それから数日後。
いつも通り登校した悠歌は、自分の下駄箱から普段より多くのラブレターがこぼれ落ち、困惑した。
ざっと見積もって80通はある。
愛用している手提げの小袋には収まりそうもない。
「………どうしてこんなことに。」
床に広がった二、三通を拾い上げ、裏をひっくり返すと、そこには【小鳥遊 慎】の名前が。
「え?」
他の手紙も同様に差出人を確かめるが、それら全てが彼の名前だった。
ゾッとするほどの数。
’小鳥遊 慎’の異常性が、たちまち伝わってくる。
「やだっ!」
嫌悪感から、思わず声を上げてしまう悠歌。
「どうしたの?剣菱さん。」
振り向けばクラスメイトの女生徒が不思議そうに小首を傾げていた。
「な、何でも───」
ない、とは言い切れず、呆然と立ち尽くすも、騒ぎは徐々に広がり始め、登校時の生徒達が足を止めて興味深げにこちらを見ている。
学園一と謳われる美少女の困り顔を、無視して通り過ぎることは出来ないらしい。
「モテるのも大変そうねぇ。」
そんな中、クラスメイトの北条早紀子(ほうじょう さきこ)は多少のイヤミをまじえ、不敵な笑みを浮かべた。
彼女もまた美しいと評判の才女。
エリート音楽一家に生まれついた生粋のサラブレットで、ピアノジュニアコンクールで優勝した経験を持つ。
父は世界的に有名な指揮者。
母、そして兄と姉は、これまた海外で活躍する一流ピアニストだ。
となると、早紀子の将来は決まったも同然。
いずれはジュリアードか、はたまた英国王立音大か────
そんな彼女の鋭い眼光が手紙の差出人を捉えた瞬間、表情はあからさまに曇った。
「剣菱さん………嫌な男に目を付けられたわね。」
「え?」
「小鳥遊慎、よ。」
学生鞄と手提げ袋の両方を使い、何とかラブレターを回収した悠歌は彼女に促されるまま、廊下を進んだ。
「どういうこと? 」
彼女とこんな風に会話を交わしたことは今までにない。
連絡事項を伝え合うくらいの関係でしかなかったのだから。
「彼、相当ワガママなお坊ちゃまらしいわ。此処(聖プレジデント学園)に来る前、結構な騒ぎを起こしたらしいの。」
「騒ぎ?」
得意げな早紀子は話を続ける。
それは彼が六年間過ごした学校での出来事。
気に入った女子を追いかけ回し、プレゼント攻撃を仕掛け、あまつさえ振り向かないと解れば嫌がらせのオンパレード。
その女の子は耐えきれず泣く泣く転校したが、小鳥遊慎は祖父に頼み、情報を仕入れ、更なるストーカー行為を続けたそうな。
「最低。」
「でしょう?私の従妹が同じ学校に通っていて、当時、その噂はかなり広まったみたい。だけど、おじいさまが副総理に就任したばかりだったから、誰も逆らえないわよねえ。」
「何故、彼は転校してきたの?」
「さぁ、そこまで知らないわ。」
「…………もし北条さんの言うことが本当なら、私も対策を講じないと。」
「ふふ……貴女なら大丈夫だと思うけど?」
早紀子は含み笑いで悠歌を見つめる。
「どうして?」
「あのお父様とお母様に太刀打ち出来る人ってそうそう居ないわよ?」
全てを知っているといった風情で断言する早紀子に、慌てて首を振る悠歌。
「両親は巻き込みたくないの。もし何かあっても、自分で解決するわ。」
「へぇ、ご立派ねぇ。ただのお嬢様じゃないってわけ?見直したわ。」
どうやら嫌味ではなく本音のようだ。
心からの賞賛に一旦頬を緩めた悠歌だったが、両腕に重く感じる彼の執着は正直不愉快で────
今すぐにでもこれらの手紙を焼却場で燃やしたくなる衝動がこみ上げた。
教室に到着した二人は会話を止め、それぞれの席に着く。
もはやこれ以上の情報は不要だ。
────この年でトラブルなんてごめんだわ。ママじゃあるまいし。
悠歌の吐いた溜息は、爽やかな朝の空気にそぐわぬ、重くて深いものだった。
・
・
・
「剣菱さん、手紙、読んでくれた?」
あの日から毎日のように送られるラブレターは、数こそ減ったものの、ゼロになることはなく…………
悠歌はその声の主が“小鳥遊 慎”であると確信し、ゆっくりと振り返った。
放課後の廊下は閑散としている。
生徒会役員として活躍する彼女は、文化部の部長と会議を終えたばかり。
荷物を引き上げるべく教室に戻ろうとした矢先の出来事だった。
沈みかけの夕日は、長い影を作る。
小柄な、しかし顔立ちはくっきり整った細身の男の子。
声変わりもまだなのか、女子と変わらぬソプラノボイスで話しかけてくる。
現在、中等部は一学年に五クラスあるが、彼が在籍するE組だけは新校舎に配置されている為、お互い顔を会わせる機会はほぼ無いに等しい。
悠歌はこの時初めて’小鳥遊慎’の顔を認識したが、それは想像していたものとはちょっと違っていた為、思わず拍子抜けしてしまった。
「…………小鳥遊、君?だよね。」
「うん、小鳥遊 慎。」
こくっと頷く年相応の姿に、噂の狂気は感じられない。
それでも“人は見かけによらないものだ”、との父の教えを思い出し、ある一定の距離を空けたまま対峙した。
「手紙は読んだけど…………ごめんね。今、特定の人とお付き合いするつもりはないの。」
「…………読んでくれたんだ。」
「え、ええ。ちょっと大変だったけど。」
陰気とまではいかないが、それでも快活とは言えぬ少年の口端がゆっくりと持ち上がる。
それはぎこちない笑みだった。
じわりと緊張が走る中、悠歌は並ぶ教室の静けさに、軽い絶望をおぼえていた。
父と母から、嫌と言うほど護身術は叩き込まれている。
彼がもし、何かしらの危害を加えようとしても、そう簡単に思い通りにはさせない。
自分より五センチも低い少年に何か出来るとは到底思えなかったが、不気味な雰囲気が漂わせている為、彼女は危機感を緩和させるわけにいかなかった。
「僕…………入学式のとき、剣菱さんの代表挨拶を聞いてすごく気に入っちゃったんだ。」
「……………そう。」
「この子ならきっと、僕の家柄にも相応しいって………確信したからね。」
「……………。」
お世辞にも愉快とは言えぬ発言を、彼は澱みなく口にする。
悠歌の眉間に皺が寄り、それは彼の目にも留まっているはずなのに、小鳥遊慎は気にもならない様子で先を続けた。
「僕ん家は昔から名の通った家だし、お父様やおじいさまが日頃からお付き合いについては煩いんだ。でもやっぱり気に入った女の子と交際したいからね。その点、剣菱さんなら文句はないと思うよ。」
相手の心を無視した台詞。
この手の人間はどこにでも散らばっているが、彼はまだ13歳。
子供にしてはあまりにも絶望的な価値観だった。
「うちは成金よ。それにさっきも言ったけど………今は勉強に集中したいの。ごめんなさい。」
「友達にもなれない?」
「…………友達は、意図して作るものじゃないと思ってるから。」
「ふーん………」
気の抜けた声は何故か癇に障る。
しかし悠歌はそれをおくびにも出さず、微笑むに留めた。
「じゃ、そろそろお迎え来ちゃうから、ごめんね!」
「あ、剣菱さん!」
ひときわ高い声で呼び止められ、緊張が走る。
「なに?」
「僕、諦めの悪い人間だから………また手紙書いちゃうけど、いいかな?」
「……………出来れば止めて欲しい。」
「返事は期待してないよ。」
「でも…………」
『迷惑』と言えば、逆上するかもしれない。
悠歌は適当な言葉を探したが、なかなか良い返事は思い浮かばなかった。
「そんなに困らなくてもいいじゃないか。僕は僕の想いを君に伝えようとしているだけなんだ。嫌なら読まなきゃいいだけの話だろ?」
歪で一方的な執着は、悠歌を更に不愉快な感情へと突き落とす。
「さすがに…………迷惑だわ。」
ハッキリ言い切った答えに、小鳥遊の目が暗く澱んだ。
「迷惑?僕の想いが、迷惑だってこと?」
「ええ。」
「剣菱さん……って、見かけよりも冷たい人間なんだね。」
全校生徒の前でそう断言されても良い。
彼の奇妙な執着が断ち切れるのなら。
悠歌は黙ってそれを受け入れた。
「そうかもしれないわ。小鳥遊君の想像とは違っていて幻滅したでしょ?」
「確かに………もっと優しい人だと思ってたから。」
「なら………」
「でも!僕はそんな君が良いんだ!」
ぞわっと肌が粟立った瞬間、小鳥遊 慎は数歩開いていた距離を縮め、大きく前進した。
咄嗟に身構える悠歌。
しかし彼はそこから動かず、下からのぞき込むようにして彼女を見上げた。
「…………この学園は確かに良い子が多いけど、僕には剣菱さんが一番似合うと思うよ。」
「…………小鳥遊、君。」
常識も理屈も、彼には必要なかった。
ただ、欲しいものを欲しがってむずがる、駄々っ子にしか見えない。
このような“歪み”は、一体どうやったら生まれるのだろうか。
悠歌とてまだ子供である。
人を諭すことなど慣れてはいない。
しかも相手は同級生な上、常識の外に居る人間だ。
心底困り果てていると、廊下の向こうから複数の足音が聞こえてきた。
それはまさしく天の助け。
北条早紀子の声がする。
「あら?剣菱さん…………と小鳥遊、君?」
どうやら取り巻きも一緒の様子で、 吹奏楽部の面々が後ろに控えていた。
安堵する悠歌。
それを見て、一目で何があったか把握する利発な早紀子は、機転を利かせ足早に近付いてきた。
「ねぇ、剣菱さん。役員の貴女にちょっと頼みたいことがあるんだけど、お時間よろしくて?」
「え、ええ。もちろん。」
「良かった。小鳥遊君、ごめんなさい。急ぎの用だから彼女を貰っていくわ。いいわよね?」
口ごもる小鳥遊を一瞥し、それ以上は何も言わせないとばかりに語尾を強める。
悠歌の腕を取り、颯爽と歩き始める中、その後ろを部員達が静かについてゆく。
女王の貫禄を見せつける早紀子に、小鳥遊慎も諦めるしかなかったようだ。
・
・
「助かったわ。ありがとう。」
「クラスメイトのよしみよ。あ、でも一つ貸しということでいいかしら?」
「………いいわ。私が出来る範疇でお願いね?」
「ふふ。剣菱のご令嬢に出来ないことなんてないでしょ?」
ご機嫌な早紀子は階段を降りたところで、部員達をさらりと解散させ、悠歌と二人きりになった。
「どう?やっぱり面倒な相手でしょう?」
「…………そうね。でも今のところ、そこまで変な行動に出そうもないわ。ちょっと偏屈な感じはするけど。」
「甘いわよ、剣菱さん。可能な限り早く、お父様達に助力願うことね。」
「それは…………」
「貴女の為に言ってるの。あのお坊ちゃま、少しネジが外れてると思った方がいいわ。」
早紀子の言うとおりなのかもしれない。
だが悠歌は両親に余計な心配をかけたくなかった。
否、下手に心配させれば、取り返しがつかないほど大事になる為、それを回避したかっただけなのかもしれない。
元祖トラブルメーカーの母親と過保護過ぎる父親。
二人の愛情は時として恐るべき方向に向かう。
「………分かった。考えてみるわ。さっきはありがとう、北条さん。」
「早紀子で良いわ。」
「………なら、私も悠歌と呼んで?」
二人はこの件を切っ掛けに、かけがえのない友となる。
それは数ある宝石の一つ。
キラキラと輝く、永遠の眩さ。