本編

「………んっ………何だ、この甘ったるい匂い。」

自慢の鼻がヒクヒクと探る。
ムスクにも似たその香りは、普段嗅ぐ物よりも数倍の甘さが含まれていた。
目を覚まし、起こしたはずの身体が再びシーツへと沈み込む。

痺れる手足。
気怠い頭。
重力に逆らえない?
そう感じた悠理は、ぽそり呟いた。

「あり?力入んないじょ?」

「無理に起きなくてもいい。そのままで。」

不意に声をかけられたことで、ようやくそこにハサナルが居ると気付く。
目だけを動かせば、彼はベッドの側にある一人掛けソファにゆったりと腰掛け、琥珀色の瞳を輝かせている。

(なんでこの部屋にハサナルが居るんだ?清四郎は?)

しかし次の言葉で、そんな疑問も遥か彼方へと吹き飛んでしまった。

「この匂いはね、ある動物の分泌液から捻出した、世界でも珍しい貴重な媚薬なんだ。悪くない香りだろう?」

「び、やく?」

すぐに漢字へと変換されない出来の悪い脳みそでも、その響きにはもちろん覚えがある。
’媚薬’・・・・それは、催淫剤。
大昔、清四郎がむっつりスケベだと判明したきっかけの、その品だ。

「かれこれ一時間は焚いているから、効き目は充分だと思うが?」

ほら、と指差された先は悠理の下腹部。
薄い衣装が両脚の付け根に食い込み、片方の手が無意識にそこを押さえつけていた。

「え…………あ、なに?」

自分でもはっきりと解る痴態に、慌てて手を離す。

「よほど良い夢を見ていたんだろう。もう充分濡れているはずだ。」

そう言ってソファから立ち上がったハサナルは、足音一つ立てずベッドへと近寄ってくる。
それはまさに黒豹を思い起こさせるしなやかさ。
指先まで行き届いた神経と滑らかに床を擦る足取り。
爛々と輝く獣じみた瞳は捕食者のそれだ。

「わ、わけわかんない。なに?」

脱力した体をそのままに、首だけを左右に振り続ける悠理。

彼女の本能が叫ぶ。
今すぐ逃げろ…………と。

しかしどれほど脳が指令を下しても、四肢は言うことを聞かない。

「や…………せぇしろ…………」

呼び慣れたその名に、伸びてきた褐色の手が一瞬だけ止まる。

「彼も今頃、他の女と夢の中だ。君と同じ香りを嗅ぎながら、ね。」

「!!」

瞬間、悠理の息が止まる。

この男は今、何と言った?

目を大きく見開き、訴えるよう答えを求めるが、ハサナルの動き始めた手はとうとう悠理の肌に触れた。
先ほどの言葉は真実なのだろう。
これは間違いなく強力な媚薬。
自由にならない身体は、指が触れただけでもぞくりと粟立つ。

(な、なに、これ……!)

脚の間に挟った薄い布がしっとりと濡れていることは、わざわざ見なくとも明らかだった。
熱い粘液が追い打ちをかけるように、どろりと溢れ出した事も。

「あ………ぁ、せぇしろ……たすけ………!」

しかしその叫びは最後まで続かない。
二本の長い指が悠理の唇から侵入し、熱を帯びた舌を強引に引っ張り出したから。

「んっぐ……!!」

「普通の女みたいに煩く騒ぐのは止めろ。興ざめだ。今夜からおまえは私のもの。彼とは縁がなかったと諦めるんだ。」

言葉が紡げない状況に混乱する。
しかしハサナルの少し乾いた指が舌の側面を引っ掻くよう触れると、悠理はその強烈な快感にボタボタと涎を流し始めた。

「んっ…………はぁ…………」

「ふ……ん。感度がいいな。彼にはずいぶん可愛がられていたと見える。だがこれからは私がおまえの全てを奪う男だ。」

不遜な顔で鼻を鳴らすハサナル。
その直後、噛みつくようなキスが悠理を襲う。

(やだ!!やだ!!やだ!!!!!)

涙の懇願はもちろん聞き入れられず、馴染まぬ唇が、舌が、彼女をパニックへと突き落とす。
与えられた衣装は無惨にも引き裂かれ、悠理の裸体はハサナルの目に呆気なく晒された。
まだまだ発育途中。
しかしここまできめ細やかな肌は、ハサナルが今まで抱いてきた女には無かったものだ。

「なるほど……悪くない。」

キスの余韻に舌なめずりする男は、満足気に頷く。

震えながらも交差させた腕が、何の役にも立たないことを、悠理は知っていた。
そう分かってはいても、解く事が出来ない。
僅かな力を振り絞り、ぎゅっと胸を隠す。

どれほど悪態を吐いても、この男には通用しないだろう。

それは悠理の勘だった。
今まで対峙してきたどんな男よりも、圧倒的な支配力を持つハサナル。
絶対的な権力者の双眼が、悠理の全てを曝こうとしている。

たとえ財閥令嬢であろうとも、一声で世界の経済を揺るがす力を持つ彼に、怖いものは何もない。
それ以上に、ハサナルには自信があった。
清四郎ではなく、自分に溺れさせるという男の自信が…………。

彼は手を伸ばし、再び悠理の身体を撫で回す。
それは彼女がナディヤにしたような行為。
滑らかな感触をその手に焼き付けるかのような愛撫。

「さわんな!」

叫ぶ悠理に男は頓着しない。

「おまえは私の花嫁になる。明日には純白の衣装を纏い、神の御前で誓いを立てるんだ。」

「は??」

気が狂ったとしか思えない発言に、悠理は本気で恐怖を感じた。

━━━━清四郎!何処にいるんだよ!こいつおかしいぞ!!

極限まで震え出す身体を、ハサナルは褐色の指でじっくりと触れてゆく。

(感じたくなんかないのに!)

悠理の中からぞくぞくとした快感が生まれ、しとどに濡れる太腿が歓喜に捩れる。

「なんで……こんなことするんだ!?おまえ……清四郎と……」

「あぁ、彼は友達だ。だからきっと恋人を譲り渡すことも、快く納得してくれるはずだ。」

目眩がした。
天地がひっくり返るほど激しい目眩が。

「真実を言えば、私は彼も手放したくはない。サイードには及ばないが、いつか片腕となって、私の為に働いて欲しいと願っている。だから………………」

ハサナルは悠理の耳朶を囓り、密やかに告げた。
そんな刺激にもドロリと蜜が溢れる。

「彼には、極上の女を用意しておいたよ。きっと彼女の魅力には抗えない。今頃はお互い、獣のように愛し合っているはずだ。これからの私たちのように、ね。」

━━━━愛し合ってる?誰と誰が?

そんな言葉は、彼女の沸騰するような怒りを誘い出す。
腹の底から沸き上がる憤りを抑えられるはずもない。
悠理は迸る感情をそのまま舌の上に乗せた。

「清四郎が他の女と愛し合う?んなわけあるか!!あいつはあたいしか好きになれない男なんだ。あたいにしか溺れない男なんだ!どれだけ変なもん使っても、あいつが他の女に惑わされることなんか絶対にない!あたいだって………」

息が切れるのも香りのせいか?

「あたいだって、あいつにしか溺れない。どんな目に遭っても、おまえの花嫁になんてならないからな!!」

ギラリ
整った顔立ちの男が見せる強烈な不機嫌さに、しかし悠理は真っ向から立ち向かった。
鋭い目力は母親譲り。
負けてなどなるものか。

しかしハサナルは、ふ、とその表情を和らげ、触れていた手を離した。
呼び起こされた官能を悠理は必死で閉じ込めようとする。
しかし……………

「面白い。どうやら、本気でモノにしたくなってきた。良いだろう、試してみるがいい。私に抱かれ、それでも彼を忘れることが出来なかったら、その時は潔く諦めるとしよう。」

「!!!」

「いいな?本気でおまえの心を壊すぞ?私をここまで揺るがしたのだ。覚悟はしてもらう。」

砕け散った氷の塊に代わって、彼の胸に生まれたのは情熱の炎。
ギラギラとした男の欲望を隠すことなく、そして全開の色気を見せつけながら、妖艶に微笑む。

まるで別人のようなハサナルに悠理の本能が怯えた。

「や、や、やだ!!近寄んな!」

「私を本気にさせた礼だ。たっぷりと愛してやる。」

━━━━清四郎!!!

夢だ。
これは悪夢だ。

悠理は願った。

目が覚めますように。
今すぐ!!!

いつもならこの辺りで必ず助けに来るはずの男。
なのにその気配を微塵も感じない。

(清四郎!!!!)

悠理に絶望を与えようとする獣は、その美しい顔で再び舌なめずりをし、大きな身体で彼女に覆い被さった。

悠理はこれが夢だと思いたかった。
こんな悪夢から早く目覚めたかった。
どれほど彼の名を呼び続けても、清四郎が姿を現さない世界など、きっと夢に決まっている。
そう思い込みたかった。

先程から鼻につく香りは、悠理の意識を朧気なものに変え、気怠さばかりが付き纏う。
皮膚感覚は鋭いのに、反面、倦怠感は凄まじい。
触れられた場所から次々と新たな快感が生まれては、消えて行く。

愛しい男に与えられた感触が、全て塗り替えられる不快感。
嗅ぎ慣れぬ牡の匂いに蹂躙される絶望感。
そんな二つの嫌悪を抱きながらも、身体が心を裏切ろうとしている現実に、悠理はひどく狼狽した。

「気持ちいいか?」

彼女を撫で回す男は宣言通り、悠理を本気で落とそうとしている。
欲した物を全て手に入れてきた支配者の傲慢。
リスクなど彼の前では塵に等しい。

自ら進んで女を手にいれようとしたことは、一度も無かった。
その甘いルックスと彼に付随する価値。
若き頃から性欲に悩まされることもなく、他者が羨む恵まれた生活を送ってきた。
だがいつも身体の中心には、冷えた大きな塊が存在し、それが消え去ることはなかった。
マリアが忽然と姿を消した時、その塊が女への蔑みが生み出した一つの絶望だと知る。

他人は信用しない。
特に女は。

人間など欲にかられた愚かな生き物。
ならばその欲望を満たす為、多少我儘に生きてもいいのではないか?

金を持ち、力を得、他の追随を許さぬ存在になり、思うがままこの世を味わい尽くしてやろう。
そうすれば…………
そうすれば、この喪失感から少しは救われるかもしれない。
この冷えた塊も、厭わしく思わなくなるかもしれない。

ハサナルはそんな期待を抱きながら、暮らしてきた。
しかし、どれほどの権力を手に入れても、莫大な財を成しても、彼の胸は冷えたまま。
ようやく僅かな温かさを感じた相手は、他の男の物だという。

ハサナルは悠理が持つ不思議な魅力に心惹かれていた。
太陽の輝きとそのパワー。
同居する幼さは、自然体な彼女に備わった武器でもある。
向こう見ずな行動と強さは、あの男が側にいることでより一層発揮される。
彼に成り代わりたい。
ハサナルはそう思った。
彼女をもっと変えてみたい。
自らの手で。
そして彼女に変えられたい。
新たな扉を開くために。

しかし、ハサナルは恋を知らない。
愛を告げることを知らない。
奪うことでしか支配出来ない。

心は逸る。

(あの屈託のない笑顔を、自分の為だけに見せろ。)

そんな我儘とも言える執着が、ハサナルを突き動かし、悠理を傷つける。
それはあまりにも不器用すぎる彼の初恋だった。

「ハサナル、やめ………」

抵抗する間もないほど、悠理の口腔内が犯される。
経験値豊富な男のキスは、頭の芯に痺れるような快感を与え、ただでさえ敏感になった身体が次の何かを求めようとする。

━━━━助けて、清四郎!あたい犯されちゃうよぉ!!

離れた唇から透明の糸が垂れ、彼はそれを旨そうに舌先で掬う。
ゾッとする光景。
官能的に揺らめく琥珀色の瞳は、今はもう美しいとは感じない。

息をきらし、それでも睨み付ける悠理にハサナルの征服欲が高まる。

「良い顔だ。初めてナディヤと出会った時を思い出す。彼女も相当気位の高い獣で、手懐けるのに随分と苦労した。」

悠理は重いと感じる腕を持ち上げ、手の甲で唇を拭う。
これ以上好き勝手されることは許せない。
だが、甘ったるい香りに囚われた身体で一体何が出来るというのだろう。

ハサナルの指が硬く尖った果実に触れる。

「ひぁ……ん!」

「普段はあんなにも子供っぽいくせに、その声は一体どこから出ているんだ?」

「お、おまえなんかに聞かせるためじゃない……」

「なるほど。彼だけのものだと言いたいんだな?そんなものは錯覚に過ぎない。こうして私が快感を与え続けたら、おまえはきっと私に従い、虜になる。」

「なるか!!だいたい、こんな変なもん使いやがって…………卑怯だと思わないのか?男のくせに……」

「これも私の実力だ。どんな手段を用いても欲しいものを手にする。今までもこれからもそのスタンスは変わらない。」

通じない言葉。
一方通行の怒り。
意に反して零れる愛液が、悠理を悲観的な考えへと追い詰めていく。

それでも…………
それでも、最後の力を振り絞り、彼女は意思を強く持とうとした。

貞操観念の問題だけではない。
この傲慢な男に、剣菱悠理たる自分が思うように扱われる事が許せなかったからだ。
彼女もまたそういったプライドを培ってきた人間である。

「なら…………あたいだって、どんな手を使っても思い知らせてやる。」

悠理は唯一動く頭を思いっきり引くと、ハサナルのおでこ目がけ、躊躇いなくそれをぶつけた。

ゴチン

耳を塞ぎたくなるような音が響いたが、喧嘩慣れした彼女にとって屁でもない。
じわじわと広がる痛みが、たわんでいた理性を呼び戻し、徐々に身体が思い通りに動き始めた。
もちろんいつものそれとは比べものにならないが……。

額を覆いもんどりを打つハサナル。
そんな姿を横目に、悠理は裸体のまま部屋から出ようと試みる。
服を選び、袖を通している余裕は少しもなかった。
扉を開け、痺れが残ったままの足で走り出す。
ヴィラタイプのホテルであるため、回廊から中庭が臨める。
生い茂ったヤシの木と、湧き出る泉のような噴水。
仄かな光があちこちに灯され、そこから見上げれば満天の星空が目を楽しませてくれることだろう。

しかし今の悠理はそれどころではない。

━━━清四郎!どこ?どこだ!?

ハサナルの言葉を信じたくない。
今すぐ彼の逞しい胸に飛び込んで、安堵の涙を流したかった。

今、自分が裸だとか、涙を流しながら走っているとか、そんなのはもうどうでもいい。
清四郎に会いたい。
清四郎だけに………!

しかし━━
中庭を横切った瞬間、悠理を背後から捕獲したのはハナサルによく似た男だった。