scarlet of darkness~本編~

そんな状況を露ぞ知らぬ黒き男は、とうとう夫婦の儀式を執り行おうとしていた。
夫の名を知り、歓喜の渦にあるユーリ姫は、一糸纏わぬ姿で赤いシーツに横たわる。
闇に属する男、セイシロウもまた、同じくその鍛え上げた白い裸体を蝋燭の灯りで浮かび上がらせ、高揚する心を押し殺していた。

「怖くはないか?」

姫はゴクリと喉を鳴らす。
前もってそれらの方法を聞きかじっていたが、一度仮死状態になるということは、ほぼ死の淵を踏んでしまうという意味だ。
恐怖を感じないはずはなかった。

「…………ちょっと怖い。でも……大丈夫。」

震えながらも首筋の赤い痕跡を差し出す健気な姫を、セイシロウは優しく見つめる。
美しく、そしてまだ幼い、小さな命。
だがこの体に流れる赤い液体は、自分を虜にして止まない。

それだけではなかった。
彼女の何事にも挫けぬ精神と、光輝く高貴な魂は、厭世的だった彼の心を解き放ち、奥深くに潜んでいた生への執着を見事、呼び覚ましてくれた。
まるで本物の人間の如く、激しい感情に揺さぶられる。

彼は今まさに熱き血潮が駆け巡る幸福に酔いしれ、そして永遠の伴侶を手に入れようとしているのだ。
諦めていた希求。
セイシロウは戦慄を覚えるほどの喜悦に包まれながら、愛しい人の熱を帯びた頬をそっと撫でた。

「ユーリ………僕の妻。」

肌と肌を重ね、いつもの痕跡にゆっくりと牙を突き立てれば、ビクンと跳ねるか弱き体。
それを強く押さえ込み、男は欲望に任せ、ズズズッと血を啜り始めた。
脳が溶けていくような陶酔感が広がる。
その甘露は体中を瞬く間に恍惚という名の快楽で満たし、魂を揺り動かした。
喉に流れ込む紅血は、麻薬のように彼を捕らえて離さない。
いつもよりスピードを上げ、より深い快楽に潜り込もうと、ひたすらに飲み進んでゆくと、 血管が、そして細胞の隅々までもが、燃え盛るようなエネルギーを感じ始める。
まるで暑き砂漠の中で見つけたオアシスの水を飲み干そうとするかのように、男はがむしゃらなまでに甘い血を吸い込んだ。

一滴も漏らさまいとするその瞳は、獣じみた光を宿している────
セイシロウは自分でも知り得なかった欲望に抗う事は出来なかった。


姫の鼓動が徐々に小さくなってゆく。
それは天への旅立ちを意味し、もし手を伸ばさないまま放置すれば、その瞼は二度と開かないだろう。
そんな恐怖を一瞬でも想像したセイシロウは、ゾクッと肌を粟立てた。
我慢出来ようはずも無い絶望。
もはや、彼女が存在しない無味乾燥の世界で、独り生きてゆく自信は一欠片すらなかった。

早く、早く────

急く心のままに心臓の上に手を当て、確実に死を迎えたかどうかを調べる。
青ざめた肌。
美しさはそのままだが、鼓動はもう…………聞こえない。

僅かな黄泉路も歩かせてはならないと、セイシロウは急ぎ自身の牙で手首を噛み切り、姫の艶やかな唇に押し当てた。
滴る血は緋色をしている。
彼が恋して止まない桃色をした愛らしいそれがじわじわと変色していく中、静かに呪文を唱え始める。
生から遠ざかった魂を呼び戻し、魔の世界へ引きずり込む為の呪文だ。

ドクン
ドクン

変化は、想像していたよりも早かった。
姫の心臓はゆっくりとした心音を奏で始める。
魂が戻ってきたその反応に、セイシロウはホッと胸を撫で下ろした。

「ユーリ………」

名を呼べば瞼が微かに震え、綺麗な瞳が覗き、 闇の世界を映し出すはずのその目が、男を捉えたまま数度瞬きを繰り返す。

「セイシロウ…………」

赤く濡れた唇をぺろりと舐め上げる妖艶さ。
しかし姫は次の瞬間、顔を強く顰め、眉をつり上げた。

「うげっ!不味い!」

「え?」

開口一番の言葉に男は目を瞠る。

───どういうことだ!?

それは今や魔族に堕ちた者として、あり得ない反応だった。
味覚は何よりも早く変化するというのに。

「ペッペッ!!血ってこんなに不味いのかよぉ………」

涙目で訴えてくるユーリ姫だったが、セイシロウの混乱は続く。

おかしい。
何故だ?
方法と呪文に間違いなど無かったはず。
だが、伴侶となったはずの姫は血を不味いと言ってのけた。
それは我が同胞になっていない証拠。
未だ’人’としての感覚が残っているという、明らかな証明である。

セイシロウは嫌な予感に眩暈を感じた。
そして震える声でこう尋ねる。

「ユーリ………貴女は何者だ?」

「え?」

その時、男は初めて畏怖したのだ。
彼女が人間でないかもしれないという可能性に気付いて………。

「どうゆうこと?」

「貴女は………本当にあの王の娘なのか?」

「なんだよ………それ………」

一度も疑ったことのない出生を問われ、ユーリ姫は俄然、不機嫌になった。
王妃である母も、王である父も、間違いなく自分の両親だ。
兄共々、城で可愛がられ、蝶よ花よと育てられたはずなのだ。
今までずっと、疑った試しはない…………。

さっきまで青白かった肌が再び健康な乳白色へと変化していく。
それは魔族となった者にあってはならない反応。
生気漲るいつもの姫を見て、男は呻くように声を振り絞った。

「まさか………………」

注ぎ込んだはずの穢れた血がみるみる内に浄化され、再び体内で生成されていく。
闇を受け付けないその身体は………決して人間などではない。

もはや、考えられる可能性はたった一つ。

だがセイシロウはそれを否定したくて仕方なかった。
自分たちが結ばれることのない現実など、想像から消し去りたかった。

「セイシロウ?どうしたんだ?」

無垢な瞳に闇は見えない。
彼女は未だ、自分とは違う世界を見ているはずだ。

「嗚呼………そんな馬鹿な事が………………」

混乱する男はとうとう拳を握り、ベッドを叩きつけた。
男の激情にビクッと身を縮めるユーリ姫。

「ど、どうしたんだよ?なあ?あたい、セイシロウの奥さんになったんだろ?」

しかし、恐る恐る腕に触れたユーリをセイシロウはぴしゃりと撥ね除けた。
黒い双眸には絶望が浮かんでいる。
それは見たこともない闇色だった。

「ユーリ、貴女は………………私の妻にはなれない。」

「………………え?」

「貴女は私と………対局に居る者だ。」

「タイキョク?」

首を傾げる姫に、男は唇を噛み締め、唸った。
血が噴き出さんばかりに強く噛み締めながら。

彼が我が身をこれほどまでに呪ったことは、過去一度もないだろう。

「貴女は………神族の血を受け継いでいる………どのような経緯でそうなったのかは私にも分からない。」

解ることはただ一つ。
魔物の血は浄化され続ける為、混じり合う可能性は皆無だということ。

「神族………ってナニ?」

理解力の欠けた少女に、男は説明する気にもなれなかった。
落胆と失望。
その二つが彼をとことん打ちのめしていたから。

「僕と貴女が………結ばれる日は永遠に来ないということですよ。」

捨て鉢な台詞は、自身を切り裂く刃物のようだった。

「な、なんでぇ?」

常軌を逸した事態にユーリ姫はとうとう涙を零し始める。
セイシロウの声から伝わってくる明らかな拒絶は、さらに心を苛んでいく。

「わかんない!わかんないよ!!あたいは何なんだ?父ちゃんと母ちゃんの子じゃないってこと?」

泣き喚く姫を宥めたくても、二本の腕は動こうとしない。
男はもう、その穢れた手で彼女に触れることすら、恐れを感じていた。

「ユーリ………貴女は所詮、手の届かない存在だったんですね。」

「やだ!やだ!!なんでそんなこと言うんだ!馬鹿!」

痛々しく流れる涙は赤いシーツを染めていく。
姫が手を伸ばしてもセイシロウは身を引き、決して彼女に触れさせようとはしなかった。

「セイシロウ………」

ガーネットが鈍く光る指。
二人は永遠に生きていくと誓い合ったはずなのに。

「あたいが………………たとえあたいがその神族だったとしても、おまえと一緒にいちゃダメなの?」

「………駄目です。それこそ神罰が下る。ああ、それでも良いのか………貴女と生きる望みが絶たれた今、もはやこの世界に未練は無い。」

「神罰って………なんだよぉ………」

おんおんと泣き始める愛しき女を、セイシロウは抱き締めることも出来ず、立ち上がる。

「人間でさえあれば………!」

静かな咆哮が重い空気と交じり合い、その絶望感に思わず身を震わせた姫だったが、男はまるで魔法のようにその場から消え去った。

「セイシロウ!!!」

無残な叫びだけが岩肌に反射する。

ユーリには信じられなかった。
これは手酷い裏切りだった。
誓いを、覚悟を、そして未来を奪われた彼女は瞼が腫れるほど泣き続けた。

胸が痛い。
喉がひりつく。
心は彼を求め、叫喚しているというのに。
引き裂かれたような痛みが全身を襲い、ユーリ姫は頭を垂れた。
残された静けさに 寂寥感だけが漂う。

どうしてこんなにも惹かれてしまうのか。
どうして、セイシロウとの困難な道行きを望んでしまうのか。

理由など、もはやどうでも良かった。
欲しいのはあの男との人生。
闇の住人へと堕ちても、二人で過ごせるのなら、きっとそこは楽園でしかない。

ユーリ姫は涙を拭う。
自分が強く望めば、不可能なことなど何もないはずだ。
根拠のない自信であったが、それは不思議と胸を落ち着かせた。

「逃がすもんか。たとえ神族だったとしても……………セイシロウはもう、あたいの夫なんだから!」

ユーリ姫は赤く染まった唇を手の甲で拭うと、素早く立ち上がり、男が買い与えたドレスを身に着けた。

城に戻ろう。
そして両親から真実を聞きだそう。

揺らぐことのない決意を胸に抱き、岩山から離れる準備を始める彼女の背後に、突如として現れたは一人の男。
闇に溶け込むような出で立ちで、一切の気配を殺していた。

「おや、好都合。ヤツはいないな。」

驚き振り返った瞬間、ユーリ姫の身体は金縛りにあったかのように動けなくなった。
呼吸すらままならない。

「さぁ………姫。城に戻りましょうか。そして甘く爛れた生活を、この私と送るのです。」

男の目が妖しげに光る。
それはいつか見た、セイシロウの目。
吸血族しか持たぬ、魔性の力だった。


 

※続きは今暫くお待ちください