白雪姫~本編~

その頃、猟師であるミロクは屋敷の地下室に幽閉されていた。
理由は一つ。
女主人を謀ったからだ。

あの日、持ち帰った白雪姫の髪を見て、彼女は「よくやりましたね。」と褒め、多くの金貨を渡した。
ミロクは苦い思いでそれを受け取り、頃合いを見計らってユーリに届けようと考えた。
しかし翌日。
一転、鬼の形相で現れた女主人は、「こやつを今すぐ捕らえろ!」と叫ぶ。
そう。
彼女は魔法の鏡から告げられたのだ。

『この世で一番美しいのは、山の谷に住む‘白雪姫’だ』 と。

彼女の怒りは燃え盛る炎の如きものだった。
信頼していたはずの下男に裏切られ、心は瞬く間に夜叉へと変化する。

「こうなれば、もっと確実に殺してやるわ。」

怒り狂うままに呼び出したのは、一人の魔女。
たかだか400年ほどしか生きていない若き魔女だが、その腕は確かと聞く。

「白雪姫を亡き者にして。どんな手を使っても構わない。」

美貌を誇る継母は、憎しみに満ちた表情でノリコに命じた。

「成功したなら、貴女を城へと連れ行き、国王に紹介してあげるわ。そうすればこの国の正式な魔女として認められるでしょう?」

コネがモノを云う世界。
正規の魔女ともなれば、今とは格段に違う生活が待っている。
彼女は昔から贅沢な暮らしに憧れていた。

そうして、ノリコは決意したのだ。

食い意地の張った白雪姫を殺害する方法は、あくまでシンプル。
致死量の毒を林檎にコーティングし、後はきちんと食べさせるだけ。
じっくり煮詰めた毒草に魔女の秘薬を溶かし、たっぷりの蜜で誤魔化して完成。
この毒は、口に含んでから半日も経てば効果が消えてしまう為、証拠は残らない。

白雪姫が何故狙われるのか、彼女にとってはどうでもよかったが、問題は共に住む小人の存在だ。
一度偵察に出掛けた時、同じ顔が七人も揃っていて驚かされた。
その上、白雪姫の側には必ず誰かが居るため、なかなかチャンスが訪れない。

そして今日。
梟を飛ばし、魔術で監視していたノリコは、ようやく白雪姫が一人になったことを知る。
この機会を逃すわけにはいかなかった。
手早く毒入り林檎を籠に詰め、僕(しもべ)である狼に乗り、一路山小屋を目指す。
一刻も早く始末せねば、いつ小人たちが帰ってくるやもしれない。

魔女はこうして、哀れな白雪姫に毒林檎を食べさせることに成功したのだ。

机に突っ伏したままの少女はまるで眠っているよう。
人形さながらの美しさに、魔女の心がしくりと痛んだが、感傷に浸っている暇はない。
湯気立ち上るカップをそのままに、ノリコはひっそりとその場を立ち去った。
山間を吹く風は先程よりも冷たく感じる。
心はそれ以上に冷えきっていたが。

トクン………トクン………トクン

白雪姫は夢の中に居た。
幼き頃の自分と優しい父親。
心ある使用人達に囲まれ、幸せな気分に浸っている。
何不自由無い生活。
不安も、悩みも、憂いも………少しの飢えすら感じない満たされた生活。

しかしあの継母がやってきてからというもの、白雪姫の中にはいつも、わだかまりと言う名のトゲが刺さっていた。
父を取られたという喪失感。
家の中が作り替えられてゆく不快感。
そして、風当たりの強さによる孤独感。
彼女はまるで女王様のように振るまい、威圧する。
白雪姫はそれらの不満を食欲で解決してきた。
本当に言いたい言葉はひたすら飲み込んで━━━

かといって、継母を嫌いにはなれない。
父が選んだ人だから。
美しく高貴な顔立ちをしているから。
父が死んでからというもの、白雪姫の家族は彼女だけ。
母の面影をほんの少し宿した艶やかな美人を、嫌いになれるはずがない。

寂しさは臆病風をもたらす。
いつも顔色を窺いながらの生活。
結婚は体の良い厄介払いの為だと分かっていたが、本気で抵抗出来るはずがなかった。

唯一の家族。
継母に嫌われたくはない。
だけどまさか、殺意を抱かれるほど憎まれているとは━━━想像もしていなかった。



柔らかな感触に包まれた唇。
注ぎ込まれる、とろりとした液体。

ゴホ!ゴホ………ゴホ!!

その直後、白雪姫は体を横にして激しく咳き込んだ。
口からは唾液と共に、赤い果実の欠片が勢いよく飛び出す。

「よし………!全部吐けたな。」

涙が止めどなく溢れ、苦しさと痛みに目眩が襲い、寒気を感じる。
焼けつく喉。
何かを訴えようとしても、声が出ない。

━━━━苦しい!

瞼を開き見上げれば、そこには見慣れぬ男の姿。

━━━誰?

白雪姫はしかし、その美しく逞しい青年を懐かしく感じた。
艶のある黒髪と理知的な瞳。
整った顔立ちは…………そう、紛れもなく‘あの’セイシロウだ。

「あ………………」

「喋らなくて良い!毒で喉がやられているんだ。」

目を細めたその表情からは、彼の焦りが伝わってくるようで、白雪姫は素直にこくんと頷いた。

彼が何故大きさを取り戻したのか、
何故自分が助かったのか、
その時のユーリは思いもつかない。
ただ、この苦痛から逃れようと手を伸ばし、助けを求める。

「もう少し薬湯を。」

セイシロウの腕に抱き起こされ、小さな木製の匙から啜ったそれは、過去味わったことがないほど苦かった。

━━━ううっ、にがいよぉ。

白雪姫の険しい表情を汲み取り、優しい微笑みで見返した彼は、諭すように告げる。

「この薬湯は魔女の血が混じっているんです。多少苦いかもしれませんが四、五日もすれば良くなるので我慢してください。それと…………」

逞しい両腕はユーリの細い肩を、そっと抱き締める。

「一人きりにして悪かった。………間違いなく僕の落ち度です。」

慌てて首を振るも、更に強さが加わり、大人しく身を預けるほかない。

「もう……一人にはしない。貴女を必ず守ります。魔女チアキに魔術を半分だけ解いてもらったんですよ。これで半日だけはこの姿で居られる。」

彼の切なく震える声には覚悟が見える。
声を失い、不安そうに見上げる白雪姫に対して、セイシロウはその瞳に強固な意思を宿し、見下ろしていた。

「いつかはユーリをこの山小屋から解放すべきなのだ、と考えていました。ここは年頃の女性が住むような場所ではありませんからね。………しかし僕は、どうしても貴女に側に居て欲しい。」

飢えを帯びた熱っぽい視線で貫かれ、彼女の胸はドキリと鳴った。
異性からのこんな視線に晒されたことは一度もない。
緊張にも似たトキメキが心を揺さぶり、白雪姫は痛む喉で熱い唾液を飲み下した。

「ユーリ。一生、この山小屋で僕と一緒に暮らしてください。苦労はさせません。」

小人だった男の本来の姿。
凛々しく逞しい青年の真摯な告白は、傷ついた白雪姫の心と身体にとってまさしく甘い誘惑だった。
立て続けに起こる想定外の出来事に、頭がひきつけを起こしそうな勢いだったが、今はセイシロウの温かな胸に包まれていることが、どこよりも安全だと感じる。

(あたいって………結構ラッキーなのかも………)

自らの強運に満足したのか、はたまた薬湯が効き始めたからか、自然と閉じ始める瞼。

「ユーリ?眠くなったんですか?」

まだセイシロウの告白を聞いていたいけれど、体を蝕む毒は相当な威力で………
コクンコクンと頷いた彼女は、何かに導かれるよう眠りへと落ちていった。



白雪姫が次に目覚めた時、セイシロウの身体は再び元通り、七人に分割されていた。

━━━━あれ・・・?もしかして夢だった?

そう首を捻る彼女の元へ、彼らは次々とやって来て、体調を気遣う。

「喉はまだ痛みますか?」

「お腹が空いたでしょう?柔らかいミルク粥ならどうです?」

「最初は蜂蜜入りの薬湯がいいですよ。」

「コーンポタージュも作っておきました。」

「着替えが先では?」

「蒸したタオルならたくさん用意してありますよ。」

矢継ぎ早に尋ねられ、白雪姫の頬が緩む。
喉はまだまだ痛むけれど、彼らの優しさに触れれば、幾分か和らぐ気がする。

「寝巻きを縫っておきました。これは魔女チアキが紡いだ糸で作られています。あと三日ほどで格段に良くなりますよ。」

そう言って差し出された真っ白なコットンのネグリジェはとても温かく、オレンジの爽やかな香りが染み込んでいた。
声が出ない白雪姫は口を象り、礼を述べる。

『アリガトウ、ミンナ』

七人の小人は、それぞれが幸せそうに微笑みながら、ユーリの頬へと順番に口付けた。

「「「「「「「可愛い白雪姫。早く良くなりますように。」」」」」」」

寝巻きの効果は如実にあらわれ、ユーリの弱った身体を瞬く間に回復させた。
毎日の薬湯は苦かったが、そのおかげもあってか、喉はもう随分と良くなってきている。
ようやく枯れた声を出せるまでになった頃、白雪姫はセイシロウを呼び出し、事の経緯を伝えた。
成人の姿の彼には、まだ慣れないけれど。

「ふむ。おおよその検討はついていましたし、その若き魔女の噂も耳にしています。もし貴女が復讐したいと言うのなら僕に考えがありますが━━━」

「フクシュウ?」

「こんな目に遭わせた継母を、殺したいですか?」

『殺したいか』と聞かれれば、そうではないと思う。
だが、彼女の悪意を鎮める為に何をしたら良いのかも分からず………身の安全の為には、それがやむを得ない手段であることをユーリも薄々感じていた。

「もし、貴女が生きているとわかったら、再び刺客が送り込まれることでしょう。次はどんな手強い相手か分かりませんよ?」

「ウン………そう…ダヨネ………ドウシヨ……」

二度も命を狙われたというのに、どこか呑気な白雪姫。
やはり継母を憎みきれないのだろう。
その美しく純粋な瞳からは、戸惑いが伝わってくる。

そんな彼女を眺めながら、セイシロウは魔女チアキの助言を思い出していた。



「そうね。恐らくだけど、彼女の継母は魔法の鏡を持っているわ。あれは世界で一番美しい女の名を挙げるちょっと厄介なシロモノで、ただ教えるだけじゃないの。尋ねる度に、相手の虚栄心をどんどん増幅させる魔法がかけられていて、最後には善悪の判断もつかず、どんなことをしてでも美しくありたいと願うようになってしまうのよ。ほんと、人間の女って欲深いから困りものよねえ。」

そう言う彼女もまた、美肌に効果があると聞く伝説の泉へ足繁く通っている。
彼女がそうして魔女としての仕事をサボるが故、セイシロウが七人に分割し、せっせと働かなくてはならないのだ。
そんな女の業の深さに呆れつつも、彼は更なる助言をチアキに求めた。

「ユーリの継母は魔力に操られている可能性が大きいと?では、元凶の鏡を壊せば良いんですか?」

「ただ壊すだけじゃダメよ。より強い魔力で封印しなきゃ。」

「もちろん、貴女は出来るんでしょう?」

「…………誰に物を言ってるの?私はこの国で一番の魔女よ?鏡さえ奪い取ればものの数分で封じてやるわ。………あぁ、でも一つだけ条件があるわね。」

ちろり、妖艶な流し目でセイシロウを見つめるチアキは、やはり魔女に相応しい。

「なんです?」

「貴方、その『白雪姫ちゃん』のこと、どう思ってるの?」

「…………え?」

唐突の質問にセイシロウの頬が赤く染まった。
口にせずとも答えは明らか。
魔女の目は誤魔化せない。

「なるほどね。そんなにも気に入っちゃったんだ?」

見透かされた心に、しかしセイシロウは首を緩く振った。

「彼女は街の人間です。僕とのこんな生活は相応しくない。出来ることなら、安全な家に帰してやりたいと思っています。」

「それで?」

「‘それで?’とは?」

彼の答えが気に入らなかったのだろう。
チアキはソバージュの髪を逆立て、目を光らせた。

「そんな謙遜、面白くもなんともないわ~。一体貴方はどうしたいの、人嫌いのセイシロウ!あたしは驚いたのよ?まさか人間の娘をあの山小屋に住まわせるだなんて。」

「人嫌い、という訳では………」

「あら、そうだったかしら?貴族の血を引きながらも、その堕落した世界に嫌気がさして全てを捨てた後、山に隠りっきりになった貴方を、人間嫌いと言わずして何と呼ぶの?」

「・・・・・。」

彼女の言う通りだった。
セイシロウは元々、王族に次ぐ大貴族の息子。
今やその家は、婿養子を迎えた剛毅果敢な姉が、無事引き継いでいる。

虚飾に彩られた社交界に嫌気がさしたのはもう五年も前の話。
それから彼は一人、山に隠り、薬草や食物の研究を進めてきた。

そんな彼がチアキに目を付けられたのは、優秀な研究者であるがゆえ。
魔女が必要とする薬草を採取する代わりに、弟子という立場でありとあらゆる書物に目を通し、効果的な薬を作り続けてきた。
言わば、持ちつ持たれつの関係。
しかしご覧の通り、魔女チアキは自由奔放。
気付けば「美」を求め、どこかへふらり、旅立ってしまう。

そんな生活を五年も続けてきたセイシロウは、人との関わりを積極的に持たないよう心掛けてきた。
白雪姫にお節介を焼いたのは、あくまで新鮮な鶏に心惹かれたから。
労せずして食料にありつける幸運は、山の生活では滅多に無い。

「いい?セイシロウ。恋はそう何度も人生に訪れるものではないわ。欲しいと思ったら素直に行動しなさい。・・・あら、何だかあたしまで恋したくなってきたじゃない。どこかに良い男はいないかしら?ふふ。」

「・・・・・。」

魔女チアキの微妙なアドバイスを胸に、山小屋へと帰宅したセイシロウ。
だがそこで待ち受けていたのは、心臓が硬直するような光景だった。



「ユーリ!」

セイシロウは駆け寄った。
あれほど太陽のように輝いていた少女が、蒼白した顔で倒れている。
唇だけは毒々しいまでに赤く、一目で分かるほどの異常を伝えていた。

「呼吸が停止している。」

セイシロウの脳裏に絶望が浮かんだ。
地獄の魔物に、地中深くへと足を引っ張られるような感覚が襲う。

「まだ……まだ、大丈夫だ。必ず助けてやる!」

自らが持つ全ての知識を総動員させ、一つの薬湯を作る。
それはありとあらゆる毒を吐き出させる効果があり、魔女の血がなければ完成しない。
しかし彼は魔女の弟子。
小瓶3本分の血をストックしていた。

冷え切った身体を抱き起こし、出来上がった薬湯を何度も繰り返し飲ませる。
完熟した林檎の様に赤い唇は、しかし氷の様に冷たかった。

━━━どれほどの毒が体内に?

セイシロウは不眠不休で白雪姫の命を救おうとする。

━━━絶対に死なせない。僕は彼女が………

半日後。
その切なる願いは聞き届けられ、彼が作った薬湯はユーリの身体を地獄から救い出すことに成功した。



「もう一つ方法があります。」

困った様子の白雪姫に一筋の光を与える。

「ナニ?」

「彼女が持つ魔法の鏡を奪い取り、それを魔女チアキの手によって封印するのです。」

「魔法ノ………鏡?」

「記憶にありませんか?」

ユーリは首を横に振る。
それは骨董品好きの父が自慢気な様子で部屋に飾った、妖しげな鏡。
普段は紫色の大きなカーテンで隠されていて、部屋には鍵までかけられている。

「アルよ。あの鏡………壊せばイインダナ………ゲホゲホ………!」

「ああ、済みません。無理をさせましたね。」

半ば無理矢理ベッドに押し込まれ、不満げな表情の白雪姫だったが、確実に喉の痛みが広がり始めていたのでおとなしく従う。
セイシロウは甘く煮た生姜をお湯で割り、ユーリに手渡した。
薬湯嫌いの彼女はこれが大好物なのだ。

「鏡の件は僕に任せて下さい………」

安心させる為告げた言葉に、しかし別の低い声が被さる。

「俺がやってやるよ。」

「ミロク!!」

「ミロク?」

いつの間に扉が開けられたのか、青年は山小屋の中を珍しそうに眺めながら、笑った。

「白雪姫、無事で良かった。安心しましたよ。」

「ドウシテ………ココガ……」

白雪姫は慌てて起き上がる。
ベッドから飛び出そうとした体はセイシロウの腕に抱きとめられたが。

聞くところによると、女主人に幽閉されていたミロクが脱出出来たのは、古くから働く執事の機転によるもの。
彼もまた、白雪姫の身を案じる、心優しき一人だった。
執事ゴダイは、ミロクの手に白雪姫の居場所を書いたメモを渡し、『老い先短い爺のことなど気にせず、ユーリ様をお守りするように。』と願いを託したのだ。

「生きていると解れば、刺客はまたやってくる。その前に鏡を封印しちまえばいいんだろ?」

「その通りです。」

「俺が鏡を奪ってきてやるよ。あんた………えーと、名前は……?」

「セイシロウといいます。」

「セイシロウは白雪姫を守ってやってくれ。これは俺が愛用している銃だ。撃ったことは?」

「………大昔に数度だけ。」

「なら充分イケるさ。」

銃身の長いそれを手渡すと、ユーリはすがるように彼を見上げた。

「貴女は良い住み処を見つけたんですね。良かった。」

「ミロク…………」

爽やかな笑顔で立ち去るミロク。
その後ろ姿を切なげに見つめる白雪姫を、セイシロウは強く抱き締め、再びベッドに閉じ込めた。

「彼は………貴女の特別な人ですか?」

「トクベツ……家族……ミタイナ……?」

「家族……ですか。なら良かった。思わず嫉妬しそうになりましたよ。」

「エ?」

「僕は………思った以上に深く貴女を愛しているようです。もう他の男になど譲れない。」

『アイシテイル』

心の奥にまで響く、温かな言葉。
うっとりと見上げる彼女の無防備な唇が奪われたのはその直後。

小人ではない、大人の男の情熱的な口付けは、喉の痛みを忘れるほどの官能に彩られていた。

ミロクは優秀な男だ。
だが今回は、運が彼に味方したとも言える。
こっそり、屋敷へと戻った若き猟師に、目を留める者は誰もいなかった。

もちろん、脱出したことは周知の事実。
だが、古くから屋敷に仕える人間は、彼を本気で捕らえるつもりはない。
家族のように接してきた彼らは、ミロクの優しい人となりをよーく知っているのだから。

その日、心悪しき女主人はたまたま外出しており、魔法の鏡が置いてある部屋にはすんなりと入り込めた。
かかっていた鍵を難なく開け、恭しく飾られてある‘事の元凶’を持ち出す。
執事であるゴダイは、彼から詳しい理由を聞くと、心良く協力の手を差し述べた。

「あの奥さまが………こうすることで少しでも変わられるのなら。」

彼もまた、主の横柄かつ非情な振る舞いの理由が解り、ほっとしたのだろう。
この屋敷に無事、白雪姫が戻ってくるのなら、どのような協力も惜しむつもりはなかった。

鏡は、大の男が二人がかりでようやく持ち上げられるほどの大きさ。
馬に荷台を付けなくては、運ぶこともままならない。
ゴダイの手筈で、その点をなんとかクリアしたミロクは、一路山に向けて走り出した。
女主人が戻る前に、この鏡を処分しなくては。
気持ちは逸る。

そして………そんな様子を一羽の白梟ふくろうが見つめていた。
魔女ノリコの定期偵察だ。

「あら。あれは確か………怪しげな魔法の鏡ですわね。何処へ持っていくのかしら。」

林檎のような唇は絹糸のような声を紡ぎ、その黒目がちな瞳は興味に瞬いた。
彼女はこの時まで信じきっていたのだ。
自らの手で白雪姫を亡きモノにしたという現実を。

彼女は人を殺める大罪よりも、国に大魔女として認められる栄誉を選び、良心の呵責とやらは既に薄れつつあった。

━━━もし私が手を下さなくとも、白雪姫は近い内、この世から消えてなくなっていたことでしょう。
あの女主人の執念によって………

特殊な目を持つ梟は、先を急ぐミロクを追いかけた。
荷台を引いた馬は、大通りの石畳を避け、野原を疾走するも、鳥の目を通じた魔女からは逃れられない。

━━━山へ?何故?

ノリコの監視も知らず、ミロクは予定よりも早く山小屋に辿り着いた。

そこで、ノリコが窓の外から目にしたもの。
それは━━━━
ベッドに横たわってはいるものの、凛々しい男と楽しげに談笑する白雪姫の姿だった。

………まさか!?
まさか!!

ノリコは驚いた。
殺したはずの少女が笑っている。
顔には生気が宿り、美しい瞳は以前と同じに輝いていた。

━━━なぜ?

彼女が丹精込めて作り上げたあの毒は、決して中途半端なシロモノではない。
秘伝の毒薬レシピを破れる者など、この世に居るはずがないのだ!
万が一居るとするならば同等、もしくは上位の魔女。
人間ごときでは、とてもじゃないが解読出来やしない。

ノリコのプライドは酷く傷つけられ、明らかとなった失態に臍を噛む。
これが依頼主である女主人にバレれば、国王への推薦は水の泡。
長年温めてきた野心が潰えてしまうではないか。

「一体………どんな手で助かったんでしょう?気になりますわね。」

考えを巡らせたとて、答えは見つからない。
逡巡したノリコは下僕である狼に颯爽と跨がり、山小屋へと向かった。

あれほどの毒薬を無効化出来る人物は誰?
魔女ですら困難なはずなのに!

闘争心と言う名の松明に火が灯ったノリコ。
そんな彼女を追い立てるかのように、秋の嵐が迫っていた。



一方。
ミロクが到着するその瞬間まで、セイシロウと白雪姫は、その身を重ね合わせたまま、口付けを交わしていた。
理性的に、そして分別を弁え生きてきた男は、今、目の前に座る少女に首ったけ。
生まれて初めて感じる異性への愛しさを沁々と噛み締めながら、何度もその甘い唇を吸い、情熱を伝えた。

最初は、腕の中で恥ずかしそうに身を捩っていた白雪姫も、その心地よさを好ましく思い始めたのだろう。
委ねるように凭れ掛かってくる。

見れば見るほど美しい姿。
毒に倒れ、寝込んでいたせいか、健康的だったはずの肌は、透き通るように白く儚げだ。
微かに伏せていた長い睫毛が恥ずかしそうに揺れ、ゆっくりと男を見上げる。
その細い首からは果実のような香りが漂い、今すぐにでもしゃぶりつきたい衝動がこみ上げるが、しかし、彼が心底欲しいのは彼女の身体ではなく、心だった。

「ユーリ、僕のものになってください。そして末長くここで暮らしましょう。」

「………あ、あたい………」

白雪姫はセイシロウの求愛に胸ときめかすも、素直に頷けなかった。
自分が此処に居ることで、もし継母の魔の手が彼を傷つけたなら、それはもう後悔しきれない事態だ。

だがもちろん、本音は違う。
この山小屋で、のびのびと暮らせる誘惑。
質素ながらも美味しい食事を、セイシロウ(達)と楽しめる幸せはとても魅力的だ。

それに━━━

家族の愛に飢えている白雪姫は、面倒事を抱えていると解りながらも優しく接し、受け入れてくれたセイシロウと、本物の家族になりたかった。

どんな形でもいい。
側に居てほしい。

それは何度も命を狙われ、心細さに喘ぐ彼女の紛うことなき本音。

「いいんです………答えはいつでも。ただ今は僕の側でこうして……生きていてください。」

ぎゅっと抱き締められた白雪姫は勘づいていた。
自分はもう、この胸の中から離れられない。
離れたくない。
その為に、継母を殺すこととなっても後悔はしないだろう。

でも最後に一度だけ。
あの鏡を封印することで、もし彼女が変わるなら。
また再び、父との懐かしい思い出を語り合えるかもしれない。

白雪姫はそうなることを心で願いながら、セイシロウの温もりに浸り始めた。

「あんがと、セイシロウ………」

大好き。



到着したミロクが、駆けつけ一杯の水を飲み干した時、突如甲高い嘶きが外から聞こえた。

「なんだっ?」

セイシロウと二人飛び出してみれば、そこには狼に威嚇され、恐怖に蹄を打ち鳴らす馬の姿。
空はどす黒い雲が覆い始め、雨の香りが辺りを漂い始めている。

「狼?」

「いえ……これは魔女の使いです。その証拠に目が赤いでしょう?」

「魔女だって?」

慌てて辺りを見回すも、その姿は見えない。

「どこにいやがるんだ!?」

「取り敢えず、小屋の中に。彼女達は身を隠すのが上手いんです。」

しかし二人が小屋に戻った時、目にしたものは、白雪姫の首を赤い紐で締め上げる一人の女だった。
少女と言っても過言ではない。
黒いマントに黒い髪。
毒々しい赤に染まった唇は、まさしく魔女のそれ。

「ユーリ!」

「やめろ!!」

ミロクは咄嗟に預けていた銃を手にし、撃鉄を起こす。

「ミロク!ユーリに当たります!」

「白雪姫から離れろ!魔女め!」

構えたものの、そう簡単には撃てない。
苦しむ白雪姫の体を盾にされ、男達は悔しさに奥歯を噛んだ。

「止めてくれ!何が望みだ!」

セイシロウは必死で交渉の糸口を探し始める。
まだ完全に回復していないユーリは、少しの事でも危険が迫るのだ。

「わたくしは街の魔女、ノリコ。依頼された今回の仕事を失敗するわけにはいきませんの。彼女にはここできっちり、あの世に旅立って貰いますわ。」

「おまえが……ユーリに毒を盛った張本人か!?」

立ち上るセイシロウの殺気がミロクへと伝わる。
魔女の事情など2人にとってどうでも良いこと。
憎しみと怒りにその表情は鮮やかに変化した。

短い息を、青白い顔で吐くユーリからは言葉が出ない。
ギリギリと紐を締め付ける容赦の無い手は、彼女の命を本気で絶とうとしていた。

「やめろ!!」

息苦しさに涙する白雪姫は、伸ばしていた細い手をゆっくりと落とし、徐々に意識を手離して行く。
命の灯火が細く、消えゆこうとしている。

セイシロウはその優秀な頭を巡らせた。
冷酷非情な魔女の気持ちを逸らす、何かを探すために。

だがしかし、ギリギリと歯軋りをするセイシロウの横で、ミロクが我慢の限界を迎えていた。
白雪姫の肌はとうとう真っ青になってしまっている。

「もう我慢ならねぇ!俺は撃つぜ!」

バーーーン

彼は目標を的確に捉えたはずだった。
銃声は、狭い山小屋で反射するよう鳴り響き、窓ガラスを震わせる。
しかし魔女に鉛玉など全くもって効果がない。
勇気ある男を睨み付けたノリコは、その後、くすっと嗤い、ようやく白雪姫から手を離した。
うつ伏せに崩れ落ちる白雪姫。
魔女の黒いマントから一つの弾丸が溢れる。

「お粗末な弾ですわね。」

小馬鹿にした嘲笑が燃え上がる怒りに油を注ぎミロクは再び銃を構えた。
しかしセイシロウの手が熱い銃口を包む。

「無駄です。何発撃っても彼女には効かない。」

「なんだと?」

「その通りですわ。魔女を殺せるアイテムは特殊ですもの。」

クスクスと笑う姿はあどけない少女のよう。
しかし、セイシロウの視線は意識を失ったままの白雪姫に注がれ続けていた。

一刻も早く蘇生を試みなくては!

「何故依頼を引き受けたんです!?一体、何と引き換えに?」

「国王に認められ、この国の正式な魔女になることですわ。彼女は私を推薦して下さるとおっしゃったの。」

━━━そんな事の為に、白雪姫の命を奪おうとしているのか!

激しい怒りにセイシロウの目頭が熱くなる。

「ならば僕が推薦してやる!だからユーリの命を助けてくれ!」

「━━━貴方が?」

魔女の目が初めて興味深そうに細められ、セイシロウは確実な手応えを感じた。

「僕の家は………貴族だ。それも国王に物申せるほどの大貴族。おまえの望みは何でも叶えてやれる。だから彼女から離れろ!」

「まぁ!!それはとても素晴らしい提案ですわ!でもどこに証拠がありますの?」

「証拠?」

「弱者の言葉を鵜呑みにするほど、わたくし若くはございませんの。」

言いながらも、白雪姫の首から紐を巻き取り、それをマントの中に隠す。
どうやら彼女の殺意は一旦落ち着いた様子だ。

ゴホゴホゴホ

「ユーリ!」

駆け寄ったセイシロウの前に魔女が立ちはだかる。
だが、それを押し退け、彼はユーリの側に辿り着いた。

「大丈夫ですか?今、水を……」

切り株に置かれた水差しを手に取ると、コップを握らせ、急ぎ、水を注ぐ。

「だ、だいじょぶ…………」

咳き込みながらもゆっくりと水を飲み下すユーリ。
その喉下には、生々しく残る紐の痕跡が見てとれた。
あまりにも痛々しい姿にセイシロウの激情が再熱する。
今直ぐにでも……涼しい顔で佇む魔女を殺してやりたくなったが、彼の殺意は思わぬ人物の登場により霧散してしまった。


「あら~。来客?」

現れたのは、よほどの事でもない限り弟子の山小屋なぞ訪れやしない魔女・チアキ。
ベルベット素材のタイトなロングドレスがそれなりの雰囲気を与えている。
ウェーブヘアを無造作にかきあげながら、詰まらなさそうな声で辺りを見回すが、銃を構え、殺気を漲らせたままのミロクを見つけると、その表情は一転。
喜びに変わっていく。
視線は釘付け。
目にはハート。

「やだ……かっこいいじゃない。私、ワイルドな顔の男が好きなのよ。」

風のように近付いたチアキは若き猟師の頬を優しく撫でた。

「だ、誰だよ!あんた……」

突然現れた年増の美女に戸惑うミロク。
彼女は頭の先から足の爪先まで舐めるように見つめ、決意を高らかに表明した。

「決めた!次の恋人はこの子にするわ。」

事態を把握していないのか、それとも把握してなお、自分の欲望に忠実なのか。
不穏な空気の中、チアキは黒髪の魔女を一瞥もしない。
目の前の男に意識を奪われたまま、妖艶に微笑む。

すぐには飲み込めない展開に目を白黒させるミロク。
そんな男を尻目に、プライドを刺激されたノリコは声を荒げ、ヒステリックに尋ねた。

「い、一体、貴女は誰ですの!?」

「わたし?」

ご機嫌な魔女はくるりと振り返る。

「私は…………」

少し持ち上がったキレのある瞳が妖しげに輝き、美しい唇は色っぽく艶く。
同じ女でもぞくっとするほどの色気。

「この国で一番強くて、一番美しい魔女、チアキ。覚えておいてね?」

緊張感の欠片もない、しかし頭にこびりついて離れないような挨拶に、ノリコの口は自然と閉じられた。

━━━これがこの国随一の魔女?噂で美しいとは聞いていたけれど、本当なのかしら?
国王もが平伏すという、絶大な権力を持つ魔女の中の魔女………

「さあ!セイシロウ。魔法の鏡はどこ?」

「馬の荷台に括り付けてあります。」

「じゃ、さっさと封印しちゃいましょ。私、一刻も早く彼とデートがしたいの!」

きっとミロクが想像も出来ないほど年齢を重ねているチアキ。
少女のように笑い、軽やかに翻ると、山小屋の外に一瞬で移動して見せた。

呆然としていたノリコたちも慌ててその後を追う。
セイシロウに抱きかかえられたユーリもまた、自分を苦しめてきた鏡の最期を見届けたいのか、外へ行きたいと告げた。

封印は大魔女チアキとって、そう難しいことではない。
たった数分でそれはどこにでもある一般的な鏡となり、彼らが尋ねるどんな質問にも答えることはなくなった。

「これでおしまい。無力化したこの鏡はあたしが預って、しかるべき所で粉砕するとしましょう。」

「助かりました。師匠。」

「ふふ。この子が貴方の大切な女の子ね。可愛いじゃない。」

幾分かまともな呼吸をし始めた白雪姫に、チアキは優しく微笑む。

「う~ん、薬湯の調合は悪くないけれど、イマイチ回復しきれていないわ。まだまだ修行が足りないわよ、セイシロウ。」

「申し訳ありません。」

チアキは自らの髪を一本引き抜くと、何かの呪文を呟き、それを懐から取り出した小瓶に収めた。

「これから毎日、薬湯の中に刻み入れて、飲ませてあげなさい。」

「はい。ありがとうございます。」

さて、と振り向いたチアキの視線の先には、目を大きく見開いたままの魔女・ノリコ。

「ねえ。可愛らしい魔女さん。貴女が良ければの話なんだけど、私の弟子にならない?」

「え?」

「ほら、この国も次の世代の魔女が必要でしょう?私一人だと手が回らなくて困ってたのよ。」

「で、でも、わたくしは………」

それは魅力的な誘いだった。
しかし、自分の悪行にバツの悪さを感じるのは当然のこと。
迷ったノリコは恐る恐るセイシロウ達を見上げ、申し訳なさそうに口を開いた。

「許しては下さらないでしょう?」

「当然です。」

セイシロウはきっぱりと言い切る。

「一生許しません。心を入れ替え、この国を支える立派な魔女になるまで………僕たちの前に姿を現さないで下さい。」

「え?」

「言いたいことはそれだけです。」

白雪姫を抱えたまま山小屋へと消えていく不肖の弟子。
大魔女チアキは彼らの後ろ姿を面白そうに見つめていたが、直ぐ様ミロクの腕に擦り寄ると、
「さ、デートしましょ?」
と色気たっぷりに誘った。

「え、えーと………チアキ…さんはおいくつですか?」

「あら、無粋ねぇ。女に年を聞くもんじゃないわよ!」

「はぁ…、すみません。」

それから一ヶ月が経ち………

すっかり回復した白雪姫は、憑き物が落ちたように改心した義母の元へと戻った。
自らの過ちに号泣する美しい義母は、ユーリの側にいるセイシロウを殊の外気に入り、直ぐ様祝言を挙げるよう進言する。

「母ちゃん、あたい………山小屋で暮らしたいんだ。」

「どうして?まだ私の事が許せない?」

「違う。あたいには、山で伸び伸び過ごす方が性に合ってるみたいなんだ。屋敷にはたまに帰ってくるよ。」

「お嬢さんは、僕がしっかりと守ります。」

結局、物言いたげな義母を説き伏せ、二人は山へと戻った。
セイシロウにかけられた魔法はそのままに、彼らは幸せな生活を送る。

「ユーリ。子供は何人欲しいですか?」

「き、気が早いな………」

「七人くらいなら大丈夫ですよ。僕が面倒をみますから。」

「ば、馬鹿……あたいがどうかなっちゃうよ。」

「まずは一人目を………」

「あ………ん!もぉ!」

めでたしめでたし