本編

出張先のニューヨーク。
この土地の冬は寒く、交通はすぐに麻痺してしまう。
凍てついた道路で、先程から黄色いタクシーが右往左往している。
客の苛立ちがここからでも容易に想像できるほど、立ち往生していた。

オイルヒーターの側で乾かしたバスローブはほんのりと暖かく、清四郎は腕を通すとホッと一息吐く。
先程まで外界に居たのだ。
シャワーを浴びたくらいでは、身体の冷えは拭いされない。

一人にしては大きいベッド。
そこに腰掛け、携帯電話を手に取る。
寝酒をするにはまだ早く、読みかけの本だけがサイドテーブルに置かれている。

――あちらは早朝か。

時差への失望を感じながら指を滑らせ一つの窓を開くと、まるで向日葵を彷彿とさせるような笑顔が飛び込んでくる。
いつも、この笑顔が自分の活力となり、そして心の支えでもあった。
清四郎はそっと頬を撫でるよう、画面をなぞる。

悠理――
おまえが側にいないことが、こんなにも心に沁むなんて――。

結婚して早五年。
いつもなら必ずついてくるはずの彼女が、今回は野梨子の出産に付き合うと言い張り、来なかった。
初産である野梨子を思い遣るその心を尊重し、勿論賛同したのだが、果たして彼女に出来ることはあるのだろうか。
さらにこの時期、スウェーデンで過ごしているはずの可憐も帰国するらしい。
既に二人の子を持つ可憐は、野梨子にとってさぞや頼もしく感じることだろう。

野梨子は大学時代に大きな失恋をした。
相手は無論、僕ではない。
大学の准教授だ。
少々アウトローに感じる性格が、お嬢様心を擽ったらしい。
二度目の恋へと、潔く飛び込んでいった。
しかし半年後、その想いは木っ端微塵に砕け散る。
彼は生まれ故郷に許嫁(いいなずけ)がいたのだ。
それを知った野梨子は更なる男性不信に陥り、僕をもってしても手の施しようがなかった。

そんな野梨子を救ったのが魅録だ。
厳しくも優しい、そして不器用な愛情を与え続けた彼は、いつしか野梨子の心を射止めていた。
在学中に婚約し、卒業後すぐに結婚式を挙げることとなる。

そして同じ頃、僕は悠理に告白される。

「あたい、野梨子と違って馬鹿で女らしくないけど、ずっとおまえの側に居たいんだ。」

頬を染めたその姿。
彼女が女なんだと、改めて認識した瞬間だった。

可愛いと素直に思えた。
こんな姿、幽霊に乗っ取られた時くらいしか目にすることはないだろう。

―――いや、悠理は昔から美人で可愛いが、その性格が災いしてそれ相応にしか扱えなかったのだ。

気付けば「側に居ろ」と答えていた。
「僕だけの側に居ろ」・・と。

決して寂しかったわけではない。
だがこの先の未来、彼女が隣に居ることを想像すれば、それはあまりにもしっくりきた。

恋よりも何よりも、僕たちは深い絆を持ち合わせている。
それに運命を任せてみるのも悪くないじゃないか・・・そう思った。

悠理を受け入れた後、当然魅録達の後を追うように結婚話が浮上した。
色々相談した結果、やはり剣菱で仕事をすることになり、卒業後の留学を考えていた僕は進路を大幅に修正する。

悠理は「行きたいならいけばいいだろ?あたいも、ついてくし!」と笑って勧めてくれたが、僕は実践的に経営を学ぶ道を選んだ。
留学などいつでも出来る。
今はこの若い頭で色んな事を吸収し、悠理を守る立場に立たなくては、と覚悟したのだ。

婿入りした僕への風当たりはさほど悪くもなかったが、それは万作・豊作親子の厳しい監視のおかげだ。

実は―――
僕たちが結婚した後、義兄である豊作氏は、一生独身でいると宣言してしまった。
跡継ぎ問題で余計な火種を作りたくないという理由がそれだが、生真面目な彼らしい判断だと思う。
その代わり、アメリカ支社を丸々任せてほしいとの望みに、万作は大きく頷いた。
そうして彼はここニューヨークに渡り、五年もの間、特に浮いた話もなく真面目に過ごしている。
仕事に置いても評判は高く、大胆な発想はないにしろ、緻密さと丁寧さでは多大な評価を受けていた。

「兄ちゃんは、清四郎の邪魔にならないように、アメリカを選んだんだな。」

寂しそうに呟いた悠理を抱き締め、彼の心に報いようと誓う。
長男と婿養子が、共に狭き日本で働いていると、必ずといっていいほど大きな派閥が生まれる。
それは剣菱にとって褒められた事態ではないのだから、彼の判断はやはり正しいと言えよう。

結婚当初、悠理は子供を欲しがらなかった。

「まだ、早いよ。」

と照れたように告げ、「なぜ?」と聞けば、「あたい、まだ母親になりたくないもん。」と子供の様に拗ねる。

僕としても彼女が20代半ばで、『母親業』をこなせるとは到底思えず、子作りに関しては後回しにしていた。
その代わり毎晩のように戯れ、彼女を成熟させることに力を注ぐ。

愛情を与えれば与えるほど、悠理は美しく変貌する。
僕の「男としての能力」を誇示すればするほど、女としての悦びを感じ取っていくのだ。

だが、脱皮した悠理は、あまりにも変化しすぎた。
夫の欲目などではない。
こう言っては何だが、その辺の女ではきっと太刀打ち出来ないだろう。

元々の美貌とスタイルに拍車がかかり、柔らかい肌はもっちりとした水分を湛え、細い腰から流れる脚のラインは、芸術性を感じるほど美しい。
その唯一無二の身体を自分が育てあげたのだ、と思えば自尊心が膨らみ、何よりも大いなる満足感を得ることが出来る。

それと共に、少しでも離れたくないという我儘が溢れ出すのだ―――。

とは故、今回ばかりは仕方ない。
心細いであろう野梨子の側を選んだ悠理は正しいと思える。

あと三日ほどで予定日を迎えるはずだ。
初産のため、多少は遅れるだろうが・・・。

うちの病院で無事出産した暁には、皆でまた揃うことになるだろう。
互いの忙しさなど感じさせず、再び集まることが出来る僕たちは、やはりどこまでいっても特別な関係なのだ。

可憐と美童の二人の子、そして今回産まれる野梨子達の子。
それに加え、未来に生まれるであろう僕達の子。
縁(えにし)はこうして繋がって行く。

いつまでも優しく包み込む友情。
それは永遠(とわ)に温かく存在するのだ。