ADORE

「………はぁ~・・・憂鬱。」

大きな紙袋に詰められたラブレターは、漬け物石よりも重く感じる。
自宅に戻り、部屋の片隅に放置したそれを、悠歌は恨めしい気持ちで眺めていた。

もはや小鳥遊慎のラブレターだけでなく、他の男子生徒から貰った分も読もうとは思わない。
恋に興味を持てない悠歌にとって、それらは煩わしいだけの物体と化しているのだから。

「おじいちゃまに言って、燃やしてもらおうかしら。」

庭木の枝落としを済ませたばかりの祖父なら、きっと喜んで手伝ってくれるだろう。
もちろん自分の孫が厄介な異性に言い寄られていることなど想像もつかないはずだ。

小鳥遊慎───については、早紀子の言う通り、早めの対策が必要なのかもしれない。
だが父や母を引っ張り出すと、穏便な話し合いは期待出来ない。
清四郎は悠歌を殊の外可愛がっていて、ただでさえ悪い虫が付かないよう目を配っているのだ。
中等部に進んでからは特に───

暇を持て余す母に関しても同じ事。
面白そうなネタがあれば飛びついて引っ掻き回すのが彼女の得意技だ。
常々、穏やかな学園生活を送りたいと願っている悠歌にとって、それは避けたい現実である。

「あ~、やだやだ。考えたくない!全部、小鳥遊慎が悪いんだ!」

どうしてそこまで自分に執着するのか。
世の中に“一目惚れ”………などという、超ご都合主義的な現象が存在すると知ってはいるが、彼女にとってそれは理解しがたい心的機能だった。

たとえ『物は試し』とばかりにデートしたとしても、彼の価値観や物事の捉え方には賛同出来ない。
そもそも好みではないのだ。
清四郎を見て育った悠歌にとって、母の指摘通り、男の基準はあまりにも高かった。当然、恋する対象にはなり得ない。

────彼が送り続けるラブレターに、呪詛でもこめられていたらどうしよう。

そんな禍々しい想像をした後、激しく首を振る悠歌。

「やっぱ、燃やそう!」

そう決意した彼女は紙袋に近付くと、意外にも重いそれを一気に抱え上げた。
ろくに前が見えない状態で扉を開け、真っ直ぐな足取りで向かうは、屋敷の東にある祖父、万作の畑。
隠居してからも野菜作りに精を出す彼は、80を目前に衰えは見られない。
鍬を手に溌剌と畑を耕していた。

「おじいちゃん。」

「悠歌だがか?」

少々曲がった腰を無理矢理伸ばしながら、万作は可愛い孫に微笑みかけた。
年相応、皺は増えたものの、野性の勘が冴えわたるその眼光には、昔と変わらぬ力強 さが備わっている。
隠居の身である彼は、“世界の剣菱”を築き上げた功労者として、経済界の重鎮に名を連ね、陰ながら活躍していた。
相変わらずの人脈は全て清四郎が引き継いでいる。

「どうしただ?」

「うん………もし枝葉を燃やすなら私も手伝うから、これ一緒に処分しちゃって良い?」

紙袋を覗き込もうと首を伸ばした祖父に、悠歌は曖昧な笑みを見せる。

────何か勘づかれはしまいか。

不安に思う中、しかし万作は鷹揚に頷くと「ええだ。」と鍬で焚き火の在処を指し示した。

うずたかく積まれた多くの枝。
悠歌がさらに掻き集めた結果、想像以上の火が立ち昇る。
紙袋はあっという間に灰へと化していった。

人の想いを燃えカスにしてしまう罪悪感が多少なりこみ上げたが、悠歌にとって彼の気持ちは到底受け止めきれないものだ。

歪んだ少年の、歪んだ恋心───

夕焼け空へと火の粉が舞い上がり、まるでキャンプファイヤーをしているような気分になる。
悠歌は万作の側でその光景をただぼんやりと眺めていた。

「おじいちゃんは………おばあちゃんのこと、好きで好きで仕方なかったのよね?」

「んだ。それがどうかしただか?」

「もし………振り向いて貰えなかったら………どうなってたと思う?」

「…………ん~~・・・母ちゃんと結婚できんかったら、わしはずっと独り身だったかもしれねだ。」

「え、そうなの?じゃ………ママや豊作おじさんも居なくて………もちろん私も………」

当たり前の事を口にした途端、悠歌の肌はぶるりと震えた。
人と人はまさしく奇跡のような可能性で繋がっている。
祖父と祖母、そして父と母が結ばれていなかったら、自分と悠世も当然この世に存在しない。
考えたくもないたとえ話だ。

「おじいちゃん。………おばあちゃんと結婚してくれて、ありがとう。」

「い、今更、何言うだ!」

照れる万作に寄り添い、悠歌はしみじみと自分の幸せを噛みしめる。
この愛に溢れた優しい家族をいつまでも守りたい。
そして自分もまた、いつか同じ価値観を持つ相手と結ばれ、その螺旋を繋げていきたい。

恋に興味を持てなかった悠歌が、この日初めて小さな何かを知り得た。
それは彼女が思春期を迎えたという、確かな証拠だったのかもしれない。





それから五日後。

悠歌は何故か、小鳥遊家の広々としたリビングで高価なお茶を啜っていた。
煌びやかな調度品が揃うその場所には、小鳥遊家でも最高の持て成しを受けるに相応しい人物が案内される。
明治時代に建てられた貴族の洋館をそのまま移築してきたらしく、古めかしい内装だが、それに見合った家具のおかげか、むしろ高級感漂う設えとなっていた。

「…………このお茶、美味しい。」

口の肥えた悠歌ですら、そのセイロンティーは美味だった。
オールドジノリのカップもセンスが光る。

この家の持ち主は今北海道に住んでいるらしい。
名目は妻の療養だが、実際は政治活動の為と噂に聞いていた。
彼の祖父もまた近くに屋敷を構えていると聞いたが、副総理ともなると万全のセキュリティーで固められ、孫ですらなかなか遊びに行けない。
彼の世話は基本、お手伝いさんと祖父の腹心によって行われていた。

二日前。
下駄箱を埋め尽くす手紙を手に、悠歌は小鳥遊慎の元へと出向いた。
こうもしつこいと、さすがに堪忍袋の緒が切れるというものだ。
学園一と謳われる美少女の険しい表情は、まるでモーゼの如く人ごみを割っていく。
もちろんそのほとんどが憧れの眼差しで、すんなりと道を開けていたが。

「小鳥遊君!」

「剣菱さん?」

荒げた声にすら嬉々として廊下に出て来る少年。
彼女の憤りに気付かないのだろうか。
クラスメイトが訝しむ中、どこか自慢げに背筋を伸ばす。

「もう、手紙は止して頂戴って言ったわよね?」

「承諾はしていないけど?」

「私、迷惑だって、はっきりと言ったわ!」

ここまでやってきたことを後悔させる展開に、悠歌の眉間はきつく顰められた。
そしてようやく小鳥遊慎も態度を改める。

「………そんなにも嫌われてるとは思わなかったよ。」

ふてぶてしいまでの自信はどこへやら。
意気消沈した少年は、拗ねたような素振りで上履きを見下ろした。

好き、嫌いでいえば、間違いなく嫌いなタイプである。
だが、それをこの場で伝えるほど、悠歌も鬼ではない。

「嫌いとか………そういう問題じゃないの。この先も貴方の気持ちに応えられないから………だから…………」

“もう手紙なんか出さないで”
───そうはっきり伝えようと思った。

しかし先手を打った小鳥遊が勢いよく顔を上げ、一転、媚びるような目で見つめてくる。
それは爬虫類を思わせる粘着質な視線。
悠歌の背に怖気が走った。

「なら、さ。最初で最後の思い出として、うちのお茶会に来てくれないかな?」

「お茶会?」

「うん。そうしたら、それきり手紙も書かないし………きっぱり諦めるよ。」

お茶会────
今時珍しい話だが、 裕福な家柄の子息令嬢は何かにつけお茶会を開く。
それはもちろん、親同士の見栄や牽制を含む重要なセレモニーの一つではあるが、悠歌は小鳥遊慎の家庭に興味も無かったし、出来れば関わり合いになりたくないと思っていた。

だがもし、この機会を断ったなら………より厄介な事態に陥るかもしれない。

父親譲りの出来の良い脳は回転速度を上げ、正しい答えを導き出そうとした。
それが子供故の浅はかさであったと気付く頃────悠歌の意識は微睡むように沈んでいった。



【小鳥遊慎】は北条早紀子の言う通り、面倒な相手だった。
長く子供に恵まれなかった両親は彼を溺愛し、祖父までもが孫可愛さに、ありとあらゆる我が儘を聞き届け、全てを与えてきた。
幼い頃から彼は歪み、常識的な教育を受けずに育つ。
学校は小鳥遊慎にとって、自分の玩具箱でしかなかったのだ。
数あるトラブルも親の手で揉み消され、泣く泣く転校していった子供は片手に収まらない。
大事(おおごと)にしたくないと考える親も多かったようだ。

彼の年老いた母は病気がちで、寂しい思いをしたのかもしれない。
その寂しさが、女性への屈折した感情を芽生えさせたのかもしれないが、それを正当化するのはお門違いである。

しかし────

彼は今、決して望んではいけない少女を、毒牙にかけようとしている。
手段を選ばす、とても残酷な形を用いて、相手を組み伏せようとしているのだ。

「坊ちゃま、首尾は万全です。坊ちゃまはリビングでお待ちください。」

「ねえ、見てちゃダメ?」

「いけません。御大に怒られます。それに、こういう汚れ仕事は私の役割ですから。」

祖父の子飼いである“日下 伸五”(くさか しんご)は、目立つ風貌ではないものの、印象的な鋭い目を持つ屈強な男だった。
恐らくは30に差し掛かるであろう年頃。
小鳥遊慎の親代わりとも兄代わりとも言える存在だ。

彼はティーカップの中身が空になったことを確認し、目を閉じる悠歌の鼻先へ指を当てる。
どうやら薬は良く効いているようだ。

「…………眠ってるだけだろ?」

「もちろんです。」

「これで剣菱さんは………僕のものになってくれるよね?」

「はい。問題ありませんよ。」

二人の会話が悠歌の耳に届いているはずもないが、彼女は意識が沈んだままの状態で、襲い来る危機感をヒシヒシと肌で感じていた。
身体は重く、動かない。
しかし本能的な何かが『目を覚ませ!』と頭の中で繰り返し叫んでいる。

ラブレター

お茶会

小鳥遊慎

美味しいセイロンティー

ママ………パパ…………悠世………

点と点を繋げようと彼女の脳は躍起になるが、薬の効能がその動きを邪魔し続ける。

今日は何曜日?

確か、そう………土曜日だ。

お茶会に誘われて………

誰に?

小鳥遊…………慎

何故、来たの?

誰にも言わず………内緒で…………

父や母に言えば反対されるから。
これで全てが収まるのなら───大丈夫。
私は間違っていない。

慢心は彼女が子供であるからこそ。
少し大人びた友人の忠告は、決して間違ってはいなかった。

シュル………

遠く?
いや、近くで衣擦れの音がする。
エアコンの風が肌を撫でるように通り過ぎ、そこで初めて自分の身体から薄い布が取り払われていく感覚を覚えた。

「………見事な肌だ。秘密倶楽部に売り払えば、さぞや高い値が付くだろうに。」

それは聞き覚えのない男の声。
下卑た内容を聞いてなお、悠歌の身体はピクリとも動かない。

カシャ
カシャ

規則的なシャッター音が響き、それが自分に向けられたものであると判った時、ようやくうっすらと瞼を開くことに成功した。

先ほどのリビングとは違う、薄暗い部屋。
皮膚感覚も鈍くなっているらしい。
ここがソファなのか、ベッドなのか、はたまた堅い椅子なのかさえわからない。

ただ横たわっている。
成熟した男の前で────肌を晒している。

「ほぉ、目を開けることができるのか。強いな。」

感心しながらも、黒髪の男は鬱陶しそうに前髪を掻き上げ、再び大ぶりのカメラを構えた。

連続して切られるシャッター。
悠歌は異常な環境の中、必死で自分の姿を確認しようと目を動かした。

全裸───ではない、恐らく。
しかし胸元は露出しているし、スカートは捲り上げられ、脚のほとんどが見えているだろう。
否………下着までも。

「……っや!」

大声を出したつもりが、それはあまりにもか細く、男の耳には届いていないようだ。
被写体の瑞々しい美しさに目を奪われているのかもしれない。
無言のまま執拗に切られるシャッター音は、絶望する悠歌を責め立てるよう続いた。

私は──────馬鹿だ!

 

それから20分ほど経過し───
男は曲げていた腰を伸ばすと、カメラからメディアを抜き取り、それを悠歌の前にちらつかせた。

「綺麗なお嬢さん。是非とも坊ちゃんの人形になってやってくださいよ。なぁに、ああ見えて飽き性なところもあるんで、二年もすれば解放されるかもしれません。それまでこの写真は大切に保管させていただきますよ。」

男の長い指が悠歌の衣服を整え始める。
スカートの裾を伸ばす時、一瞬だけ柔らかな内腿を掠めたが、薬が効いたままの悠歌はその意味を捉える事が出来なかった。

「あと十分もすれば身体も動くでしょう。その後は坊ちゃんと仲良くお菓子でも食べて、楽しんでください。何事もなかったように。」

しかし男の予想よりも遙かに早く、薬の効き目は薄れてきていた。

段階を追って覚醒する意識。
悠歌は怒りの矛先を男へ、そして小鳥遊慎へと着実に向けていった。

「こ………んなことで………人を支配しようだなんて…………浅はかだわ………」

震える唇を開き、針のように細く紡いだ言葉で相手を刺激する。
思いも掛けない糾弾に男は素早く振り向いたが、その表情にあまり変化は見られなかった。

「どうやら、うちの坊ちゃんよりもお利口さんらしい。………だが結局は屈服するしかないだろうよ。最近の世の中は噂に尾ひれ背びれを付けて、数倍、いや数十倍ものスキャンダルに仕立て上げてくれるからな。“児童ポルノ”なんてのは………格好のネタだと思わないか?特にお嬢さんのような家柄の人間にとっては。」

聡明な悠歌は男の言わんとすることを咄嗟に理解する。
この先の地獄を認識するまで、そう時間はかからなかった。

────ママ、パパ、どうしよう。………ごめん!

大切な家族を巻き込んでしまう可能性を知り、彼女は奥歯を食いしばる。
今、何が出来るか、頭をフル回転させているのだ。

だがどう考えても不利な立場。
この男はきっと、其処にあるパソコンで、あっという間に拡散させてしまうだろう。

痕跡など残さず、鮮やかなほど巧みに───

 

「…………最低。」

「ま、それについては否定しない。」

「違う。…………私自身に、そう思ったのよ。」

ベッドからゆっくりと身を起こし、男を睨みつける姿は、母親同様に迫力があった。
否、百合子の血か───
大蛇を従える貫禄で男と対峙する。

「おじさん…………きっと後悔するわ。」

「生まれてこの方………後悔したことは一度だけだな。」

「・・・・。」

悠歌にとって男の過去や感傷などどうでも良かった。
一体何の薬を盛られたか解らないが、早く処置をしなくては……との焦りが募る。
父に知られないよう手筈を整えるには、伯母・和子の力が必要かもしれない。

しかし、二人の間に流れる静寂を打ち破ったのは、地鳴りのような足音だった。

「悠歌!!!どこだ!!?」

これほどまでに大きく、ドスの効いた声はここ最近聞いたことがない。
それは何よりも危惧していた登場人物…………母、悠理の怒声だった。

「ここか!?」

蹴破られたウォールナットの扉は蝶番が外れ、瞬く間に哀れな姿へと化した。

「ママ!」

「悠歌!」

飛び込んでくると同時、片手で引きずって来た少年は、壁に向けて放り投げられる。
彼は鈍い音と共に背中を強打した。
屈強な男は即座に身構えるも、瞬発力では悠理に敵わない。

「うちの娘に何してくれたんだよ!!」

血走った目で叫ぶと同時、自慢の跳び蹴りが炸裂。
男はもんどり打って床に倒れ込んだ。

だが、それだけで済ます母ではない。
両眼からは我が子を想うあまり、堪えようのない怒りが迸っていた。
拳は赤く染まっていく。
男の口からは泡状となった血が噴き上げるも、 馬乗りになったまま容赦のない攻撃を繰り返す悠理。
こんな母を見たのは初めてかもしれない。
悠歌は己の過ちを痛感しながらも、このままではいけない!と悠理の背中に食らいついた。

「ママ!大丈夫!私、無事だから!」

とにかく宥めなくては───この調子だと人殺しまで一直線である。
さすがにそれは拙かろう。

「悠歌っ!!!」

しかし、次に飛び込んで来た人物の声を聞いた途端、悠歌の視界は絶望に染まった。

この世の誰よりも…………自分を愛してくれているだろう存在。
そしてこの世の誰よりも、怒らせてはいけない男だ。
キレのある頭脳はどんな残酷な報復でも思い付く。
母よりも強い腕っ節で、相手を瞬殺することも可能なのだ。

背中越しのその声を、悠歌は瞼を閉じ、受け止めた。

「悠理、止めろ!」

しかし清四郎はまず、妻を男から引き離すことを選んだらしい。

「離せ!!」

頭に血が上ったままの悠理は手が付けられない。
清四郎の逞しい腕はがっちりとホールドしたまま、決して放そうとはしなかった。

「僕が殺す。だからおまえは落ち着け。」

悠歌はその静かな囁きにゾッと肌を粟立てた。

嫉妬深い父は何度も見たことがある。
嫉妬に駆られ、大人げない行動に出ることも知っている。
だが───これほどの怒りは初めて経験するものだった。

「清四郎、こいつ!この男!八つ裂きにするかんな!!あのクソ餓鬼もおんなじだ!!」

「解ってますよ………」

「ほんとか!?」

ようやく宥めることに成功した父を、悠歌は恐る恐る見上げる。
彼の目は哀しみと怒り、そして安堵が入り混じった複雑な光を宿していた。

「パパ………ごめんなさい。」

パチン

眉間に皺が寄った状態で、清四郎は悠歌の頬を軽く叩く。
愛故の行為だ。

「…………心配しましたよ。北条さんに感謝しなさい。」

「え?………早紀子?」

「このお茶会の情報が彼女の耳に入ったことは、本当に偶然だったらしい。心配して直ぐうちに連絡をくれたんです。」

言いながらも悠理の傷ついた手をハンカチで拭う清四郎は、一件穏やかに見える。
悠歌は出来たばかりの友人の機転に感謝しながらも、父が纏う冷えた温度に震えていた。

「悠理、悠歌を連れて、先に家へ戻りなさい。」

「だ、だって、まだ!」

「・・・・・・・。」

無言の圧力は、五月蠅い母をとうとう黙らせてしまった。
壁に打ち付けられた小鳥遊慎は涙を零しながら、石のように縮こまっている。
だが、自分のした事を反省出来るほど、頭の出来は良くないだろう。
きっと胸の中で祖父の名を連呼しているに違いなかった。

「ママ、行こう。」

「あ、ああ。」

母の腕が悠歌の肩を抱く。
悠歌もまた悠理の胸にしっかりと収まった。

壊れた扉から廊下へと踏み出す時、それでも父を振り向くことは出来なかった。

背中に伝わってくる怒りの波動が恐ろしかったから。
見てはいけない地獄は、見ないに越したことはない。

二人が外で待つ車に乗り込んだ時、屋敷中に響いた声は断末魔の叫びそのものだった。

それから一ヶ月が経ち。
悠歌はすっかり日常を取り戻した。

小鳥遊副総理はどういうわけか、突如として辞任。
その後、彼にまつわるスキャンダルは湯水の如く曝かれ、複数の政治家を巻き添えにし、長くワイドショーを賑わしていた。
一国の副総理のあまりにも無様な醜態に、総理もげっそり。
恐らくは、彼の政権も長くもたないだろう。

小鳥遊慎はあの事件以来、一度も学園に顔を出さず、密かに転校していった。
北海道の両親が迎えに来たのかもしれない。

悠歌は足取りを知ろうともしなかったし、彼の話題は剣菱家ではタブーとなった。



「ともあれ、貴女が無事で良かったわ。」

北条早紀子はアールグレイを啜りながら、にっこりと微笑む。

「まだ借りを返して貰ってないもの。」

「ええ、そうね。何か思いついた?」

「まだ、よ。」

放課後の優雅なお茶会。
北条家のテラスからは見事なイングリッシュガーデンがのぞめる。

「じっくり考えさせてもらうとしましょう。今は悠歌とお友達になれただけでも嬉しいから。」

少し大人びた彼女は心底楽しそうだ。

「私も。」

悠歌もまた心からの笑顔で応える。
この先、彼女がたとえどんな要求をしてこようとも、それを叶える心づもりは充分にあった。
だが恐らくは何も求めてこない、そう解っていたが。

「今度はうちでお茶会しようね。」

「ええ、是非。剣菱家のお庭、楽しみだわ。」

「お泊まり会でもいいけど・・・・・」

「お泊まり会?素敵ね。」

「パパとママが宴会開いちゃうと思うし、ちょっと他のお宅とは違ってるけど・・・それでもいい?」

「もちろんよ!」

オブラートでくるんだその誘いに、早紀子はわくわくしながら首を縦に振った。
何も知らないということは、むしろ幸せなのかもしれない。

 

それから間もなくして、海外のVIPよりも派手にもてなされた早紀子は、剣菱家の宴会に度肝を抜かれつつ、ゆっくりと彼らの輪の中へ溶け込んでいった。

「これ、うちの父ちゃんが作った酒なんだ。美味いから飲めよ!」

彼女が「芋焼酎」の味を覚えたのは、この夜が初めてである。

 

END