第一話

━━━━ん?

その日、親友の肩に異様なほど長い、黒とも焦げ茶ともつかぬ一本の髪の毛を見つけたのは、魅録が彼のパソコンを覗き込もうと腰を屈めた時だった。

野梨子のものでは勿論、ない。
かといって彼の姉にしては長すぎる。
常日頃から、清潔さを強く意識した、寸分の隙もない男にしては珍しいこともあるもんだ、と首を傾げた魅録だったが、特に問いただすこともなく、そのまとわりついた髪を払うため肩に手をかけた。
その時、ふと感じた違和感。

━━━こいつ、もしかして痩せたか?

あの日から一週間経つが、清四郎が再び床に手をついたことはない。
相変わらず冴えない顔色をしていたが、仕事ぶりも悪くなく、食欲はむしろ普段より旺盛なくらいだった。
昼休みの彼は弁当の他に、倶楽部への差し入れ(ドライフルーツがぎっしりと詰まったパウンドケーキ)を軽く半分ほど平らげ、悠理に怒鳴られていた。
不健康な人間の食欲ではない。

━━━なら、何故痩せている?

鋭い勘を持つ魅録をもってしても、その原因は見当たらない。
勿論、気のせいならそれはそれ。
清四郎とて人間である。
もしかすると、寺で行われている鍛練が過酷なのかもしれない。
いくら鍛えているとはいえ、あの寺は人間国宝が師事する修行の場。
凡人には想像もつかぬほど、ハードな内容なのだろう。

しかし━━━
魅録は目を細める。
最近の清四郎は、夜遊びに誘っても必ず理由をつけて断るようになっていた。
それとなく野梨子に尋ねてみたが、彼女もまた不安げに首を振るばかり。

「遅くまで明かりが灯っていますの。勉強でもしているのかしら。」

「やっこさんが勉強ねぇ。怪しい研究ならともかく………」

その時は互いに笑い合い、冗談めかして話を流した。
野梨子に無意味な不安を与えるのは良くないからだ。

━━━━変な胸騒ぎがしやがるぜ。

魅録は清四郎の横顔を見つめる。
元々精悍な顔立ちをしている男は、痩せたことでどこか凄味を増したように感じる。

━━━━そろそろ吐いて貰うとするか。

親友としての心配と、純粋な好奇心。
魅録は隠された‘何か’を探るため、近い内、彼と二人きりの時間を持つ心積もりをした。

定期試験を二日後に控えた土曜日。
逢魔が刻の高級住宅地はひっそりとしている。
皆、夕げの準備に忙しいのだろう。
時折聞こえるのはカラス鳴き声だけ。

そしてそんな中、悠理は勉強道具一式を持って菊正宗邸を訪ねていた。
どう頑張ってみても解らないことだらけなのだ。
それぞれの問題集は三ページほどだけ塗り尽くし、そのまま放置されている。
自分のアホさ加減につくづくうんざりとするが、残された道は一つしかない。
断られることはないだろうとタカを括りつつも、手土産のショートケーキはいつもより多めの20個。
その半分はもちろん、悠理の胃袋に収まる事になっていた。

「あらあら、剣菱のお嬢様。いらっしゃいまし。坊っちゃまはお部屋ですよ。」

見慣れた家政婦に促され、悠理は階段を上る。

「あ、これお土産。冷蔵庫入れておいて?」

二つの大きな箱を見せられた家政婦は慌ててそれを受け取ると、小走りに台所へと消えていく。
きっと夕食の支度をしている最中だったのだろう。
エプロンのポケットに濡れた布巾が突っ込まれていた。

悠理がこの時間に訪れた理由は火を見るよりも明らかで━━━
廊下を漂う芳ばしい香りに、「今日は秋刀魚だな。」とほくそ笑む。

階段を、特別静かに上ったわけではない。
絨毯敷きのそれは、多少乱暴に足を踏み鳴らしても音を吸収し、互いの生活を煩わせることはないのだ。
三階にある清四郎の部屋まで、ものの一分。
悠理は普段通りノックをせず、扉の取っ手に手をかけた。
立て付けの良いオーク材の扉。
軋みもせず静かに開く。
しかし、部屋は意外にも暗かった。

━━━━もしかして寝てる?

「せ………」

悠理は頼みの綱である男の名を呼ぼうとして、ハタ、と動きを止めた。

「………ぅ、はぁ……もう、駄目だ……」

耳に飛び込んで来る、張り詰めた様な小さな声は、聞いたことがないほど色っぽい。
しかしそれは間違いなく清四郎のものだ。

大きな部屋は二つに仕切られていて、手前は書斎兼リビング。
奥が彼のベッドルームである。
いつもはリビングのソファに皆で集まり、あれやこれやと盛り上がる為、悠理は仕切りの向こう側をあまり覗いたことがなかった。
しかし今、彼の声はそのベッドルームから聞こえている。

「………くっ…………!はぁ……」

そんな声に引き寄せられるかのように、悠理は近付く。
足音を最小限にまで消して、息を殺し、彼の苦しげな呻き声を聞きながら。

簡単な衝立で仕切られたそこは、ひょいと首を伸ばせば部屋全体が見渡せる。
セミダブルのベッドは屋根の傾斜に合わせて配置され、天窓から差し込む薄明かりが、絶妙な具合で届く仕組みとなっていた。
もしかすると、ベッドに寝転べば月や星が見えるのかもしれない。

しかし━━━
今、彼の目には何も映っていないだろう。

視力には自信がある悠理。
その明瞭たる光景は彼女の目にあっさりと飛び込んできた。
薄明かりの作る影は、意外にも濃い。
それは黒髪の女が清四郎に覆い被さり、白い肌を艶かしく擦り付けている光景。
光沢のある長い髪。
細くしなやかな身体。
愛しいとばかりに添えられた手は、彼の逞しい首元を優しくなぞっている。
その長く伸びた爪は、まるで血のよう赤かった。

軋むベッド。
一糸纏わぬ男女が何をしているかなど、いくら鈍感で幼い悠理といえども解ってしまう。

「…………ぅ、あ………!もぅ、限界です!」

「あらん、‘わっち’はまだなのに?」

黒髪に隠れた顔は、はっきりとは見えない。
しかしその声は軽やかで愛らしく、そこはかとなく艶があった。

悠理は心臓を鷲掴みにされたような痛みに、それでも歯を食い縛り、耐えた。
そしてそこに留まろうとする足へと強力な指示を出し、一歩ずつ静かに後ずさる。
がさつな彼女の精一杯。
鼓動の音すら止めてしまいたい衝動に駆られる。

清四郎の部屋を出、階段を下りきったところで、お茶を用意した家政婦と鉢合わせし、慌てて真っ青な顔に笑みを浮かべた。

「き、急用思い出したから帰る。」

「あ、お嬢さん!」

悠理は転げるよう、玄関を飛び出して行く。
そして━━━━━━
気付いた時には、自室のベッドの柔らかなシーツに顔を押し付け、泣いていた。

声を押し殺す。
廊下を歩くメイドの耳へと入らないように。

何度も追い払おうとしたあの光景は、フラッシュバックの様に悠理を襲い、胸を強く抉り続ける。

━━━清四郎は男だった。

そんなこと分かってた。
でも恋人がいるだなんて、想像したこともなかったのだ。
愛や恋とは縁遠いはずの男。
彼は夢中になっていた。
あの女に。

まるで子供のように翻弄され、切ない声をあげる姿は、悠理の知らぬ清四郎であった。

「ひっ………ひっく………やだぁ!せぇしろぉーーー!!!」

堪えきれない声はとうとう部屋に響き渡る。

━━━━━清四郎が好き。

もう気持ちは偽れない。
心が痛々しいほど悲鳴をあげている。
淡い想いなどでは、決してなかったのだ。
しかし思い知らされた現実は厳しく、ひたすら呻くことしか出来ない。

「どぉしたらいいんだよぉーー!!!!」

屋敷中を響き渡る叫びに、メイドだけでなく五代までもが飛び込んできたが、悠理はただただ泣きじゃくり、彼ら困惑させるだけだった。