その部屋はとても静かだった。
まだ夜も明けぬ暗闇の中、
カチカチ………………
秒針の僅かな音すら耳に届く。
ドクドク………………
悠理の鼓動はそれとは重ならぬほど速かったが。
サイードは女の言葉を待っていた。
堕ちろ
堕ちろ
そう心で念じながら━━━。
ハサナルの執着した女が、無様に泣きすがる姿が見たかった。
女など、皆同じだと証明したかった。
サイードにとって、この世の全ての’女‘に、特別な価値など見出だせない。
今までも、そしてこれからも……………。
それが結論だった。
この二ヶ月間、自らの感情を整理しつつ過ごした彼が、ようやく辿り着いた答えは歪な形をしていた。
ハサナルを愛している。
ハサナルの様に振る舞い、彼そのものになりたい。
尊敬
崇拝
信仰
執着
魂の全てを捧げ、彼に仕えていたサイード。
天才的な頭脳も、厚き忠義心も、彼の為だけに存在した。
ハサナルだけが、サイードの生きる指針であったのだ。
しかし出会ったばかり悠理へ仄かな執着を見せる彼に、サイードは憎しみにも似た感情を芽生えさせる。
女と遊ぶのはいい。
本気にさえならないのなら。
彼自身気づかぬ想いを抱え、それでも片翼であることを誇りに思いながら過ごしてきた。
誰も自分の代わりにはなれない。
このサイード無くして、ハサナルを砂漠の王に仕立てあげることは不可能なのだ。
しかしそんなプライドはあらぬ方向へと向かう。
ハサナルが事故死する前夜。
サイードは隠してきたマリアの所在を彼に告げた。
娘の事は伏したままに。
だが彼は驚いた顔一つせず、「そうか。」と一言だけ洩らすと、真っ直ぐ寝室へ向かおうとした。
既に興味を失っていたのだろう。
過去の色褪せた思い出よりも、砕け散った新鮮な恋心にこそ、彼の胸は占領されていたのだから。
━━━こんなハサナルを見たくはない。不遜なほど自信に満ちた彼だからこそ自分は・・・・!
「そこまで落ち込むのならユウリを拐ってきますか?私が手を下せばさほど難しいことでもありませんよ。もし彼女の夫が邪魔するのなら、彼を亡き者にしてでも………」
「サイード、やめろ!」
ハサナルの怒声が空気を震わす。
サイードは久々に彼らしい声を聞いたような気がした。
「お前が言ったんだ。’初恋は実らない‘、と。」
「確かに、言いましたね。」
「それなのに蒸し返してどうする?惨めになるだけだ。」
覇気を失った王子の両肩は、悲しいほど重く沈んでいた。
それを見たサイードの中に、汚泥のような感情が渦巻く。
マリア
ユウリ
比類無き存在のハサナルを地に貶める二人の女達。
その頃のサイードにはマリアに対する殺意が既に芽生えていたはずだ。
一方、ユウリに対しては二度と会うこともないだろうと、楽観視していたが━━━━。
しかし二ヶ月前の再会を機に、止まっていた歯車が音を立て回り始める。
予期しなかった悠理との再会はまたもやトラブル含みだったが、久々にサイードの心が沸いた。
彼にとっての興味はただひとつ。
━━━━ハサナルの心を奪った彼女に、一体どんな魅力が隠されているのか?だ。
そしてそれは、自分の胸に広がる空虚をも満たしてくれる物なのか?
知りたかった。
ハサナルがどう感じ、どう手を伸ばしたのか、知りたかった。
彼の感情を全て共有したかったのだ。
金持ちの令嬢とは思えぬ食い意地の張り方。
かくも愚かな彼女は、呆気ないほど簡単に捕獲され、こうして怯える子羊となっている。
━━━幼いな。
サイードの胸に広がる空虚に成り代わったのは大いなる嗜虐心だった。
ハサナル同様、意識の無い女には食指が動かない。
だから試してみたのだ。
侍女に歯形を付けさせ、それらしい言葉で惑わせる。
━━━さて、ユウリはどう反応する?
愛する夫を裏切り、この手に堕ちるのか?
はたまた、三年前と同じように裸で逃げ出すのか?
どちらにせよ見ものだ。
「さぁ、ユウリ。怯えなくてもいい。私はハサナルより女性を優しく扱いますよ。」
薬を盛っておいて…………とんだ茶番だ。
サイードはそう自嘲する。
「さわんな!」
「別にいいでしょう?一度も二度も、裏切りは裏切り。貴女に釈明する権利はない。それともセイシロウに真実を伝えますか?彼は潔癖なところがあるから、妻の不貞を許せないでしょうね。」
とどめとばかりに絶望を与える。
桃色の唇が震え、大きな瞳が潤み始める。
それを見たサイードをゾクゾクとした支配感が襲った。
━━━今度は彼女の首筋に私の歯形をたっぷり付けてやろう。夫に言い訳できぬほどくっきりと。
無慈悲な感情に囚われた彼は、容赦なく細い首に手を伸ばす。
しかし悠理は唇を噛み締め、何度か激しく首を振ると、サイードの胸板を強く押し戻した。
「サイード。あたいを脅そうとしても無駄だ。」
怯えていたはずの瞳がみるみる内に力強さを取り戻す。
「…………。」
「たとえあたいがどんなポカをしようと、あいつは絶対に許してくれる。この三年間で、あたいたちはちゃんと夫婦になったんだ。過ちを受け入れて赦し合えるくらい強い絆を作り上げてきたんだ。だから今回のことも清四郎にきちんと言う。怒られても詰られても、正直に、言う。」
真っ直ぐ投げ掛けられる曇り無き眼。
心の歪みに突き刺さるような清廉さ。
しかしサイードはそんな容赦ない痛みを振り払うよう、皮肉に笑う。
「なるほど。彼に捨てられない自信がある、と。」
「あるよ。だってあいつはこの世で一番あたいを愛してる。他の誰も代わりになれないほど、あたいのことだけが好きなんだ。」
心のささくれをガリリとむしり取られ、苛立ちが募る。
━━━先程まで震えていた子羊が、随分と大きく出たもんだ。
サイードは押し戻された胸板を、再び力付くで悠理に覆い被せた。
180センチの大男。
鍛えられた身体にはそれ相応の筋肉が付いていて、その分の重みが悠理から抵抗を奪う。
「では、もう一度試してみましょう。こう見えても性技には自信があるんですよ。」
「ハサナルみたいに?」
「・・・・・そう、彼以上に。」
「サイード、あんたは愛し合ったことないの?」
虚を突く言葉にサイードの動きが止まる。
「愛し合う?」
「うん。誰か好きな人と抱き合ったことないの?」
「それがどうしたというんだ?まさかこの私を説得しようと?そんなものは無駄ですよ。」
鼻で笑う彼は、言葉を封じるよう悠理の唇を奪った。
「………っん!!」
唇を貪りながらも、褐色の大きな手で薄い裸体を隈無く撫で回す。
「………や、めっ………んんっ………!」
「三年前よりも少し肉付きが良くなったのでは?’綺麗になった‘とは決してお世辞じゃありませんよ。貴女はとても美しい。セイシロウが羨ましいと感じるほどね。」
サイードの手は乱暴に見えて繊細だ。
悠理の肌を傷つけないよう、優しく官能的に這い回る。
ともすれば本気で感じてしまいそうなくらい、女の弱い部分を探り当てる。
しかし悠理は冷静だった。
体をまさぐられながらも、サイードに気づかれぬよう、ボリュームのある髪の中から細く長いピンを取り出す。
まるで針金を折り畳んだような形のそれを、指先で器用に広げ、肌を舐め回す男の後頭部へとその先端を当てた。
「もうやめろ、サイード。あたいは本気だ。」
ひんやりと触れた細いそれが、充分武器になりうると彼は判断したのだろう。
愛撫を即座に止め、ゆっくりと唇を離す。
「…………まるでニンジャですね。」
「だろ?」
「しかし、貴女は人を刺したことがなさそうだが?」
「うん。サイードが初めてになるかも。」
手に力を込めた悠理は、彼の首筋が凹むほどしっかりと突き立てる。
生々しい皮膚の感触が指に伝わった。
「っつ!」
「あたい、ほんとはすごく怒ってるんだ。でも三年前、助けてくれた恩もあるだろ?だから今、迷ってる。清四郎には普段から躊躇うなって言われてるけど、やっぱサイードのこと、そこまで憎めないからさ。だって・・・・・」
ふっと息を吐くよう微笑んだ彼女は、残酷なまでに美しく……サイードは思わず息をのんだ。
「あんたの目、すっごく綺麗なんだもん。殺したら勿体無いじゃん?」
━━━━嗚呼。そういうことか。
サイードはハサナルの気持ちがようやくわかった。
悠理はナディヤそのもの。
美しく、本能的な獣そのものだ。
サバンナを自由に駈ける、気高き猛獣。
それに魅せられ、無理矢理捕獲したとて、後々後悔するばかり。
しかし一度人間の匂いを染み付かせてしまうと野生には戻れない。
だからハサナルはナディヤを彼女に託したのだ。
彼女達はとても似通った存在。
ナディヤにとっても、心安らぐことだろう。
ユウリを手放したのは捕獲できないと分かったから。
ハサナルの檻に大人しく収まる獣ではないと思い知ったからだ。
「負けましたよ、ユウリ。」
サイードはゆっくり身を起こし、自らのバスローブを悠理に与えた。
悠理もまた、小さな武器を引っ込める。
「安心しなさい。私は貴女を抱いていません。」
「え?」
「正体のない女を抱くのは主義に反するので……」
「よかったぁ……」と脱力する女にサイードは小さく笑った。
「貴女の心を虜にしているセイシロウは、やはり相当な男というわけだ。」
そんな言葉に、悠理は袖を通しながら屈託のない笑顔を見せる。
「あったり前だろ。清四郎は世界で一番強い男なんだ。それに………あと何年かしたら、間違いなく世界一の王様になるんだから!」
「なるほど。ユウリがそう言うのなら、その予言は現実のものとなりそうだな。私もライバルの登場を楽しみにしていますよ。」
サイードはベッドの端に腰をかけ、目を逸らす。
もう彼女に触れたいという感情は起こらない。
「シャワー、借りていい?」
「どうぞ。」
悠理が消えた後、サイードは心地良い敗北感に身を委ねた。
「ハサナル……貴方はやはりお目が高い。」
・
・
・
その後、事なきを得た悠理はサイードの部屋からタクシーで自宅へと戻り、訝しむ母を説得した後、寝室に飛び込んだ。
「は~…ヤバかった。」
この3年間、彼女は清四郎から色んな護身術を習ってきた。
特に貞操の危機に関しての攻撃は、どれほど残酷になってもいいと強く教えられていた。
「やっぱ人殺しなんて無理だよ~。」
危険な命の遣り取りは何度もしてきたが、さすがに自分の手で誰かを殺める事なんて出来ない。
「でも清四郎なら……きっとしちゃうんだろうな。…………サイード、命拾いしたぞ。」
夜明けの青い光を見つめながらウトウトと眠りに向かおうとしたところ……
RRRRRRRR……
夫からの定期連絡だ。
「もしもし!」
「おはよう、悠理。といってもまだ早いか?」
耳馴染んだ優しい声。
張り詰めていた緊張が解けたのか、途端に涙が零れ出す。
「せぇしろ……」
「おや?まさか……泣いてるんですか?」
「せぇしろ…………会いたい。」
素直な感情が言葉となり、清四郎の耳に伝わる。
「……僕も会いたいです。たった三日しか経っていないのに……おまえを抱きたくて仕方ない。」
「うん、うん……あと何時間したら会える?」
「22時間といったところかな。短縮すれば18時間くらいにはなるかもしれない。」
彼はきっと腕時計を見つめながら、優秀な頭を回転させているのだろう。
そんな仕草を思い浮かべる悠理は、胸をキュンキュンさせながら、さらに可愛い台詞を吐き出した。
「帰ってきたら…………いっぱい抱いて?」
「!!!」
「あたいが清四郎のもんだって証拠、いっぱい刻んで?」
「悠理、何かあったんだな?ああ、くそ。今すぐ帰りますからね!ジェット機を飛ばせばギリギリ15時間だ。」
「大丈夫だってば。ちゃんと待ってるから……無事に帰ってきてくれたらそれでいい。」
普段聞き慣れぬ妻の甘い声と言葉に、清四郎の焦りが更に募る。
「いいえ!すぐに帰ります。」
プツ…………
切られた電話を見つめながら、悠理は涙を拭った。
「あたい…………馬鹿だよな。サイードにはあんな啖呵切ったけど、本当は絶対、清四郎に言えなかった。だって傷つけたくない。こんなにも愛してくれてるのに……傷つけたくなんかないよ。」
女としての弱い部分を思い知りながら、サイードにほんの少しだけ感謝する。
15時間後、何の憂いもなく愛しい夫と抱き合える機会を与えてくれた事に…………
・
・
・
翌日。
サイードの名で届けられた「謝罪」と言う名の薔薇は、百合子を歓喜させるほどのボリュームで……。
「サイード??彼が日本に滞在しているんですか?まさか、悠理……彼と何かあったんじゃ!」
「なんもないってば!マカオん時の’謝罪’なんだろ。」
「そんな言い訳、僕は誤魔化されませんよ。ほら、正直に吐け!」
「こ、こら、せいしろちゃん!勘ぐり過ぎだってばぁ~!」
悠理の口は貝になる。
この先もずっと、サイードとの危険な遣り取りを清四郎に告げることはないだろう。
愛する人を傷つけない。
そんな理由の嘘が一つくらいあってもいいはずだ。
・
・
・
三人が揃って顔を合わせるのは、約五年後の事。
清々しい笑顔を見せるサイードの側には、ハサナルそっくりの美少女が佇んでいたという。
砂漠の王はようやく心から欲する物を手に入れた。