archrival~the beginning~

※「archrival」から時は遡り、悠世の生まれる前です。


その日の悠理はとにかく不調だった。
理由の一つとして、珍しく胃痛がすること。
そしてもう一つは夫の長期不在である。
かれこれ二ヶ月ほど姿を見ていない。
独り寝の寂しさも限界を迎えていた。

現在、剣菱の顔として活躍する清四郎は、世界中を忙しなく飛び回っており、日本に帰国する事もままならない。
悠理だけでなく、悠歌もまた父の不在に寂しさを感じているが、おくびにも出さず、母を優しく気遣っていた。

最近の悠理は、百合子の代理として多くのパーティに出席し、多忙を極めている。
叩き込まれた社交界での人付き合いも、ようやく様になってきたようで。
しかし昔はあんなにも好きだったパーティが、仕事絡みともなればちっとも楽しめない。
顔も見たことがない奴等の‘おべっか’には興味もないし、何より面倒なのは、清四郎が側に居ないと分かった輩が、虎視眈々と彼女を付け狙うことにあった。

打算的思惑が渦巻く社交界で、不道徳な関係を望む者は後を絶たない。
現在、悠理のモテ期は最高潮。
年相応の色気を醸し出す彼女に、大胆なアプローチをかけてくる年配の男性は少なくなかった。

その中の一人、『玉司廉太郎(たまつかさ れんたろう)』は、先日行われた『剣菱エンターテインメント』の社内パーティで知り合ったばかり。
名俳優だ。
彼は悠理に相当お熱を上げていて、行く先々に現れる始末。
年齢は48。
バツが二つ付く男で、二十歳過ぎの子供が二人もいる。
彫りの深い顔立ちと年齢を感じさせない立ち姿に、多くの女性ファンを惹きつけていた。
数々の女優と浮き名を流してきた彼が、ここに来て悠理に目をつけたのは、ひとえに彼女が初恋の女に似ていたからだろう。

「昔から君のように美しくて、歯応えのある女性が好みなんだ。」

「大事な歯が欠けるから止めといた方がいいよ。」

「もちろんそんなリスクは承知だ。君が夫君を愛していることも知っている。だがそろそろ他の男の味を知ってもいいんじゃないか?」

「やーだよ!食あたり起こしそうだもん。」

こんなやり取りも幾度となく交わされてきたが、彼はへこたれない。
特に清四郎不在のこの二ヶ月はまたとないチャンス。
パーティと名のつくものには、必ず現れていた。

「くそ、なんか胃が痛い・・・・」

興味も湧かない相手に、どれだけ言い寄られても鬱陶しいだけ。
悠理は明らかにストレスを感じていた。
今夜のパーティでも、ヤツは間違いなくその厚顔無恥な顔を見せることだろう。

「ママ、大丈夫?」

四年生となった悠歌は日々の習い事に忙しい。
ピアノ、バイオリン、バレエ、茶道に華道。
どれもめきめきと上達し、先生達も目を瞠るほど。

出来の良い娘は誇り高いが、悠理はいつでも飽きたら止めて良いぞと進言する。
無理矢理続けても苦痛なだけだと、身をもって知っているからだ。
しかし悠歌はそれら全てをそつなくこなした。
特にピアノとバイオリンにおいては、帰宅してから数時間は練習に没頭する。
集中力を養えるから………とのことだが、とても子供の台詞ではない。

「あぁ、今薬飲んだから。」

清四郎手製の胃薬を飲み、カウチソファに横たわる悠理。
絨毯敷きの床に跪いた悠歌は、母の腹部に軽く触れた。

「ママが具合悪いなんて……やっぱりおかしいよ。今朝もあんまり食べてなかったよね?おじいちゃまの病院に行ったほうがいいんじゃない?」

「胃痛くらいで、心配かけんのもなぁ。」

「ダメだってば。油断大敵って言うじゃ無い?悠歌がパパに電話して教えちゃってもいいの?」

「わぁったわぁった。明日診て貰うことにするよ。」

心配性の夫に告げ口されては堪らない。
悠理は予定していた買い物を諦め、新たなスケジュールを上書きした。



その夜のパーティは贅を尽くしたご馳走が並んでいたが、悠理は結局シャンパンを飲むだけで、一口も手をつけなかった。
終盤に差し掛かった頃、案の定「玉司」が登場し、胃の具合はさらに悪くなる。

「今夜は一層綺麗だね。」

「そりゃどうも。このドレス、孔雀の羽をイメージしたんだ。」

派手さに関しては百合子に負けたくない悠理。
エレガントな着こなしを覚えた今でも、誰よりも目立つ衣装を選ぶ。

「ん?顔色が悪いようだけど?」

「あんたの顔見たからじゃないかな。」

「手厳しいな。・・・・いや、冗談抜きで悪いぞ。控え室に行こう。」

青白い表情の悠理を彼は半ば強引に会場から連れ出した。
控え室のソファに横たわらせ、用意された水にレモンを浸し、差し出す。

「いつもは元気いっぱいなのに、一体どうしたんだろうね?」

「ん・・・ちょっと胃が・・・」

「胃?何も食べていないのか?」

「うん。」

「それなのに、酒なんかあおったら余計悪くなるに決まってるだろう。」

「・・・明日病院に行く予定だったんだ。」

水を口に含ませた後、悠理は携帯電話を探し、迎えを呼ぼうと考えた。
どうやら本格的に気分が悪い。
軽口を叩く余裕すら失せてきていた。

「私が送るよ。」

「いらない。」

「送り狼になったら困るから?」

「そだよ。だって……あんたの目、ギラギラしてるもん。」

「具合の悪い女に手を出すほど、酷い男じゃないんだけどなぁ。」

「嘘吐け。」

男のプライドを刺激したのだろうか。
立ち上がろうとした瞬間、玉司の腕が悠理を攫う。

「期待通り、狼に変身してもいいが?」

「ばかやろ…………マジで具合悪いんだってば!」

━━━━気分が悪い。吐きそうだ。

悠理は男の胸にぐったりと身を預けたまま「これが清四郎だったらなぁ」と弱々しく望んだ。

「君は………見た目よりも随分軽いな。」

羽の様な身体に玉司の喉が鳴る。

剥き出しの肩から下へと、滑らかな肌をなぞっていく指。
本気で狼になるつもりはなかったが、目の前に置かれたご馳走から目を背けるほど衰えてはいない。

「離せよっ!何してんだ!」

「ああ・・・・私は本当に君が好きなんだ。」

「知るか!離せって・・・」

いつもならどんな服装でも蹴り飛ばして逃げるはずの悠理が、動く事もままならない。
ソファに押し倒し、のしかかってくる男は、どうやら本気でこのチャンスをものにするつもりらしく、先ほどまでの紳士的な台詞はすっかり覆された。

「大丈夫………優しくするから。」

孔雀の羽をモチーフにしたドレスは見た目よりも頼りなく、スリットから差し込まれた手が、膝裏を滑り出す。

「おい………マジで止めろ!あたい、吐きそうなんだよ!!」

「構わないよ。こんな機会は二度と訪れないだろうから。」

「ちがっ………マジで……」

悠理は渾身の力で男を突き飛ばすと、口に手を当てたまま、転がるように扉へと向かった。
脚にまとわりつく、ドレスの裾が憎らしい。
いつまで経っても慣れないヒール。
それを脱ぎ捨て、隣接する化粧室に飛び込む。

うぇ………げぇ……

涙を流しながら、酒ばかりを吐く。

━━━こりゃ、確実に病院だな。

ぐったりと床に座り込んだ悠理は心細さから、夫の名を呟いた。

「せぇしろぉ…………」

なんでこんな時、側に居ないんだよ!
辛いよぉーー!

優れない体調は神経をも弱らせてしまう。

寂しい

淋しい

普段は気丈に振る舞っている彼女だが、朝、目覚めたときに感じられない温もりが恋しくて………密かに涙を溢すことも多かった。

我儘は専売特許だったはず。
今すぐにでも呼び戻して、泣いて、甘えて、抱きついて、想いの限りをぶつけたかった。

しかし母となった今では、悠歌の手前、気が引ける。
娘の逞しさに負けては居られない!と気を取り直し、トイレの扉を開けた彼女が目にしたのは━━━
今、何よりも望む、清四郎の姿だった。

「せぇしろ・・・」

いつも通り、隙のないスーツ姿だが、珍しく頬が紅潮している。

「悠理!大丈夫なのか!?」

「へ?」

「具合が悪いんだろう?」

「なんで………ここに?」

噛み合わない会話をそのままに、清四郎は悠理を抱きかかえ、躊躇いない足取りで廊下を歩き始めた。

「てか、どこいくんだ?」

「病院です。」

「あ…………吐いたら少し楽になった。下ろしてくれても………」

「馬鹿!それは恐らく悪阻だ!」

人目を憚らず、とうとう大股で駆け始めた夫の額は、何故か汗に濡れている。

「つわり?………まさか、子供?」

悠歌を出産して早10年近く経つ。
昔の感覚を思い出せるような悠理ではない。

目を見開き、夫にしがみついていると、

「二ヶ月前………おまえと離れる前夜を覚えているでしょう?」

幾分か柔らかくなった声で、耳元に囁かれた。

そう。忘れるわけがない。
「いつ帰国できるか分からない」と絶望的な言葉を告げた清四郎を、激しく求めたのは悠理だ。
一晩中、愛し愛された身体で見送った朝。
彼女の中には清四郎の名残りがたっぷりと注ぎ込まれていた。

「まさか………」

「まったく!僕が管理していないとこれだから………」

「そういや………生理来てなかった。」

厚みのある胸に頬を寄せ、呟く。

「そっか………妊娠したのか。」

「恐らくね。とにかくまだ安定期じゃないんだ。ハイヒールなんてもってのほかですよ!パーティにも出なくていい!」

「うん・・・。なあ、もしかして悠歌から連絡があったの?」

「…………いえ、それは………僕が会いたくて帰国したんです。」

車に乗せられた後も、清四郎の腕の中からは離してもらえない。

「菊正宗病院へ。」

夜の街を縫うように走り出した黒塗りのハイヤー。
二人は静かに、しかし心の奥まで探るような口づけを交わし、二ヶ月ぶりの再会に胸震わせた。
名残惜しく離れれば、互いの情熱がその瞳に見て取れて、再び唇を近付ける。
しかし寸でのところで、それが触れ合うことはなかった。

「あぁ、そういえば、あの男。」

「………え?」

「剣菱の控え室に居たあの男はなんです?」

「……あ!あいつは、えと………あの……」

「‘何処ぞの馬の骨’………でいいんですよね?」

清四郎は何もかもを見透かしたように、人の悪い笑みを浮かべる。
そんな彼を見て、悠理もまた乾いた笑いで答えた。
夫の嫉妬心に火を点けるのは得策では無い。
しかし…………

「暫くの間、仕事は無理でしょうな。」

「え!?」

「どうやら顔ありきの商売のようですし?」

「まさか、殴ったのか!?」

「それがなにか。」

「あちゃあ、あいつ……結構売れてる俳優なのに。」

「だからどうだというんです。彼も、人妻に懸想するリスクは想定していたでしょう。」

その顔には少しの反省も見られない。
悠理は思わず噴き出し、清四郎の首にかじりついた。
嫉妬深い夫。
これぞ、いつもの清四郎だ。

「おかえり!会いたかったよ!」

「ただいま、悠理。僕も会いたかった……」



その後。
菊正宗病院で調べた結果、清四郎の読み通り、妊娠が明らかとなった。
悠歌は狂喜乱舞。
百合子と万作もまた大宴会を始める始末。
清四郎は暫しの休養を兼ね、悠理が安定期に入るまでの間を日本で過ごし、また世界へと旅立っていった。

玉司の腫れ上がった顔が完治するまで約一ヶ月を要したが、彼はそれでも悠理への未練を断ち切ることは出来ず、休養中、ラブレター代わりのエッセイを書く。
その一冊がまさかのベストセラーに。
赤裸々に綴られた妻への愛に、清四郎に対する周囲の気遣いは相当なものだったらしいが・・・・
だがそれは、より一層二人の絆を深めるだけのこと。

清四郎が本格的な帰国の途についたのは、第二子が誕生する一ヶ月前。
世界に大きく羽ばたけるよう、名を「悠世ゆうせい」とした。

後に最大のライバルと評される彼を、父親たる清四郎は・・・まだ知らない。