泣き腫らした顔は、自分でもうんざりするほど不細工だった。
悠理は自室の洗面所で涙を流し去り、無理矢理口角を持ち上げる。
恋を強く自覚したと同時に失恋。
胸が張り裂けるほどの辛い痛み。
しかし、いつまでも泣くのは性に合わない。
この恋に見切りをつけるにしても、自覚した想いは激しく、むしろどうにかしてあの女から奪い取れないかと画策する。
それは、欲しいものを確実に手に入れてきた彼女だからこその選択。
泣いて諦めるなんて、自分らしくないじゃないか。
「そりゃ、あの女より胸はちっちゃいけどさ。髪も短いし?腰も貧相だし、色も白くないし?でも……」
━━━━でも、清四郎はあたいのことを憎からず思ってるって、信じてたのにな。
頻繁に交わる視線。
何かにつけ子供のように扱われながらも、優しい眼差しと温かみのある声で見守られていた。
ここ最近では、自分が清四郎にとって特別な存在であると、確信的ではないにしろ自信があったはずのに。
━━━あれは勝手な思い込みだったのか?もしかして、あたいの一人よがり?
ピシャ!
頬を叩き、気合いを入れる。
「かといって、このまま終わらせたくないぞ!」
初めての恋。
ここはやはり、体当たりして砕け散りたい。
友達に戻れる努力くらい、その後からいくらでもしてやる!
朝の光に後押しされた悠理の決意は固く、諦めきれない恋への情熱は再び燃え上がった。
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聖プレジデント学園の朝。
清々しい挨拶が交わされる中、清四郎の表情はとことん暗かった。
いつも肩を並べ歩く野梨子が、五歩下がって後を行く。
━━━一体どうしたのかしら?お皿を割った時よりひどいですわ。
幼馴染みとして、友人として。
誰よりも清四郎のことを心配してきた彼女は、ここ最近の顔色の悪さを異様に感じていた。
━━━やはり病気なのかしら?でも、何度聞いても否定されるし、それ以上踏み込むなと言わんばかり。
でも、今朝ほど酷い顔色は見たことありませんわ。
下駄箱で靴を履き替えた後、当然の様に部室へ向かうと思いきや、彼は真っ直ぐに自分の教室へと足を進めた。
「清四郎?」
「……あぁ、済まない。少し用があって・・・今日は部室に顔を出さないつもりです。」
出さない?いや、出せないのだ。
真意を探ろうとする野梨子から顔を背け、清四郎はその広い背中を見せた。
悠理には会えない。
会いたくない。
あんなにも穢らわしい行為を目にしたのだ。
きっと幻滅したことだろう。
釈明するにも何を話せば良いのか、全く思い浮かばない。
━━━おまえの幻を夜毎、汚し尽くしていました。
そんな告白をすれば、本気で嫌われること間違い無しだ。
自ずと出る溜息は深い。
寂寥感漂う幼馴染みの後ろ姿を、佇む野梨子はいつまでも見送っていた。
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「なんだ?その面。」
教室に入るなり、魅録は悠理の顔に目を留める。
真っ赤に腫れた目蓋。
頬には擦ったような跡がありありと見てとれる。
「おっす、魅録。夕べちょっと泣けるDVD観ちゃってさ!へへ、ぶっさいくだろ?」
そんな誤魔化しが、人間観察に長けた彼に通用するはずもない。
目を細め、隠された事実を暴こうと悠理の前席に腰かけた魅録は、彼女の乱れた前髪を掻き上げ、その小さな顔を覗き込んだ。
「俺にも言えない悩みか?」
「な、悩みってなんだよ!」
「ばぁか!何年付き合ってると思ってんだ。おまえのその顔……尋常じゃないぞ。」
「ひでぇ言い草!」
プイとそっぽを向いた悠理だったが、内心、魅録の観察眼に舌を巻いていた。
「…………ほんとだよ。悲しい映画だったんだ。あんなの………もう見たくない。」
あんな清四郎見たくない。
切ない声で女を求めて、喘ぐ姿なんて………知りたくなかった。
またしてもマイナス思考に陥り始めた悠理を、魅録の太い指が小突く。
「そう言うことにしてやってもいいけどな。おまえ、馬鹿なんだからよ。変な方向に悩むなよ?」
「魅録………」
ぞんざいな口調だが、心からの心配が伝わってくる。
悠理は「あんがと」と呟き、無理矢理笑顔を作った。
━━━━あたいが清四郎に惚れてるって知ったら、どうする?魅録。
まだ言えそうもない言葉を飲み込んで。
放課後。
全ての授業を終えた生徒の喧騒が校舎内で響く中、清四郎は出来るだけ足早に帰宅の途につこうとしていた。
「会長、さようなら。」
「菊正宗先輩、お気をつけて。」
すらりと伸びた彼の背中に、憧れの眼差しを投げ掛ける信奉者達。
圧倒的に男が多い。
普段通り穏やかな挨拶を返しながらも、仲間内に見つからないよう下駄箱までやって来た清四郎は、しかしそこで一番会いたくない人物の待ち伏せを食らってしまった。
想定外の事態に回れ右するわけにもいかない。
しかも、悠理の背後には、自分の名が書かれた下駄箱が存在した。
「悠理………」
今日初めて対峙する二人。
清四郎は、驚くほど腫れた悠理の目蓋に目を瞠る。
その理由がまさか自分にあるだなんて、思いもつかない様子だ。
「清四郎。話があるんだけど。」
「今日は少し用が………」
「直ぐ済むから、ちょっと来て。」
強引に校舎裏へ連れていかれる間も、清四郎が気になったのは彼女の顔だった。
━━━泣いていたのか?いったい何が原因だ?
恋しい女の痛々しい変化に戸惑いながら、手首を掴まれ大人しくついていく。
その距離感に胸が高鳴る自分は、本当に彼女に惚れているのだと判る。
毎夜、毎夜。
清四郎は悠理を犯していた。
凛の見せる幻想はあまりにもリアルで、時折、境界線が曖昧になる。
━━━もしかして、本当に悠理と?
有り得ない妄想に囚われ、昼間、部室の中でも無意識に触れてしまいそうになることが幾度もあった。
まるで麻薬中毒患者のように、身体が与えられた快感を思い出す。
幻想に身を浸していると、本当に気持ちを通じ合わせた関係になったと錯覚するのだ。
━━━これが現実ならば、どれほど幸せなんだろうか。
凛の幻想に溺れ、その快楽を貪る清四郎は、もはやいつもの優秀な判断能力を持つ彼ではない。
臆病者
偽善者
卑怯者
貶める全ての言葉が当てはまる。
・
・
いつしか、2人は校舎の裏に辿り着いていた。
悠理は手を離し、清四郎と向かい合う。
清四郎はゴクンと唾を飲み込むと、制服の胸辺りをギュッと掴んだ。
「清四郎。おまえ、恋人がいたのか?」
当然の質問。
そしてそれに用意された答えは一つだけ。
「━━━━━━恋人、ではありません。」
「違う?じゃあ、アレは誰なんだ?」
「それは…………言いたくないな。」
「もしかして、セフレ?」
「違う!!」
「じゃあ、なんであんなことしてたんだよ!?あたい、見たんだからな!」
「それが悠理に関係ありますか?僕が何をしていようと、恋人でもないおまえに責められる謂われは………」
無い、と断言できなかったのは、彼女が清四郎の胸に飛び込んできたから。
「じゃあ、恋人にしろ!!」
「………………………え?」
「あたいを恋人にしろ!!」
完全なる思考の停止。
何度も反芻する言葉に信憑性は見つからない。
「あたい、清四郎が好きなんだ……。好きで好きで、どうしようもないんだよ!あんなおまえ、見たくなかった!辛かった!苦しかった!どうにかしてよ。あたいを………好きになってよ………」
一晩泣き腫らした目が、愚かな男を見上げる。
「嘘………でしょう?」
「嘘じゃないもん。」
「おまえは………僕を嫌っているはずだ。」
「嫌いなとこもあるよ。でも………好きなとこの方が、多いから……」
そんな夢のような台詞を聞いた清四郎を、突如として深い眩暈が襲う。
「せいしろ!?」
「夢だ。これは幻だ………凛が見せた、幻惑に違いない………」
小さな呟きを拾おうと、悠理は清四郎の身体を懸命に支える。
そこへ━━━━━
「あらあら、随分と具合が悪そうじゃの?」
どこから現れたのか、足音一つ立てずに登場した黒髪の女。
悠理は見覚えのあるその女を見て、産毛が逆立つのを感じた。
加え、鳥肌が全身を覆う。
「おまえ………あん時の!」
「そんなにも睨まないでおくれ?わっちは主さんの願望を叶えてあげただけ。」
毒々しいまでの赤い唇が人間のソレでないと、悠理の敏感なアンテナが拾い始める。
「清四郎!こいつ何だよ!」
苦しそうにうずくまる清四郎の背中を叩けば、黒髪の女は一瞬にして2人の側に近付いてきた。
「主さんはわっちの食料。その代わり、わっちは主さんに幻夢(ゆめ)を見せておるのじゃ。」
「食料?夢?」
「ここ最近、頻繁に食しておるからの。随分と顔色が悪い。」
女は清四郎の首筋にそっと指を触れ、静かに口を閉じた。
すると、見る見るうちに清四郎の顔色が良くなっていく。
「少し戻したぞ。これで良かろう?」
深い深呼吸を何度も繰り返し、清四郎は立ち上がる。
しかしその表情は苦み走っていて、決して感謝しているようには見えなかった。
「こんな場所に現れて………どういうつもりです?」
「ちょっと心配になっての。来てみたらほれ、うまくいったではないか。良かったのぉ、主さんや。これで夢ではなく現(うつつ)で楽しめるじゃろ?」
二人の会話に入れず、それでも清四郎の腕から離れようとしない悠理は、初めて見る彼の表情に驚かされた。
熱を帯びた切ない瞳。
強張った頬は緊張を示している。
「悠理。」
「な、なに?」
「さっきの言葉は本当なんですか?」
「う、うん。」
「本当、なんですね?冗談ではなく、からかいでもなく、本気で僕を………」
「好き、だよ?」
言い終わると同時に抱き締められた身体は、反射的に蛙の声を押し出した。
それでも彼の腕に力が加わる。
「僕も………僕も………………ずっとおまえが好きだった。焦がれて、焦がれて、夢でもいいから、欲しかった。」
「……ほんと?」
「本当です。」
━━━━━な~んだ、やっぱ、あたいの勘は当たってたのか。
などど呑気な事を考えていた悠理だったが、一瞬にして離れた腕が次に頬をそっと包み、清四郎の真剣な瞳に覗き込まれる。
「実感が欲しい。」
「え?」
「キス、させてください。」
「ええ??」
「凛、消えろ!」
「あらん。冷たい。」
黒髪の女が幻の如く消え去り、目を剥いていると━━━━━
「目を閉じて?」
この上なく優しい声に導かれ、悠理は操られるかのように瞼を閉じた。
触れた唇は冷たかったけれど、それは清四郎の愛情を感じさせる柔らかさで、流した多くの涙や、胸の痛みを拭い去るほど優しいキスだった。
「悠理、好きです。今までの事をきちんと説明するから、僕から逃げないでください。」
「…………う、うん。」
「約束ですよ?」
そんな二人の様子を、ポプラの木のてっぺんから見つめる凛。
長い髪が風に揺れる中、深い溜息を吐く。
「はぁ。これで主さん以外の男を探さにゃならん。惜しいことじゃ。」
本気で残念がる彼女であったが、その表情はどことなく優しい微笑みに彩られていた。