PM8:00───鳴海家
クスッ
冴子は思い出し笑いを浮かべていた。
実家のベッドはドイツのものより柔らかく、留学する前と何一つ変わらない自室には、母の優しさと細やかな気配りがそこはかとなく感じられた。
お気に入りのクッションやぬいぐるみには埃一つ被っていない。
クローゼットにかけられた洋服たちは全てクリーニングから返ってきたものばかり。
勝手に結婚し、勝手に離婚した娘を温かく迎えてくれるその心に癒される。
父は相変わらず世界中を飛び回っていて、年に一度帰ってくるか来ないかの生活。
もう年なんだからそろそろ落ち着いたら?と電話で話をしたのはかれこれ2年前になるだろうか。
貿易商を営む彼が家庭よりも仕事を選んだのは冴子が中学生の頃だった。
どこにでも付き添う美しい秘書とそれなりの関係であることも………その頃知った。
窓から吹き込む風はまだ生ぬるいけれど、久しぶりに楽しいひと時だったと振り返る。
ドイツに住んでいた時、ここまで心が軽くなったことはなかった。
結婚する前も、した後も。
元夫との生活は、もしかすると最初から破綻していたのかもしれない。
「いい男になっちゃって………」
中学時代の清四郎を思い浮かべると、まだあどけなさすら残る少年だったような気がする。
容姿は大人びているのにどこか子供っぽくて、必死に背伸びする姿が可愛かった。
彼に全てを教え込みたくなった切っ掛けは何だったろう。
勉強だけでなく女の扱いまで。
彼が望むなら何でも与えてやりたかった。
もちろんそれは恋ではなかったけれど、きっと心の奥底では彼を好ましいと思っていたのだ。
真面目で貪欲で、ほんの少し意地っ張りで………
「あの子が………初恋の相手、か。」
まるで太陽のフレアをまとったような美少女。
無垢な美しさと残酷な幼さを持ち合わせている。
しかしそれを凌駕するほどの圧倒的な生命の輝き。
何も知らない顔をして、こちらの様子をしっかり窺う強かさは女特有のものだった。
「見る目あるわ。可愛い子じゃない。」
夜空を見上げればまあるい月が静かにこちらを見つめている。
いつしか失ってしまった純情を照らし出すかのように………
「ん………もう………朝?」
自宅のベッドより狭いけれど、それにも慣れてきた様子の悠理。
背中から抱きしめられ眠ることも、最近では煩わしいと感じなくなってきた。
双方、親公認の間柄。
百合子に至っては卒業後、手薬煉を引いて待っていることだろう。
剣菱家の大切な跡取りを。
昨夜の激しい交わりから来る気怠さを引っ提げ、トイレに行こうと体を起こすも、清四郎の腕がそれを許さない。
まるで母に甘える子供ように縋りつき、悠理の背中で深く呼吸した。
「漏れるんだってば………」
「はいはい。朝のキスは?」
二人で迎える朝の決まり事。
悠理は振り返ると、目を瞑ったままうっすら微笑む恋人の唇に軽くキスをした。
「腹も減ったし、おまえもそろそろ起きろよ。」
裸体を惜しげなく見せつける清四郎にも慣れたような気がする。
一つの欠点もない完璧な身体。
美しさと強靭さを兼ね備えた、悠理の好きな身体。
「胃袋を満たしたら、もう一度付き合ってください。」
「───え?」
「明るい中、おまえを抱きたい。」
ボッと赤くなるも、反論はできなかった。
昨夜の清四郎があまりにも甘く激しく、身体の中心で燻る余韻が消えようとしない。
「と、とにかく飯だっ!」
照れを隠すこともなく清四郎の腕から脱出した悠理は、まるで子ウサギのように走り去った。
もちまえの俊足を活かして。
そんな些細な幸せを嚙みしめ、清四郎は目を閉じる。
今のこの幸福を壊したくない。
過去を振り返る必要もない。
二人の未来はまだ始まったばかりなのだから。
真っ直ぐ前だけを向いていこう。
常に自信に満ち溢れる男は、恋人の後を追うべく、ゆったりと立ち上がった。
無事試験を終えた六人は、打ち上げの為、繁華街へと繰り出していた。
結果は数日後。
自己採点を見る限り、どうやら全員目標点数をクリアしたようだ。
清四郎もまたいつものように、ほぼ満点を叩き出していることだろう。
「今日は飲むぞぉ!」
ひときわ大きな声で乾杯の音頭をとる悠理に皆も同調する。
後は夏休みを待つだけ。
チケットやホテルの手配は魅録が完璧に整えていた。
彼ほど仕事が早い男はいない。
美童のコネでやってきたオシャレなダイニングバーは、ちょっとアダルトな雰囲気漂う高級志向の店だった。
整った顔立ちの店員はシックな制服に身を包み、嫌味じゃない程度に丁寧な接客を心がける。
革張りソファが並ぶ個室で、6人は勢いよくグラスを鳴らした。
「ここのオーナー、すっごく美人なんだよ。僕の事気に入ってくれちゃってさ。」
「あんた懲りないわね。いつか刺されるわよ。」
「あら、一度くらい刺された方が世の中の為では?」
「野梨子、君ねぇ………」
美童の武勇伝など今更のこと。興味を示さない悠理はあっという間にビールを飲み干した。
「お替わり!」
「おいおい、随分ペースが早いじゃねえか。」
「そうかぁ?嫌な試験も終わったし、今日はとことん飲むって決めてんだい。」
爆走状態の恋人を横目に、清四郎は穏やかにチーズを摘まむ。
今日は週末だからして、彼女がどれほど酔おうとホテルに連れ込み、朝まで過ごすつもりだった。
「野梨子もちょっとは飲めるようになったわね。」
にやついた可憐がそう指摘する。
「まだまだですわ。でも最近日本酒を少しずつたしなむようになりましたの。夜、父様の相手をする日もありますのよ。」
ロマンスグレーな野梨子の父を思い浮かべ、可憐は「いいわねぇ」と溜息を洩らす。
母親に育てられた彼女にとって、父親の存在は特別なのだ。
「ああ、あたしも早く結婚して、素敵なダーリンと暮らしたいわ~。」
「結婚しても幸せになるとは限りませんでしょ。先日の話もありますし………」
「野梨子、あんたね………夢もへったくれもないじゃないの!」
憤慨する可憐を宥める美童。
皆はいつものように笑い、からかい、夢見がちな可憐をさりげなく応援した。
「お手洗いに………」
酒も入り、それなりに酔いが回ってきた頃……清四郎が立ち上がる。
腕時計を見れば、そろそろ日が変わる時刻だ。
これ以上飲み続けると、悠理というご馳走にありつけないな……と彼は頭を軽く振った。
用を足し、外の空気を吸いに出れば、週末の街はまだまだ賑わっているようで、千鳥足の酔っ払い客もちらりほらり。
きっとはしご酒を楽しんでいるんだろう。
そんな平和すぎる光景にふっと口元を緩める。
そんな中──横断歩道を渡る人影が彼の目に留まった。
足早に、かといって慌てていないその足取りはクールな印象を与える。
すらりと長い脚はジーンズを纏い、シンプルなブルーのTシャツはカジュアルながらも上品な着こなしを見せた。
肩に白いトートバッグを掛け、真っ直ぐに歩くその人物。
街のネオンを受ける整った顔を見れば、鳴海冴子であることは明白だった。
「あら、清四郎君じゃないの。」
昔の面影を思い出させる笑顔で近付いてくる。
清四郎は内心舌打ちをしたかったが、見つかってしまったのなら仕方がない。
「こんばんは。」
軽く会釈をしつつ、チラと自分の背後を見た。
悠理は居ない。
そういえば先ほどチーズフォンデュを追加オーダーしていたな、と思い出す。
「どうしたんです?」
「同級生と飲み会だったの。貴方は?」
「いつものメンバーで打ち上げです。」
「打ち上げ?」
「試験が終わったので……」
「あ!ああ………そうよね。まだ高校生だったわね。大人っぽくてつい忘れちゃってたわ。」
屈託なく笑う大人の女性。
それはきっと男を惑わす魔性の笑顔だ、と清四郎は思った。
「仲良いのね。」
「まあ、それなりに。」
「彼女……とも上手くいってるんでしょ?」
「………もちろん。」
姉から聞いたのか、はたまた勘付いたのかはどうでもよかった。
ほどほどに酒が回った彼女が、昔と同じ距離で話したがっていること。
目の前の男がどんな反応を示すか、知りたがっていること。
冴子の興味はそんなところだ、と清四郎は気付いている。
「今が一番楽しい時期よね。ほんと……羨ましいわ。私もそんな時があったはずなんだけど。」
心の傷を隠そうともせず、ただ弱音を吐く女を慰めるつもりはない。
清四郎の性格はそこまで寛容に出来ていなかった。
むろん下心も存在しない。
「心中お察しします。」
わざと突き放すように答えたつもりだったが、冴子は一瞬真顔になると、くすっと笑みを零した。
「私があなたの前に顔を見せたこと、本当はすごく嫌なんでしょ?」
「………そんなことはありませんよ。」
「嘘。そんな嘘が通じると思う?」
一歩、そして二歩近付いた冴子に、清四郎の警戒心がアラートを鳴らす。
「昔の貴方はもう少し可愛かったのに………ちょっと残念。」
「………昔話をするような間柄じゃないでしょう?」
「あら……冷たいのね。私が知っている清四郎君はもっと………」
何を言い始めるんだ───と眉をしかめた瞬間、背後にあるドアが思い切り開き、店から悠理が飛び出してきた。
完全なる酔っ払い風情で。
「何してんだぁ?こんなとこで。せいしろちゃん!」
ふらつく体を軽く抱き留め、抱きしめる。
突然現れた悠理に意表を突かれたのか、冴子は3歩後ろへ下がった。
「飲みすぎですよ………」
「ん~、もう飲まないってば~。早く二人きりになろ~♡」
冴子が目に入っていないのか、悠理の言動は甘えん坊の恋人仕様。
普段はドライな彼女の、隠された一面でもある。
「いいですね………そろそろ切り上げますか。」
胸に隠すよう恋人を抱き締めたまま冴子を促すと、彼女は肩を竦めくるりと背中を向けた。
そして背を向けたまま、「ちょっと感傷的だったわね。忘れてくれる?」と小さな声で告げる。
「気を付けて帰ってください。」
「了解」とばかりに手を振る冴子は、酔いを感じさせないしっかりとした足取りで去っていった。
数秒見送った後、清四郎は朦朧とした恋人を抱え上げ、店へと戻る。
どうやら今夜はご馳走にありつけないな……と苦笑するも、泥酔中の悠理は彼の胸で囁くように呟いた。
「………渡さないぞ………絶対………」
「───え?」
それは夢現の言葉だったのかもしれない。
隠された本音が思わず洩れ出したのかもしれない。
だがどちらにせよ、悠理が冴子との関係を気にしていることは確かだった。
「悠理………済まない………」
腕に力を込めた清四郎はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。