろん冴子は全てを理解しているだろう。

理解した上で乗ってくることも、清四郎は知っていた。

「馬鹿にされてるような気が………」
「そんなことないわ。貴方は素敵に成長したもの。恋人が居なかったらよかったのに……って本気で思うくらいよ。」

褒めている割に軽い口調。
恐らくは、本音とお世辞が半分ずつといったところだろう。

「冴子さんは変わりましたね。」
「どんな風に?」

──どんな風?
その質問は否が応でも過去を思い起こさせる。
彼女の手によって与えられた全ては、やはり魅力あるものだった。少年の清四郎が抱いていた思いが胸をくすぐる。

「………逞しくなりました。」
「ふふ、それって誉め言葉なのかしら?」
「そういうつもりで言いましたよ。」
「へぇ………」

知的に輝く瞳が、魅惑的に細められる。使い慣れたその妖艶な流し目は、普通の男ならイチコロだろう。

「そんな風に突き放すんだ。清四郎君も悪くなったわね。」
「……それなりに経験を積みましたから。」
「クスクス………やらしい言い方………でも………」

『悪くないわ』
囁くようそう言って、冴子は清四郎のシャツに唇をグッと押し当てた。
くっきり残るリップマーク。
ブラウンレッドのそれは、彼女の想いを伝えるかのように濃い色を残してしまう。

「………やってくれましたね。」
「お姉さんをからかうからよ。」

口紅の痕をトントンと指で叩いた冴子は、「じゃあね」と風のように去っていく。その後姿はウキウキとした様子を隠さなかった。

まだまだ敵わない。
敗北感を与える女は、この世に一人でも多いというのに──

「やれやれ。あまり会いたくありませんな………」

下ろしたてのシャツを苦々しく見つめながら、清四郎はやはり悠理を恋しく思った。

 


 

手を繋ぎ歩くことは、どことなく恥ずかしい。
たとえ清四郎が歩幅を合わせてくれたとて、その感覚は拭えなかった。心も体も繋がっているというのに、何故こんなにも恥ずかしく思うのか。
悠理は空いた方の手をにぎにぎしながら首を傾げた。

「あ!可愛いバッグ!」

そんな中、唐突に目に飛び込んできたその赤いバッグは、蝶が型押しされた独特のデザインで、どうやら彼女のお眼鏡に適ったようだ。
颯爽と店内に入れば、スタッフが心地よい声で出迎えてくれる。
よくよく見ると、紳士物も取り扱うセレクトショップで、インポートブランドを中心に、質の良い個性ある商品が多く並んでいた。

「へぇ、こんな店知らなかったな~。」
「先週オープンしたんですよ。ごゆっくりお寛ぎくださいね。」

それほど広くはない店内を二人で巡っていると、またしても客がガラス扉を開け、入ってくる。

「いらっしゃいませ。」

何気なく……そう、何気なく視線を投げれば、そこにはなんと鳴海冴子が立っていた。
いつものカジュアルな服装ではなく、ビジネススタイルの白いシャツと紺色のストレートパンツ、ベージュのローヒールパンプスを履いている。
肩にかけられた鞄はそれなりに使い込まれたブランド品で、革の質感が程よく落ち着いていた。

年の功だろう。彼女は自分に似合うものをよくわかっている。

清四郎は冴子の存在を見留めた瞬間、自分の運の無さを嘆いた。

「あらまあ!奇遇ね。デートかしら?」

当然の如く、冴子はにこやかに近付いてくる。
清四郎の顔は強張ったが、それ以上に悠理の全身は固く凍りついた。

「ええ、そちらは?」
「来週から病院でしょ?使えそうな服を買いに来たの。この店は昨日友人に教えてもらったんだけど、なかなかセンスが良いらしいわね。」

ぐるりと見渡す冴子の目に嘘やお世辞は隠れていない。
既に数点目ぼしい商品を見つけ、恐らくそれらを購入するつもりなのだろう。

「あ!……丁度良かったわ。この間貴方のシャツをダメにしちゃったから、一枚プレゼントさせてくれる?」

意表を突く台詞に眩暈をおぼえる清四郎。
冴子の意地の悪さが、まさかこんな風に攻撃を仕掛けてくるとは、さすがに想定していない。

「……シャツ?」

悠理は眉を顰め、尋ねる。

「ええ、そうなの。ちょっとしたアクシデントで清四郎君のシャツに口紅がついちゃったのよね。口紅ってクリーニングに出してもなかなか落ちないから……ね、お詫びにプレゼントさせて。」

ここまでくれば、悠理とて判らぬはずがない。
相手はどう考えても自分達の間に割り込み、ヒビを入れようとしている。
本音はどうであれ、悠理に対する挑戦状を投げつけているのだ。

あからさまに、大っぴらに、見え見えの挑発で。

「ん〜、昔よりずいぶんサイズアップしたでしょう?首回りも太くなったし、胸板も厚いわよね。あ、もしかして腕も伸びたのかしら。」

それはある意味とてもやらしい言い方だった。
自分は昔の清四郎を知っているのだと言わんばかりの台詞。
当然、悠理の頭が煮え始める。

「止してください。シャツなら気にすることはありません。辞退します。」
「あら、どうして?いいじゃない、このお店のモノなら清四郎君に似合いそうなんだけど………」

「ちょっと!!そこのおばさん!」

冴子が言い切る前に、悠理はスタッフの一人を大声で呼んだ。
それは怒声と言っても過言ではない声量。

「は、はい………!」
「ここにある商品、全部買うから。」
「………は?」
「このカード使って。そんでもって荷物はあたいの家に運んでくれる?」

ポカンと口を開いたままのベテランスタッフの後ろから、不穏な様子を見ていたであろう女店長が駆け寄ってくる。

「ぜ、全部と言いますと…?」
「全部だけど?靴下一足、ピアス一個残らず、全部ね。」

呆気に取られていたのは販売員だけではない。
冴子と清四郎の2人もまた、悠理の発言に目を見開いた。

「ゆ、悠理………そんな馬鹿げたことをする必要はないでしょう?」
「うっせぇー!!!」

制止する恋人を振り返り、怒鳴りつける。

「ざけんなよ!あたいなぁ、そこまで優しくないんだ!」

露わになる怒り。
激情、そして殺意にも似た嫉妬。
憤りに輝くその目はやはり美しく、言葉を失った清四郎は思わず見惚れてしまった。

「………。」
「あたいにだって、この女がおまえに執着する意味は解るさ。解ってないのはおまえだけだろ?」

普段からは想像も出来ない言葉で責め立てる恋人に恐怖するも、結局は愛しくて仕方ない。
だが、これほどまでの怒りを生み出してしまった原因、それを排除しなくてはこの先の2人に暗雲が立ち込めるのは間違いなかった。

清四郎が思案にふける中──

クスクス………

呆気にとられていたはずの冴子が笑い出す。
さもおかしそうに口に手を当て、堪えきれないのか体全体を震わせ始める。

「ふふふ……清四郎君、ごめんなさいね。まさかこんな反応が返ってくるとは思わなかったの。」

元凶である女の能天気な言葉にイラっとするも、清四郎は心を落ち着け相手の出方を待った。

「剣菱家のご令嬢は只者じゃないってことね。ほんとすごいわ。」

ようやく身を起こし、笑顔を封じた冴子。
だがその表情に敗北の二文字は見当たらず、悠理の目を真っ直ぐに射貫いた。

「貴女……良くも悪くも子供なのね。けれどそのままのあなたで彼の隣に立ち続けることが出来るかしら?」
「……なんだとっ!!?」

牙を剥く悠理の前に立ち、清四郎は冴子に通達する。

「さすがに踏み込みすぎですよ?」
「ふ………確かに、私らしくないわね。だから今日は大人しく引き下がってあげる。」

どこまでも上から目線の物言いに不快な思いがこみ上げ、清四郎のこめかみが痙攣した。

「何をどう感じようと、もう二度と僕たちに関わるな。」
「そんな悲しいこと言わないで?私と貴方の仲じゃないの。」

“逞しい”………と評価した女の心はまるで鋼のように強く、言葉が響かない。

そんな手強い女を前にして、清四郎は背中で鼻息を荒げる恋人を今後どう宥めるべきか、混沌たる状況の中、考えた。

これほどまでの事態が起こった理由はなんだ?
一体、冴子は何がしたい?

苦々しく奥歯を噛みしめる清四郎の胸は荒れ狂う嵐のよう。
このままでは悠理に深い傷を負わせてしまう。

「………振り返るほどの関係じゃありませんよ。久々の日本で郷愁を抱いているだけでは?」
「郷愁?ふふ……なるほどね。貴方、本当に悪い男になっちゃったんだ。」
「もう……行ってください。」
「そうするわ。可愛い彼女をしっかり慰めてあげて。」

冴子がようやく店から立ち去った後、広がるはこの世の地獄。
まさしくそんな状況の中、悠理はどすんと床に崩れ落ちた。

「悠理!?」

慌てて膝をついた清四郎は、彼女の顔が蒼白していることに気付く。
呼吸が浅い。
目も虚ろだ。
心がどこかへ浮遊しているような、抜け殻の悠理。

「悠理!こっちを向け。」
「せ、せぇしろ……」
「いいんだ!泣いて喚いて、好きにしろ!僕を殴ってもいいから!」

その言葉を聞き、悠理はようやくポロポロと涙を零し始めた。
くしゃくしゃになった泣き顔を胸に抱えると、彼女の腕がポコポコと背中を叩き出す。
恐らくは精神的に追い詰められ、限界に達したストレスが引き起こす一種のヒステリー症状。

(彼女が現れてから、ずっと我慢していたのか……)

悠理の心中を察し、清四郎は自分の無能さを呪った。

「ぅぐっ、ぅぐっ……わーーーーーーん!!!」

子供のように泣き叫ぶ姿。
糸が切れたように、ダムが決壊したかのように、悠理は激しく泣き続ける。
店長たちが唖然と見守る中、空を仰いだ清四郎は、もはや冴子の存在を’悪’と捉えた。
彼女を金輪際近付けてはならない。
自分にも、悠理にも。

 

そうして十分ほど泣き続けた恋人は、清四郎の胸板で恥ずかしそうに首を振った。

「ごめん、涙と鼻水、付いちゃった……」
「気にするな……そろそろ立てるか?」

こくんと頷き、腰を浮かせる。
そこにはいつもの顔色に戻った悠理が居て、清四郎は胸を撫でおろした。

「だ、大丈夫ですか?」
「すみません、ご迷惑をおかけしました。」
「タクシーをお呼びしましたので、そちらへ。またのお越しをお待ちしております。」

有能な店長の優しい気遣いは二人に好印象をもたらす。近々訪れることを予期した彼らがタクシーに乗り込んだ後、悠理の頭を撫でる清四郎の表情はいまだ強張っていた。

「お客さん、どこへ?」

当初、不審者を窺うような目付きだった運転手も、二人が身に着けている衣服を見て、いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんだと判断したらしい。掌を返したように、ニコニコと返答を待ち続けた。

「……僕の家に来ますか?」

優しい問いかけに悠理はフルフルと首を振る。

「二人きりがいい‥‥どうせなら……綺麗な海がみたいな。」
「分かりました。」

そう言って清四郎は行先を“空港へ”と告げる。

「どこ行くんだ?」
「そうですね……ひと先ず沖縄なんてどうです?」
「沖縄!?」
「悪くないでしょう?」
「う、うん!!」

悠理の機嫌が角度を変え良くなったが、それでも清四郎は油断できなかった。

(あんな状態の悠理は初めてだ。よほど我慢していたに違いない。)

自分の落ち度とはいえこんな失態を放置するわけにはいかず、彼は今出来る最善の道を考えたのだ。

「何でも好きなもの食べてください。」
「あったりまえだい!」

怒りを食欲に切り替えた悠理の表情は、すっかりいつもの快活さを取り戻していた。

 

 

続く