砂漠の王が憂いに惑う時

「いってててっ………!」

「こら、じっとしていなさい。」

身を捩る悠理の首筋に、強引な力でガーゼを押し付ける夫。
袖を捲り上げた筋肉質の美しい腕が、サイードの侍女の胸を打つ。

「おまえもそろそろ、きちんと防御を覚えて、こんな馬鹿げた怪我などしないようにしてくださいよ。」

「はぁい。」

不機嫌そうに叱りつける清四郎は、口にくわえたテープを器用に引き千切ると、ガーゼをしっかりと固定するよう貼り付けた。

みみず腫が四本、血が滲むほど深く。
少々の脱毛と、投げつけられた鞄の金属部分が悠理の柔らかな唇を傷つけていた。



それは突然の襲撃だった。
カルーアミルクを二杯飲んだ悠理は、二人の男をカウンターに置いて化粧室へと向かう。
ハサナルとそっくりなサイードの隣はどうも居心地が悪い。
薄れていた記憶が甦るような、もやもやとした嫌悪感を感じ、カウンター下で夫が握る右手を強く握り返す。

━━━清四郎もきっと嫌なんだろうな。

ハサナルのした事は決して許されるものではないけれど、早々とあの世へ旅立った彼に文句を言えるはずもなく、不完全燃焼な憤りを抱えたまま、こうして三年が経った。
可愛いナディヤを撫でながら、忘れることが一番だと自分に言い聞かせ、忌まわしい経験から遠ざかろうとしていたのに………この再会は一体どんな運命の悪戯なのだろう。

悠理はため息を吐く。

天才と誉れ高きサイード。
彼はあまりにもハサナルに似ている。

三年前の彼は水を湛えた、まるで静かな池のような性格で、パニックに陥る悠理を宥めた時も、ハサナルの父の死を告げたときも、その声色に感情の起伏など見られず、どこか冷静だった。
しかし先程、連れ添っていた金髪の美女を追い払ったサイードには明確な苛立ちが見えた。

「あっちへ行っていろ。」

その短い英語を悠理が聞き漏らすことはなく、申し訳なさそうに女を窺えば、彼女はチークに染まった頬をひきつらせながら、足早に立ち去っていった。
サイードに弁解する様子は見当たらず、その冷たい瞳で一瞥しただけ。
悠理は思った。

━━━こいつ、雰囲気変わったよな。

ハサナルを失った後のサイードが、これまでの三年間をどう過ごしたかなど、知ろうとは思わないし解るはずもない。
彼のことは若くして逝った王子と共に、記憶ごと砂漠の中に埋めたい気持ちだったのだから当然だ。
サイードに救われたという現実は、どうしてもあの時の恐怖を呼び覚ます。
清四郎だけに捧げた身体を、呆気なく汚されそうになった絶望感は二度と味わいたくない。
二度と…………。

そんな苦い思いを噛み締めていた時だった。
洗面台で手を洗っていた悠理の背後に‘その女’は現れたのだ。
赤い爪と赤い唇。
サイードの側に居た、自らの美しさを大胆にひけらかす女。

「あなた、サイードに一体どんな色目を使ったの?」

「え?」

早口の英語で言われたとて、ヒアリング能力の低い悠理にはわからない。
分かる事はただ一つ。
その憎悪だ。
ギラギラと漲った憎悪。

鏡越しに女と視線が絡み合い、悠理がその危険性を察知した時には、既に猛獣の如く長い爪が彼女の顔を目掛け、振り翳されていた。

「何すんだ!!」

自慢の反射神経でかわしたはいいが、敵もさるもの。
もう片方の手を鋭く走らせる。
悠理は間一髪、顔へのダメージを回避する事が出来た。
が、首筋に四本の引っ掻き傷が残る。
女はすばしっこい悠理にイラっとさせられたのだろう。
持っていたクラッチバッグを175センチの高さから、思いきり投げつける。

「いってぇ!」

切れた唇からの鮮血。
悠理はそこで初めて女への怒りに燃えた。

「わけわかんないこと言いやがって!!あたいを怒らせたな!」

いくら相手が大女とはいえ、喧嘩慣れした悠理の相手ではない。
手加減した足払いは、7cmのハイヒールを履いた女を容易に転ばせることが出来、彼女は無様にもトイレの床に尻餅を着いた。
悠理を見上げ睨みつけるその瞳は、プライドを傷つけられた憤りに縁取られている。
闘いのゴングは高らかに鳴った。



「何事だ?」

廊下にまで聞こえていたのだろう。
騒ぎを聞き付け、カジノのスタッフが飛び込んできた。
繰り広げられる女二人の壮絶なバトル。
勝利はもちろん悠理の手に…………



そして冒頭に戻るのだが━━━━
少々足を捻っただけで大した怪我もせず、それでもサイードに泣きつこうと駆け寄った女は、言葉を発する間もなくその場で冷水を浴びせられた。
彼らの会話はもちろん悠理には解らないため、そっと清四郎に尋ねる。

「何て言ってんの?」

「‘二度と目の前に現れるな。さもなければ私に屈辱を与えたことを後悔する羽目になる。’」

「へぇ、サイード、怒ってるんだ?」

見た目に変わらない表情をしているため、喜怒哀楽が分かりにくい。

━━━━同じポーカーフェイスでも清四郎はまだ分かりやすいよな。サイードは難しいけど。

医務室で手当てを終えた二人は、彼が泊まるカジノに隣接したホテルへと案内される。
そこもまたサイードの持ち物であり、半年前にオープンしたばかりの超高層建造物であった。

「ここから見る景色が好きなんですよ。私は砂漠生まれだから、こういった高い建物に憧れる。母国でも近々、世界一高いホテルを建てる予定です。」

大きな窓ガラスから見渡せるきらびやかな夜景。
シャンパングラスを差し出したサイードは、優雅に微笑む。
恐らく、今、彼の手に入らないものはこの世に存在しないだろう。
しかし、夜景を見つめ続けるその目は、未だ何かを求め続けているようにも思える。
その’何か‘は悠理には分からない。
ただ、サイードの広い背中が、どこかずっしりと重そうに見えて、胸がぎゅっと痛んだ。

「ホテル建設にあたり、剣菱には何度も打診しているんですが、色好い返事を貰えない。やはり相手が私、だからですか?」

直球で尋ねられた質問に、清四郎は潔く頷く。

「本来なら僕たちは、二度と貴方と接点を持ちたくなかった。私情を挟んでいると解っていたが、やはり認められない。彼女の父にそちらと関わらないよう進言していたのは、もちろんこの僕です。」

「ふ・・・・ビジネスチャンスを不意にするのは貴方らしくないな。」

「比べるべくもない。仕事よりも彼女の安定を優先させたいだけだ。」

男たちの間に見えない火花が飛び交う中、しかし悠理はお決まりの「お腹空いた」を溢し始める。
和んだ空気の中、サイードは控えの間で待つ侍女へ食事を届けるよう指示を出した。

「今夜はもう遅い。部屋を用意させますから泊まって行ってください。」

「いえ。尖沙咀にホテルがあります。ヘリポートを貸していただけると助かるんですが。」

あくまでも彼の手は借りたくないと考える清四郎。
サイードは苦笑しながらもそれを受け入れた。



二人を見送った後、サイードは窓の外の夜景を見ながら、グラスを傾ける。
ライトアップされた原色の派手派手しい光。
誰もが羨むポジションでそれを見つめながらも、彼の心は渇いていた。
ハサナルのように、いや、彼以上の金と地位、そして権力をも手に入れたサイード。
しかし彼もまた、胸を空虚に明け渡している。
飢餓感にも似た憂い。
それが一体何なのかも解らないままに・・・・。

マリアを薬物中毒と見せかけ殺害した後、サイードはニューヨークに住まうハサナルの娘を呼び寄せた。
マリカ(女王)と名付けられし子は、父親と同じ琥珀色の瞳を持つ黒髪の少女。
養父母役の二人には多くの謝礼を渡し、口止めをした。

母殺しの男の手に、彼女は直ぐに縋りつくよう甘え始める。
まだ10才にも満たない少女なのだから、当然と言えば当然だ。
そして三年が経ち、マリカは現在イギリスの寄宿学校(女子校)で学んでいる。
悪くない頭だが、父親のそれとは比べ物にならない。
見た目は両親の良いところばかりを受け継いでいるため美しさは本物で…………かといって、変な虫に集られでもしたら後々面倒なことになる。
サイードの決断は早かった。

自身の結婚など望むべきものではない。
23歳という年齢はもちろんイスラム圏においても若造であるが、そんなことよりも結婚して子を成すという将来が、彼には見当たらないのだ。
それでもいつかは、ハサナルと自分が遺す多くの資産を誰かに継がせたい。
その為にマリカは必要だった。
万が一、資産を受け継ぐ有能な男が見つからなかったら、その時は自分がマリカと結婚すれば良いだけの話。
ハサナルの娘という血筋だけでも正当な権利が与えられるのだから、マリアも草葉の陰で喜ぶことだろう。

しかし━━━━

サイードの冷えきった心がギシギシと軋む。
大切な片翼を失った後の彼は、ただひたすら仕事に没頭してきた。
冷徹な判断は事業を確実に成長させていく。

反面、眠りを妨げる喪失感から逃げるように女を抱いた。
薬も試す。
ハサナルの遺したドラッグには、安眠を促すタイプの物が多く含まれていた為、それらは全て試した。
しかし、サイードの睡眠は浅かった。
何かに追い立てられるように目が覚める。

慢性の睡眠不足と日々の張り詰めた緊張。
自分でもどこか残虐な性質になっていく、と気付いていた。

━━━━これはもしかすると、彼女マリアの呪いなのか?

そんな疑惑に取り憑かれたサイードは、マリアに似た女を手に入れ、酷く責め立てる。
時折、命を奪いそうになり、慌てて蘇生を試みたこともあった。

心がどんどんと渇いていく。
砂漠のように・・・・。
手に入れた全ての物が砂塵へと還り、自分には何も残らないような気さえしてくる。

「ユウリ・・・か。」

ハサナルが彼女に執着した理由は何だ?
大らかな性格?
強靱な意志とプライド?
それとも、まだ何か隠されていると言うのか。

「馬鹿馬鹿しい。他人の女などに興味はない。」

サイードは首を振った。

だいたいあの男が側に居る。
警戒心を隠そうともしない、剥き出しの敵意をぶつけてくる’夫’という名の番犬が。

「あの事件は、彼をも変えてしまったということか。」

サイードは飲み干したグラスをテーブルに置くと、隣室の侍女を呼びつけた。

今夜も眠れそうにない。
予測していなかった再会は何かを期待させ、鎮まっていた精神を昂ぶらせてくれる。

━━━━彼らにはもう少しお付き合い頂くとしよう。

砂漠の王は小さな憂いを振り払うよう、跪く褐色の女を抱き寄せた。