聖プレジデント学園高等部。
春に赴任したばかりの数学教師は、見た目通り真面目で厳しく、そして頭が良かった。
毎朝、真っ直ぐ背筋を伸ばして出勤する姿に、女子生徒達は黄色い声をあげる。
「菊正宗先生ってうちの教師とは思えないほど素敵だわ!」
「本当!あの冷たい瞳が魅力的なのよね。」
そんなクラスメイトを横目に、学園一の金持ち令嬢・剣菱悠理は、今夜行われる暴走族の集会へ思いを馳せていた。
良家の子息子女が集まるこの学園で、彼女ほどそぐわぬ人間は存在しない。
令嬢らしからぬ物言い、慎みのない性格。
喧嘩の強さは巷のチンピラですら一目を置くほどだ。
無論、そんな彼女に友達らしい友達は居ない。
一匹狼よろしく、単独行動が多かった。
新任教師、菊正宗清四郎がそんな孤立した生徒に目を付けた理由。
それは教育者としての立場や同情心からでは決してない。
ただ単に彼女が、一学期末に行われた定期試験の数学で0点を採ったからに過ぎないのだ。
卒業を控えた三年生。
自分が担当するクラスでまさかの0点。
名前の書き忘れでも解答欄のズレでもなく、テスト用紙には大きく、『わからない』と書かれてあった。
プライドの高い清四郎はそれにショックを受け、慌てて出来の悪い生徒を呼び出す。
その呼び出しに不承不承、指導室へとやって来た悠理は、唇を尖らせ不機嫌な様子を隠さなかった。
「剣菱さん。この回答用紙は一体どういう意味ですか?」
生徒に対してまで丁寧な物言いをする男に、悠理は胡散臭そうな視線を投げつける。
学園内のどの教師も、問題児である悠理に対し高圧的な態度で説教してきたからだ。
何せ週に一度は問題行動を起こす、厄介な生徒。
教師達の眉間には深い皺が刻まれ、半ば諦めモードである。
「解んないから‘わかんない‘って書いたんだよ。」
「ほう・・・・。僕の授業を聞いても解らなかったという事ですね?」
それには口ごもる悠理。
「授業=睡眠時間」の彼女にとって、教師の講釈はまさに子守唄だ。
だいたいどいつもこいつも面白くない授業ばかり。
何の刺激もないし、退屈でつまらない。
そんな表情から悠理の気持ちを察した清四郎は、長い人差し指を顎に添え、解決策を考え始めた。
出来の悪い生徒を成長させてこそ、真の実力ある教師。
清四郎はそう確信している。
「剣菱さん。リベンジさせてください。」
「は?リベンジ?」
「放課後の一時間。この指導室で特別授業を行います。君に合うカリキュラムを組んできますから是非それに参加してください。」
それは当初から考えていた打開策。
「冗談だろ!ただでさえ嫌な授業をもう一時間増やされてたまるか!」
悠理の非難に清四郎は不敵に笑う。
それはどことなく大人げない笑いだった。
「安心なさい。必ず面白くしてやりますよ。ああ、さぼる事は考えない方がいい。お家の方には全て説明済みですし、くれぐれも、とお願いされましたから。」
その言葉に愕然とした悠理は、まるで化物に出会ったかの如く、目を大きく皿のように開いた。
「か、か、母ちゃんに電話したのかよ!!」
「ええ。成績の事も特別授業の事も話しましたよ?」
しらっと告げる教師を見て、更に目を剥くと、悠理は怒りにまかせて叫んだ。
「ひ、ひっでぇー!!あたいが家でどんな目に遭うか知らないから、んな事できるんだ!!母ちゃんは怖いんだぞ!鬼のように怒られんだぞ!ハンマーで殴られるかもしれないんだかんな!!」
清四郎は眉をひそめ、聞き捨てならないと詰め寄る。
「電話口ではとても穏やかで上品な口ぶりでしたが?剣菱さんの話と随分印象が異なりますね。
まさか?陰で虐待――そんなわけないか。貴女は大人しく黙っている様なタマじゃありませんしね。」
ムッとした悠理だったが、母の二面性はよく知っている。
―――外面だけはいいんだ。母ちゃん。
しかし成績の事に関してはとにかく厳しい。
中等部の頃はまだマシだったのに、高校生になってから『教育ママ』に変貌したのだ。
それはもう父と兄も恐怖するほど・・・・・。
以前行われた英語のテストで8点を採った時。
丸一日何も食わせてもらえなかったあの’ひもじさ’を思いだし、ぶるりと身を震わせる。
普段、日に五食(多い時で六食)食べている悠理にとって、あの一日は餓死寸前にも等しい状態だったのだ。
「あたい、家に帰んないぞ!」
「は?」
「あんたン家泊めてよ!」
「何を馬鹿なこと―――」
相手にしない清四郎に苛立ち、椅子から立ち上がった悠理は一気に距離を縮めた。
互いの鼻先がくっつきそうになるほど。
「あたいが餓死したらどーすんだ!?勉強教えてくれるってんなら、先生の家で教えてよ。それなら時間もたっぷりあるだろ?」
「あのねぇ。どの世界の教師が、勉強の為にわざわざ生徒を家に泊めるんです?」
「やなら、あたい家出してやる!書き置きして逃げ出してやるぞ!先生の所為でこうなったんだって。」
――子供か!!
と言いかけて、『子供だったな』と思い出す。
それというのも、見た目は極上の美人。
すらりとしなやかな身体つきや細く長い手足からは、むしろ大人っぽささえ感じさせる。
だが、それとは裏腹に、先ほどから子供じみた発言をするアンバランスさは、清四郎にとって不思議で仕方なかった。
コホン
咳払いをし、妙な空気を一掃すると、もう一度椅子に座るよう促した。
「解りました。取り敢えずは勉強合宿と銘打ってご家族にもう一度連絡をしましょう。」
「やった!あんがとー!センセ―。」
初めてまともな笑顔を見せられた清四郎は、ふと太陽の輝きを思い出した。
外は曇天だというのに――。
結局、自ら電話する事となったが、そこで再び驚かされる。
普通、年頃の娘を、たとえ相手が教師だとしても、よく知らない男の家には預けない。
それなのに母親は、
「先生、お願い致します。あの子が無事大学部の切符を手にすることが出来るよう鍛えてやってくださいな!」
と、多少芝居がかった懇願をしたのだ。
瞬間、眩暈がする。
あの娘にして、この母親ありかと。
赴任したばかりの清四郎は、自分の教師人生はさほど長くないかも知れないと、朧気に悟った。
・
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「へぇ、結構広いマンション!先生、高給取りなんだね。」
セキュリティの高さが売りの2LDK新築マンションは、清四郎が教師になった時に購入した。
趣味の株で儲けた金を遣い一括払いで・・。
実家は比較的近くに位置するが、小煩い姉や、何かにつけて便利屋扱いする父母から逃げる為、独り暮らしを決意したのだ。
実のところ、清四郎は大学時代の教授に頼まれ、論文の手伝いもしている。
教師になる前は大学に残ろうかと思っていたが、やはり外聞もあるため、教員資格を利用し就職したのだ。
ちなみに教師歴三年。まだまだ新米である。
二度目の赴任地に、聖プレジデント学園を選んだのは、自身も高等部まで世話になっていたから。
ふと空き教員の募集を見つけ、すぐに志願書を出した。
まさか、こんな落第生が自分の教え子に含まれているとは―――。
さすがに予測出来なかった。
「剣菱さんはその奥の和室を使ってください。布団は押し入れに入ってますから。」
「え?ベッドじゃないの?」
「・・・僕はベッドですが、君の分はありませんよ。」
悠理はドカドカと足音をたて、もう一つ部屋を開け放った。
そこはもちろん清四郎の部屋。
12畳ほどの空間にダブルベッドとサイドテーブルがあるだけのシンプルな寝室だった。
「なんだ!ダブルじゃん。あたいもここでいいよ。広い広い!」
こめかみを震わせた清四郎が拳骨を落としたのは当然のこと。
「いってぇーー!なにすんだ!」
「僕を犯罪者にするつもりか!!」
「はあ??」
思いっきり疑問符を漂わせながら、悠理は怪訝に見上げた。
「君は、女としての自覚が無さすぎる!」
「あたいは女だぞ?」
「‘自覚’と言っただろう?」
「???」
その顔に何かを含んだ様子は感じられない。
清四郎はその事こそが、苛立ちの原因だと理解した。
―――こいつは、僕を‘男’として認識していない。
それは中学生くらいなら納得のいく理由だったが、彼女は高校三年生。
来年には大学生なのだ。
こんな危機感の無さを露呈されると、無理矢理にでも教え込みたくなるのが「教師の性」というものだろう。
清四郎は咄嗟に剣呑さを引っ込め、悠理の手首を握った。
「ん?」
キョトンとしたままの女を無理矢理ベッドへと引き摺って行く。
そしてピシッと張られた隙の無いシーツに放り投げると、躊躇なく上から覆い被さった。
両手をしっかり固定し、彼女の身体を自身の体重で押さえ込む。
「な、なに!?」
さすがに異変を感じたのだろう。
悠理は目を泳がせる。
「男の部屋に単身乗り込んできたんだ。それなりの覚悟はあるんでしょう?」
「え?」
「宿泊代として、少しくらい味見してもいいんですよね?」
「味見・・・」
ピント来ていない様子に、清四郎の苛立ちはますます募る。
「いいんですね?」
畳みかけるように尋ねる。
『さっさとギブアップすればいい!』
そう願いながら・・・。
「―――先生は、あたいとエッチしたいのか?」
ようやくそれなりの反応が返ってきたが、どうも腑に落ちない。
清四郎は眉を顰めた。
別にエッチなどしたいわけじゃない。
思い知らせてやりたかっただけだ。
そう、これは「教育的指導」なのだ。
だから、もっと反省させて、女としての自覚を促して―――
それなのに、清四郎は悠理の顔から視線を離せないでいた。
アーモンド型の茶色い瞳は、強い光を放っている。
薄い瞼に飾られた長い睫毛。
透き通るような白い肌と、チークを乗せたような頬色。
ピンク色の唇は、男を誘うよう少し開いている。
――こいつ、本当に美人だな。
過去の女全てが霞むほど悠理は美しく、そして清らかに感じた。
吸い込まれるような瞳。
――吸い込まれる?
そう思い、気付いた時には唇を重ねていた。
しっとりとその肉を味わうかのように。
男は、本能というものがこれほどを理性を裏切るとは知らなかった。
一旦離し、様子を窺う。
しかし悠理に動じた様子もなかったため、もう一度口付けた。
二度目はその滑らかさを確かめるよう、そろりと舌で舐めてしまう。
・・・・が、彼女はやはり動かない。
「剣菱――・・・さん?」
清四郎は開きっぱなしの目を覗き込む。
ゆらりと波打った感じがしたが、それは決して涙ではなく・・・・。
「いいよ?」
「え?」
「味見、してみる?」
「何を・・・・バカな・・・・」
掠れた声がやけに遠くに聞こえた。
「だって、先生・・・・あたいのこと信じてくれたじゃん。わざわざ母ちゃんとこに電話して、段取りもしてくれたしさ。本当はめんどくさかったろ?どの教師だってあたいのこと匙投げしてるんだぜ?でも先生だけだもん。」
悠理はちょっと嬉しそうに口角を上げる。
「先生だけだよ?リベンジしたいって・・・真っ向から言ってくれたヤツ。」
途端、胸がギュッと絞られた。
それは果たして教師としての悦びだったのか・・・
はたまた、彼女の無防備さにつけいろうとした自分の醜さを感じた所為なのか・・・。
―――喉が渇く。
彼女は男勝りな風情でいながら、今こうしてベッドに押し倒される様は、すっかり「女」だ。
警告音が脳内で鳴り響く。
―――ダメだ。
ダメだ・・・清四郎。
相手は生徒だ。
それもまだ若い。
しかしどれだけ否定しても、身体はそれを裏切ろうとする。
―――何を考えているんだ・・・!
彼女の片手を開放し、自らの指先で制服のリボンを外し始める。
あまりにも呆気なく解かれた赤いリボンは、ベッドの下へと滑り落ちた。
「せんせぇ・・・」
甘えた声・・・・。
それを聞き、急激に立ち上がる欲望。
背徳感を感じながら、興奮を高める己の獣欲。
未知の経験だった。
「剣菱・・・・」
「ゆうり・・・でいいよ?」
「ゆうり・・・・」
生まれてこの方、赴くがままの欲望に身を委ねたことのない男は、
この日初めて、その倒錯的な快感を深く、深く味わった。