「はぁ~・・やっぱり主さんは最高。」
女は赤い舌でペロリと唇を舐め上げ、満足そうに口端を上げた。
いつしか夕陽は落ち、部屋は薄闇に包まれていた。
普段は清浄な空気が漂う寝室に、微かに血の香りが零れる。
むわっと澱んだ空気がこもる中、部屋の主は億劫そうに立ち上がると、大きく窓を開け放つ。
深い夜を思わせるひんやりとした風が、艶かしい空気を一掃するかのように吹き抜けていった。
彼の見事なまでに引き締まった裸体は、一欠片の布すら被(おお)ってはいない。
気怠げな腰とほんのり乱れた髪。
情事後を思わせる退廃的な雰囲気を漂わせ、清四郎は女を振り返った。
「全く…………。吸い過ぎですよ。身体が重く感じます。」
「あらん、主さんの精気がいつもより濃厚だったから………つい。」
チラリ見せたその舌は、尋常ではないほど赤く染まっている。
申し訳なさそうな声と、それに相反した表情。
彼女の本音は後者にこそある。
「日中、支障が出るほど吸うのは契約違反ですよ。目眩が酷くて困ります。」
「ふふ。その辺はコントロールしてみるかの。わっちとて主さんに倒れられてもらっちゃ困る。」
‘だけど’━━
2016-06-15-11-07-09
そう言いながら女は長い髪を掻き上げ、ベッドに横たわる。
裸だったはずの豊満な体は、いつしか深紅のドレスに包まれていた。
清四郎はバスローブの紐を締めた後、一人掛けソファにどさりと身を埋め、不機嫌そうに女を見た。
「なんです?」
「主さんはなかなかに複雑な性格じゃの?これほどの欲望を隠しながら生活するのは難しかろ?」
「余計な世話ですよ。」
「ふふ。主さんに見せる‘幻想(ゆめ)’はどうやら上手くいっているようじゃな。回を追う毎に精力が漲っておる。」
それを聞いた直後、清四郎の眉間に深い溝が刻まれる。
悔しいことに、女の指摘は図星だった。
「それほど好いておるのなら、とっとと告白すれば良かろう?見かけよりも随分と弱気な男じゃの?」
「そう簡単に上手くいく相手ではありませんよ。」
水差しに手を伸ばしながら苦しげに吐き捨てる男を、黒髪の女は興味深げに見つめる。
「ふむ。女子(おなご)にも幻想を見せることは可能じゃが、どうする?主さんに気持ちを向かせる手伝いでもしてやろうか?」
「そんな必要はありません。貴女は僕の血が欲しいだけでしょう?それに他の人間には手を出さない約束だ。」
女は長い爪に舌を這わし、にんまりと笑う。
その妖艶な微笑みはゾッとするほどの美しさで、清四郎は思わず目を逸らした。
「主さんと出会えたこと、わっちにとってはとてもラッキーじゃ。今時の男にしては珍しく健康な血が流れておるからの。食生活も良い。薬も飲まぬし、タバコも吸わぬ。病の欠片すら見当たらん。それに………」
瞬きほどの短い時間で清四郎の隣へと移動した女は、首元の傷を爪で引っ掻く。
清四郎はウッと小さく呻いた。
血が固まった二つの赤い痕。
笑顔を見せる女の八重歯にぴったりと合わさる形だ。
「この有り余った性欲こそ、何よりも必要なエネルギーじゃ。」
血管伝いに首筋を舐め上げる舌は異様に長い。
だが清四郎は不快感を露にしながらも、されるがままで耐えていた。
そこへ。
トントン………
「ぼっちゃま。いらっしゃいますか?」
家政婦の声に一瞬でシーツの中へ身を隠す女。
清四郎はバスローブ姿のままソファを立ち、部屋の扉を開ける。
「どうかしましたか?」
「先程、剣菱のお嬢様がいらっしゃって、たくさんのケーキを頂いたんですが…………あらま、お会いにならなかったんですか?」
「悠理が?」
「階段を上って行かれたからてっきりぼっちゃまの部屋へ入られたのかと………。急用とかですぐにお帰りになりましたけれど。」
その瞬間、視界が暗転した。
明晰な頭脳を持つ男は、一瞬にして最悪の事態を脳裏に思い浮かべる。
━━━━悠理に見られた!!
そう確信した直後、慌てて部屋の扉を閉め、黒髪の魔女を呼んだ。
「一体どういうことです!!」
「おかしいの。強力な結界を張ってあったんじゃぞ?普通の人間ならば見えぬはず。」
「悠理が…………もしかすると悠理がこの部屋に………ああ、そういえば彼女は普通じゃなかった!僕たちの姿を見られたかもしれない!」
友人の霊感の強さを思い出し、頭を掻き毟る男。
それを、冷静に見つめる女。
「わっちは食事をしていただけじゃ。何も疚しいことはしておらんぞ?」
「充分、疚しいことですよ!!誤解されたかもしれない!貴女が僕に幻想を見せるとき、その姿は人間の女性なんでしょう!?端から見れば性行為そのものですよ!」
「確かにその通りじゃが、繋がってはおらんぞ?」
ケロリと答える女の首を、清四郎は掻き切ってやりたくなった。
「くそっ!」
「まだ見られたとは限らんじゃろ?」
そんな曖昧な言葉を信用するわけにはいかない。
かといって、悠理になんと尋ねればいいのだ。
清四郎のここ最近の不調。
それはこの淫魔との関係だった。
きっかけとなったのは父親の病院。
そこに貧血と衰弱で一人の女が運び込まれる。
父親に呼び出されていた清四郎が、運悪く彼女に目を付けられたことから全ては始まったのだ。
入院を余儀なくされた女は、廊下を歩く清四郎の匂いに一瞬で魅せられ、極上の獲物と定める。
淫魔………もしくは夢魔。
サキュバスとも言う。
彼女は既に数百年生きる魔女だ。
名を「凛りん」と言ったが、それはもちろん偽名だ。
数週間、まともな食事にありつけなかった彼女は、彼の優れた精気を摂取するため、残り僅かな魔力で清四郎を捕縛する。
そうなると、どれほど屈強な人間でも身動き出来なくなり、自然と思考が微睡んでいくのだ。
歯を立てられた首元からは夥しい量の血液が吸い込まれ、清四郎は一瞬で昏倒してしまった。
目が覚めたとき、そこは見慣れた病室。
きっと点滴の処置が施されたのだろう。
腕には四角く小さなテープが貼ってあった。
そして、視線を泳がせると、ベッドの端には黒髪の妖しげな女が座っている。
脱力感に見舞われたまま、それでも身体を起こし、相手を見極めようと目を細める清四郎。
そこで、彼女の姿が徐々に変化していく様を目の当たりにした。
「ゆ、ゆうり?」
「ほう・・・・それが主の恋しい女の名かえ?」
しかし幻は一瞬で消え去り、長い黒髪の女へと戻る。
口元には満足そうな笑み。
そして大きな瞳は深紅の光を宿していた。
「わっちは凛。見ての通り魔族じゃ。」
見ての通りと言われても・・・・・・
今まで悪霊に出会ったことは何度もあるが、さすがに魔物は初めてだ。
清四郎は乾いた唇で尋ねる。
「僕に一体何を・・・・?」
「主さんの血のお陰ですっかり回復出来たぞ。礼を言う。」
「血・・・・?」
熱くなった首元には鈍い痛みが広がる。
敏い清四郎はこれが噂の「吸血鬼」か、と目を剥いたが、彼女は予想外の事を告げた。
「わっちは夢魔。相手の望む夢を見せ、膨らんだ精気を奪う魔族じゃ。今回はそれどころではなかった故、夢も見せずに貪ってしもうた。堪忍しておくれ?」
「夢魔、ですか。」
多くの知識に長けた清四郎はもちろんその存在を知っている。
現実かどうかはともかく、彼女の生体には直ぐに興味が湧いた。
詳しく聞けば、「凛」と名乗る女は推定400歳。
江戸時代初期。
まだ鎖国が成されていない日本へ、ポルトガル人の宣教師に連れられやって来たという。
母国では「魔女」として聖職者に捕らえられていたが、火あぶりの刑に処される直前、その善ある宣教師が救い出したらしい。
そして日本行きの船に乗せ、新たな人生を歩むよう説得したのだ。
とはいえ、夢魔の食事は「男の精気」。
それだけは変わらない。
宣教師と別れた彼女は「廓」という存在を知り、そこで働くことにした。
姿形などどうとでも変えられる為、凛は美しい黒髪を持つ若い少女に変身する。
自ら身売りに来る女は少ない。
言葉が分からない為、口もきけなかった。
置屋の主人はさすがに怪しんだが、その美貌は何よりも価値がある。
こうして低位の遊女となった凛は、比較的容易に男の精気を手に入れることが出来たのだ。
日本が鎖国に突入したのはそれから僅か五年後。
恩人である宣教師は母国へと戻り、一人きりとなった凛は姿を変えながら置屋を転々とした。
精力の有り余った男達に、泡沫の夢を見せる。
いつしか凛は身も心も「遊女」に染まっていった。
話を聞き終えた清四郎は、現時点まで無事生き延びてきた凛に心から感心した。
「それで?僕の精気は・・・それほど美味しいんですか?」
「わっちの嗅覚は鋭くての。最近では健康な男は極々稀じゃ。主さんはその点、見事と言うしかあるまい。」
「何故血液を?僕が知る限り、淫魔はその………精液を吸い取るはずでは?」
言葉を濁そうとした清四郎に、凛はクスリと笑って見せた。
「輸血が出来ない昔はそうしておったがの。今はちょっと吸い過ぎたとて、病院に運ばれれば助かるであろう?」
「ほう・・・・それで何とかなるんですか?」
「たまにあの世へ行く者もおったが、それももう、随分昔の話じゃ・・・。」
徐々に回復してきた清四郎は、ゆっくり立ち上がると「これからどうするんです?」と尋ねた。
「身の上を明かした男は主さんで三人目。暫くは付き合ってもらおうかの。たっぷりと礼はするほどに・・・」
「礼?」
女はにやりと笑うと、先ほどの様に姿を変化させていく。
それは清四郎だけに通じる魔力。
清四郎の目だけに映る幻だ。
「悠理・・・・・」
「こうして主さんの想う女に変わって、夜な夜な楽しませてやろう。」
「!!!」
「どんな淫らな願望も全て叶う。どうじゃ?悪くない話じゃろう?」
最初は首を横に振っていた清四郎。
しかし、どれほだ強固な自制心を持っていたとしても、目の前に立つ恋しい女の裸体を、最後まで振り払うことは出来なかった。
「ああ・・・・悠理・・・・・」
「そう、存分に味わえば良い。」
こうして男は欲望の海へと、呆気なく堕ちていったのだ。