唇が微かに耳元に触れた感触で目を覚ます。
「おはよ、せぇしろ。」
「おはよう、悠理。」
外は雨か━━━
曇天の空の下、囁くように滴る雨音が更なる眠気を誘うが、それに身を任せてはいられない。
今日は悠歌の誕生日。
彼女はとうとう10歳を迎える。
「悠世(ゆうせい)は?」
「母ちゃんがとっくに連れてったぞ。」
「なら………そろそろ出掛けますか。」
現在、僕たちには二人の子がいる。
半年前に生まれた第二子は剣菱家の後継ぎとなるだろう長男、悠世。
2100gと少々早産だったが、すこぶる順調に体重を増やしている。
顔は、どちらかといえば義母似。
キリッと涼しげな目元が特徴的だ。
悠理は産後の体調不良で暫く入院していたが、こちらもすっかり回復している。
不安を覚えた僕が『三人目はもう少し先延ばしにしよう』と言えば、彼女は‘若い内に産んじゃいたいんだ!’と胸を叩いた。
たとえ三年先でも、おまえは充分に若いのだが。
「なあ?あたい、最近ちょっと太っちゃったかなぁ?」
鏡の前で、腹回りと二の腕を交互に見つめながら、不安そうな声を出す妻。
産後のホルモンバランスが作用しているのかもしれないが、元々細身であるため気にはならない。
過剰ともいえる運動量を毎日こなす彼女が、脂肪に悩む日が来るなんて………。
可愛らしい悩みに思わず笑ってしまう。
「なんだよ。やっぱ清四郎もそう思ってるんじゃん。」
「違いますよ。可憐が聞けばヒステリーを起こすだろうなと思いまして。
おまえよりも10倍は真剣に悩んでいるみたいですから。」
「あーー、そういや最近ウエストがどうのって言ってたな。あいつ、夜中に甘い酒飲むから駄目なんだよ。」
現実的に考えて、体重よりも体脂肪率や筋肉量が大切なのだが、女性はなかなか理解しようとしない。
悠理の場合、柔らかな二の腕も脂ののった太ももも、むしろ三十代の色気が出てきた証拠だと言うのに。
男心をそそる躰付きになったことは嬉しいが、それ以上に不安も感じる。
二人の子持ちだと言うのに、ちょっと外に出ればナンパの嵐。
「男にとって、魅力的な妻を持つことこそ、本物のステイタスだよ。」などと、独身貴族を貫いているくせに知った風な口を聞く美童。
年を追う毎に焦燥感が増していくなんて、想像もしていなかった。
とはいえ、悠理との夫婦関係は円満だ。
今のところ浮気心なんかも見当たらず、僕も時間に余裕がある限り、彼女の側に寄り添っている。
母親業を頑張る悠理も可愛いが、やはり妻としての彼女は最高だ。
ともあれ、『ダンベル体操しなくちゃな!』と意気込む彼女をどう説得するか、悩む僕。
この程度の悩みしか思い付かない幸せな朝に感謝したい。
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「今日はドライブですよね?残念なことに外は雨だ。運転は僕に任せてもらいますよ。」
「えー!あたいがする!!」
「ダメだ。この前、速度違反で捕まったばかりだろう?」
「ギリ、免停は免れたもん!」
「スピード狂のおまえに運転させたら、スリップして確実にあの世行きですよ。」
ブツクサ文句を言い続ける彼女を上手く宥めるのも僕の役目だ。
「その代わり、今度SUZUKAサーキットを借りきってレーシングカーを運転させてやるから、それで我慢しなさい。」
悠理は案の定、目を輝かせ、抱きついてくる。
「ほんとに!?絶対だぞ?」
「約束です。」
単純素直な妻。
昔と変わらぬ、好奇心の塊。
二人の子の親となった今も、瑞々しい反応と溌剌とした笑顔が魅力的だ。
時には、ボタンをかけ違えたかのように喧嘩することもあるが、四半世紀の付き合いともなれば、長く引き摺ることは滅多にない。
夫婦円満の秘訣を聞かれれば、僕は間違いなくこう答えるだろう。
━━━可愛い我が儘を、可能な限り聞き届けてあげること。
今回の娘の誕生日も、悠理たっての希望で二日間の休みをとった。
近場の温泉宿に一泊するだけだが、娘は大いに喜び、夕べは旅のしおりなんかを作っていたくらいだ。
僕はこれを家族サービスだとは思っていない。
どちらかといえば、これらは僕へのご褒美だと感じている。
妻と娘。
愛する二人と共に過ごせる、かけがえのない休暇。
年に数度しか取れない時間は、何よりも貴重だ。
そして、それを心から望んでくれる二人に感謝の気持ちが湧く。
僕は義父のように直感だけで仕事することは不可能だ。
膨大な情報から引き出す緻密な下調べと、先読みの能力。
失敗することで経験を積み、成功することで反省を生む。
時間はどれだけあっても困ることはない。
自ずと削られるプライベートタイム。
精力的に働けば働くほど、家族との距離が開いて行く。
しかし、義父のように大胆には振る舞えない僕が心掛ける事は、結局それだけなのだ。
白いワンピースを身に着けた悠理が、鏡の前で翻る。
「良く似合ってる。」
「へへ、だろ?悠歌とお揃いなんだ。」
想像するだけで胸が踊る。
今日から二日間、天使のような二人に囲まれ過ごす時間は、きっと何よりも楽しく尊いものだろう。
悠理の笑顔と、悠歌の笑い声。
この二つがある限り、僕が人生に絶望することは決してないのだ。
「パパ、ママ!まだぁ??」
「「今行く(きます)!」」