本編

「なんて格好をしてるんだ!」

「や、やだ……!!!離せ!」

突然後ろから抱えられ暴れる悠理は、もちろん本調子ではない。
振り上げた頼りない拳は、サイードの手で呆気なく捕らえられた。

「落ち着きなさい。悪いようにはしないから……」

彼は自らの衣装で悠理を包み込む。
ここはイスラム圏。
どんな事情であれ女性が肌を、それも裸体を見せて歩いては、色々と差し障りがある。

サイードはハサナルほどではないが、そこそこモテる男だ。
天才的な頭脳と、凜々しくも理性的な顔立ちに、色めき立つ女も多い。
世界を股にかける男故、各国に深い関係の女性は存在するが、さすがにその中に日本人はいなかった。

彼は一瞬、悠理の白くきめ細やかな肌に魅せられ、喉を鳴らす。
スレンダーな身体から匂い立つ色気は、あの’香’によるものか、それとも━━━━。

「ゴホン」

やり過ごすように咳払いするサイード。
状況は一目で分かった。
しかしハサナルの魅力に抗える女が居たとは……正直驚きだ。

いつもは素早しこい悠理も震えが残った足では活路を見いだせないのか、サイードの胸の中に落ち着いた。
憤懣に燃え立つような目だけを光らせて。

「まったくもって、じゃじゃ馬姫だ。ハサナルも苦労する。」

母国語でそう呟いた彼は、彼女が走って来た道を真っ直ぐに歩き出す。

「や、やだぁ!!!」

恐怖に暴れる悠理。
が、サイードの身体はびくともしない。

「泣かなくていい。心を落ち着けて。」

穏やかな声で宥めるサイードが、彼女の哀れな泣き顔をクーフィーヤで覆い隠す。
騒ぎを聞きつけた宿泊客が中庭に集まり出したからだ。

「大人しくしなさい。悪いようにはしないと言っただろう?」

その言葉を鵜呑みにしたわけではない。
がしかし、悠理は一番気がかりだったことを彼に尋ねた。

「清四郎は…………?」

「大丈夫です。」

サイードは口元を緩ませ、大きく頷いて見せる。
何がどう大丈夫なのかまでは聞けなかったが、その断言は悠理に少しだけ安心感を与えた。
強張った肩から力が抜ける。
少なくともハサナルよりは安全だと思える胸板だった。



サイードに抱えられながらも忌まわしき部屋に戻ると、暴君はベッドの上で仰向けに転がっていた。
手を頭の後ろに組み、何がおかしいのか小さな笑い声を洩らしている。

「サイードか。」

天井への視線をそのままに腹心を呼ぶ。

「ハサナル、休暇はおしまいです。お父上が亡くなられました。」

「……何?」

一転、ムクッと起き上がり瞠目した彼。
しかし、サイードの腕の中で不安げに身を竦める悠理を見つけると、突如として不快感を露わにした。

「触れるな、サイード。その女は私のものだ。」

「ハサナル。今はそれどころではないでしょう。可哀想に………こんなにも震えて。こういった遣り方は決して貴方らしくないと思いますが?」

「私らしい?」

ハサナルは鼻を鳴らす。

(おまえに私の何が解るというのだ?)

そう心の中で独りごちて……。

「まあいい。おまえの言う通りにしよう。直ぐ様屋敷に戻って段取りを決める。」

「分かりました。ではこのお二人には、ここに滞在してもらったままでもよろしいですか?」

「構わんが、監視をつけておけ。」

「ハサナル……それは………」

悠理には全く分からない言葉。
しかしどうやら自分は彼の魔の手から救われたようだ。
確信した彼女は、サイードに下ろすよう求める。
彼はスマートに手を離すと、よろめく悠理を片手で支えながら、素早くシーツを被せた。
その時、目にした複数の歯形の痕跡は、白い肌にはあまりにも痛々しく……

(全く、碌でもないことをする。女性に対するいつもの扱いではないな。だいたいこのお香には中毒性があるというのに。)

ひとこと言わねば気が済まないとばかりに、一歩足を踏み出したサイード。

しかし、そんな彼の横を一陣の風が吹き抜ける。
否、風ではない。
それは紛れもない、黒髪の男だった。

清四郎は立ち上がろうとしていたハサナルの胸ぐらを掴むと、力一杯殴りつける。
その拳は確実に彼の奥歯をへし折った。

「これは一体どういうことだ!!」

返事を待たず、もう一発。
そして直ぐ様、男の急所でもある喉仏に親指を当て、遠慮なく押さえつける。
そこは意外にも柔らかな骨である為、指一本で簡単に砕くこともできるのだ。
もちろん命を奪うという意味で…………

「悠理に何をした!?答えろ!」

滅多に見せることのない激情が、清四郎の全身を覆い尽くしている。

怒り。
怒り。
怒り。

彼の拳にはストッパーが見当たらない。
二発も食らったハサナルが、意識を保てていることはまさに奇跡だった。

一方、悠理は清四郎の無事な姿に涙を零しながら、当然二人の間に割り込めないでいた。
恋人の強さは嫌と言うほど知っている為、さすがに恐怖が勝る。

「やめなさい、セイシロウ。」

武術の心得がある者でも、彼の拳を止める人間はそうは居ない。
しかしサイードは涼しい顔でそれを成し遂げた。

「!!!」

「ハサナルの無礼は、後ほどきちんと詫びさせます。」

「勝手なことを言うな、サイード!ユウリはもう私の物だ。」

「何っ!?」

地を這うようなどす黒い声が悠理の耳に届く。
清四郎からそんな声を聞いたのは初めてのことだ。

「ち、違う!清四郎、違うぞ!あたいは無事だかんな!」

「無事?こんな格好で…………どこが無事なんだ!!!」

シーツに包まれた婚約者の涙跡を、清四郎の両眼はしっかりと捉えていた。
ギリギリと歯を食い縛り、サイードの手を振り払う。

「離せ!彼女をこんな目に遭わせて……………八つ裂きにしてやる!」

「落ち着きなさい、セイシロウ。少なくとも決闘は後にして欲しい。ハサナルの父親が死んだのだ。」

「!!」

そこでようやく少しだけ冷静さを取り戻したが、怒りの矛先はハサナルに向けたまま。
悠理をシーツ毎、浚うよう搔き抱くと、二度と離さないとばかりに強く強く抱き締めた。

「ゆうりっ!」

「せいしろ………………遅いじょ。」

「ごめん、悠理。もう、日本に帰ろう。」

「うん、うん…………」

大きく頷き合った後、キス代わりに鼻先をくっつければ、その馴染んだ仕草に互いへの愛しさがこみ上げる。

「こんなにも目を腫らして…………」

「だ……大丈夫だって。」

強がる悠理を再び胸の中に閉じ込め、清四郎は深い溜息を吐いた。

(もしあの男が悠理を犯していたら、僕は確実に犯罪者だったな。もちろん後悔することもないだろうが。)

口に溜まった血と奥歯を吐き出し、切れた唇にそっと触れたハサナル。
サイードから渡されたタオルを憮然とした顔で受け取りながら、二人を見つめる。

「ハサナル、潔く諦めるべきです。」

「何をだ。」

「我が国でも’初恋は実らない’……とよく言うでしょう?」

「…………初恋?」

「違うんですか?どちらにせよ、これは明らかに報われぬ横恋慕だ。貴方ともあろう人が、これ以上無様な姿を相棒わたしに見せないでください。」

「サイード………」

サイードの声は冷静さを失ってはいなかった。
が、その目は懇願するかのように濡れている。

「確かに……比べようもないな。おまえは私の片翼なのだから。」

ハサナルはタオルを放り投げると、何かを吹っ切ったかのように立ち上がった。

その後━━━

ハサナルは一言も発しないまま、用意されたヘリでサイードと共にホテルを立ち去った。
悠理はもちろん一発、いや、四、五発殴りたい気分だったが、父親を亡くした男にそこまでの追い討ちをかけられず、悔しそうに歯噛みする。
情の脆さは彼女の長所でもある。

別れ際、サイードは未だ怒りに震える清四郎に、こう告げた。

「謝罪の言葉で許されることではないと、ハサナルもわかっているはず。彼は彼なりの方法で償うつもりでしょう。だからここはどうか怒りをお納めください。」と。

清四郎は当然その言葉に納得したわけではない。
しかしこれ以上、彼の息がかかったホテルに留まるのも不愉快である為、剣菱の力を借り、都心部にある提携ホテルを急遽手配した。
サイードには残りの荷物を届けるよう指示を出す。
あの屋敷にはもう二度と足を踏み入れたくなかったからだ。

五つ星のそこは、万作や百合子も時々ではあるが利用していて、その令嬢が泊まるとなれば当然の様にスイートが用意される。
二人は疲れた身体を共に大きな浴槽で温めた。
あの妙な香りの所為で、倦怠感が付きまとう。

「明日には日本に帰れますよ。」

「……………うん。」

彼は沈み込む恋人の表情が気になる。

「帰りたくない?」

「帰りたいよ。…………でも、ナディヤにもう一回会いたかったなぁっ………て。」

「ああ………なるほど。」

悠理はよほど気に入ったのだろう。
確かにあの美しき獣は彼女に心を許していたし、悠理もまた魅入られたように寄り添っていた。

だが清四郎はそんな獣にすら嫌悪感を示す。
たとえ小石一つとて、あの男の持ち物に心奪われるのは不愉快だった。
口には出せない本音をかみ砕き、己を律する。
悠理の前で狭量さを露呈させたくはない。
ただでさえ傷ついているのだ。
ここは男として、包容力を見せなくては………

「よく頑張りましたね。」

清四郎は背後から抱き寄せ、湯に濡れた髪を優しく撫でる。
見下ろせばほんのりとピンク色に上気した肌。
所々、赤く擦れているのは、乱暴に触れられた所為だろう。
とても痛々しい。
清四郎は彼がどんな風に触れたのか、詳しくは知らない。
聞きたくもない。
痕が残るほどの本気で悠理を奪おうとした男。
そんな男の獣欲に晒され、彼女はどれほど怖かったことだろう。
コントロール不能な怒りがこみ上げる。
しかし念仏を諳そらんじることで、何とか抑え込んだ。

ポタッ………ポタンッ………

水滴かと思ったそれは、悠理の涙。
華奢な肩が震え出し、清四郎の胸板にまで響く。

「悠理?」

「っ…………っく、ひっ………く、怖かった。怖かった!!怖かったよ!清四郎!!!!」

「!!!」

「何で助けに来てくれないんだろうって、何で側にいないんだろう!って………あたい、ずっとおまえを……おまえだけを呼んでたのに!」

パシャンと水面を叩き、振り返った悠理の目は、真っ赤に滲んでいた。



あの時。
意識が混濁し始めた時。
ハサナルの声がどんどんと遠ざかっていく中で、清四郎は原因が何かを分析しようとしていた。
恐らくは「ケタミン」、それをシャンパングラスに付着させていたのだろう。
脱力感が半端ない。

最近、海外では「デートレイプドラッグ」の売買が横行している。
旅行で羽目を外した女性がよく引っかかる危険な罠だ。
この手の薬は安価で比較的手に入りやすく、女性は簡単に意識を失う為、若者の間でも人気だった。
無味無臭。酒に入れてしまえば解らない。
清四郎はそういった類の物に違いないと確信した。

ようやく意識が戻った時、そこはベッドの上だった。
どこか別の客室であることはすぐに理解出来たが、何故こんなところに?
そこがサイードの部屋だとは知らず警戒していると、怪しげな小瓶を抱えた部屋の主が戻ってきた。

「おや、もうお目覚めですか?」

サイドテーブルにあったコップにそれを垂らし、ペットボトルの水と混ぜる。
それを清四郎に差し出すと、彼は物静かな微笑みを浮かべた。

「ハサナルの戯れで女の餌食になるところでしたよ。あぁ、彼女は追い返しましたからご安心を。まずは中和剤を飲んで、意識をはっきりさせてください。」

そこでようやく目を瞬かせると、朧気ながらも記憶が甦る。
あの酒を飲んだ後、浮遊感が身体を包み、何処か違う場所、そう、明らかにベッドの上へと運ばれた。
決して自分達の部屋ではないと分かっていたが指一本動かない。
意識がどろどろに溶け出す中、記憶にはない甘い香りが漂ってくる。
化粧品の研究の時、ありとあらゆる香りを嗅いできた自分が思い当たらないとは………。
プライドが傷つけられたような気がした。

そして…………

いつの間に現れたのか、ハサナルと同じ褐色の肌をした女が、寄り添うよう近付いてきた。
豊満な身体を押し付け、艶めいた瞳を見せる。

「私、ニホンジンは初めて。」

触れられた部分から広がり始める熱。
麝香と疑ったそれは、しかし明らかに違った成分が含まれていた。
弄ばれ、呆気なく昂ぶる身体は自分でもどうしようもなく、ただただ身を任せている状態だ。

女は巧みに性感帯を責め立てた。
呻くことも出来ず、意思表示も示せない。
まるで人形のような状態なのに、はっきりと解るほど己自身は勃起していた。

彼女は恥じらうことなく衣装を脱ぐ。
男の本能を搔き立てるかのようなボディライン。
そんな見事な肢体が現れ、思わず目だけを逸らした。

(拙い………非常に拙い。)

無理矢理にでも沈静化させようとするが、甘ったるい香りが性欲をどんどんと高めていく。
女のあらゆる部分から同じ香りが漂い、とてもじゃないが逃げられない。
すっかり興奮した瞳。
もしかすると自分も同じ目をしているのだろうか。

(悠理………)

記憶はそこまでだ。

それからサイードが現れるまで夢の中に居た。
記憶にはないが、何か楽しい夢だったようにも感じる。
果たして未遂なのかどうなのか。
サイードの言葉が真実ならば良いのだけれど……。

彼はしばらく横になっていろと言い残し、部屋を後にした。
だが嫌な予感がした為、すぐにベッドから身を起こし、ふらりと立ち上がる。
ぼうっとする頭を二、三度振り見下ろせば、女に脱がされたはずのシャツはきちんと元通りボタンがかけられていた。

「悠理、どこだ……?」



「せいしろ?」

痛々しい涙目。
こんな風に泣かせてしまうのは、決してあいつのせいだけじゃない。

あの時、真っ赤に目を腫らした悠理が裸でシーツにくるまっているのを見て、強大過ぎる怒りから頭が破裂すると思った。
今までに感じたことのない激情が、武道を嗜む者としての理性も常識も規律も全てを押し流す。

━━━殺してやる!!

明確な殺意。
そんなものを抱えたまま拳を振るったことは初めてだ。

奪われた!
傷つけられた!
裏切られた!
騙された!

暴れ狂う負の感情が菊正宗清四郎という理性ある男を取り込んでいく。

本気で殺してもいいと感じた。
サイードさえ出しゃばらなければ━━━
悠理の言葉がなければ、きっと簡単にあの世へと送り届ることが出来ただろうに。

「悪かった、本当に悪かった……僕が未熟でした。」

彼女の瞳に情けない男が映る。
決して完璧ではない男の泣き顔が。

「せぇしろぉ!!!!」

震えながらも縋り付いてくる悠理は、今、一体どんな感情を抱いているのか。

「あたい、こんなこと言うつもりじゃなかったのに…………ホッとしちゃって……あたいこそ、ごめん!!」

「ゆうり……」

「せぇしろ…………」

肌が隙間無く密着し、互いの名を何度となく呼び合うけれど、二人はその夜、繋がることはなかった。
温くなっていくお湯の中で、ただただ涙を流し続けていた。




日本に帰国して十日後。
二人は剣菱家に届けられた大きな荷物に、これ以上無いほど目を見開く。
それはあの美しき獣、ナディヤだった。

「う、うそ………………!」

「…………正気ですか、あの男。」

添えられた手紙はサイードの手で書かれていた。

「これがハサナルから貴女へ、心からの謝罪です。末永く大切に可愛がってやってください。」

「清四郎!どうしよ!アケミとサユリ、食べられちゃうかな?」

「…………ナディヤは優秀な獣です。おまえの手から与える物しか口にしないでしょう。」

「マジで!?やったぁ!!!!」

複雑な心境の恋人をよそに、彼女は大喜びでナディアの顔にキスをする。
ナディアもまた長旅の疲れなど感じさせない元気さで、悠理の顔に頬擦りをした。

「誰よりもこの獣がライバルですな。」

結婚を控えた清四郎の呟きは重い。

そして……………………

この三週間後。

26歳を迎えたばかりの‘ハサナル・アジム’はヘリコプターの事故で他界する。
原因は不明。

砂漠の王子の急な訃報に、多くの女性が涙したという。

<完>