王はその男を目にした時、言い知れぬ悪寒に見舞われた。
王妃は娘が失踪してから床に臥せっている………わけではなく、自らもまた手を尽くしユーリ姫の居所を探していた。
愛娘を取り戻すためなら、多少強引な手を使っても良いと考えている。
それはもちろん王にも言えることで……。
「………姫は、とある魔物に拐われました。」
黒いマントの男はそう呟いた。
「魔物!?一体誰だがや!」
「…………岩山に住む‘吸血一族’の一人です。他の者に比べ、ずば抜けて強い魔力の持ち主だ。姫を拐(かどわ)かす事など他愛ありませんよ。」
王はその話を聞き、気絶しそうになった。
が、何とか踏み留まる。
「わしの娘は………姫はどこの岩山に………!?」
「存じております故、もちろんお教えいたしましょう。しかし……条件がございます。」
「金ならいくらでもやるだがや……!」
「いいえ。」
男はゆっくりと首を振る。
「な、何が望みだが?」
「………姫を、頂きとう存じます。」
「なにぃ!」
黒いマントの男はニヤリと口端を上げ、その鋭い瞳で王を見据えた。
それは魔物がもつ最大の能力。
見る者の心を惑わす、チャームの一種だ。
「私なら姫を一生幸せにして差し上げます。」
「姫………を………幸せ………に?」
「はい。貴方様同様、慈しみ、可愛がり、骨の髄まで愛し、そして共に墓に入るまで。」
王は眩み始める視界の中で、男の声を聞いた。
「ユーリを…………愛すると?」
「はい。」
「わかっただ。そなたに…………任せる………」
「御意。」
恭しく頭を下げ、マントを翻した男は、颯爽と王の部屋から立ち去っていった。
言うまでもないだろう。
彼は吸血一族の一人。
ユーリ姫を連れ去った男のライバルとも言える存在だった。
━━━━極上の血(ご馳走)を一人占めさせてなるものか。全て私のものにしてやる。
勝利を手にしたような笑い声は、長く王宮の廊下に響き渡った。
王が男から岩山の所在を聞き出し、出兵を決めた頃。
黒髪の男はユーリ姫の為に、町へと買い出しに来ていた。
本当なら一緒に連れてきて、ドレスやお菓子を選ばせたかったのだが、さすがに人目につく。
離れた町とはいえ、王の使者が目を光らせていないとも限らない。
こういった不自由が今後続くのかと思えば、やはり彼女を魔族に引き入れることを躊躇ってしまう。
誰よりも外の世界を望む姫なのだから。
「これなんて、よろしいんじゃありません?」
ふと気付けば、自分と同じ黒髪の女がにっこりと微笑んでいる。
手には優しいクリーム色のドレス。
一般的には上等の部類なのだろうが、王族のユーリに着せるにはチープに見えた。
「もう少し大人っぽい………いや、シルクの良いものはありませんか?」
「もちろんございますわ。少々お待ちを。カレン!」
嬉々として店の奥に引っ込んだ女は、男を上客だとにらんだはず。
あれやこれや、買わせようと企んでいるに違いなかった。
この店は洋服だけでなく、アクセサリーも取り扱っているらしい。
店内を物色していると、ひとつの指輪に目が留まった。
「…………なかなか良いガーネットだ。」
純度の高い金の輪に、小さくとも質の良い真っ赤な石が輝いている。
彼女の細い指に似合いそうなそれを、男は手にし、石にそっと口付けた。
「ユーリ………その身体ごと此処に閉じ込めてしまいたい。」
そう呟く声も魔力を孕んでいる。
言葉を吸収したガーネットは、より一層その赤色を濃くした。
「お客様、お目が高いですわ。」
声をかけてきた色気ある女は、先程呼ばれていた‘カレン’らしい。
手には光沢あるシルクのドレス。
落ち着いたワインレッドは大人っぽさの象徴だ。
「そちらの指輪は年季の入ったアンティークですが、元は王族から下賜された物ですの。とある貴族が没落したときに売り払われたらしくて。とても良い品物なんですよ?」
「なら、これも頂こう。そしてその手にあるドレスも。」
「まぁ!ありがとうございます!!ではこちら、買っていただいた御礼に………」
そう言って差し出されたのは、同じシルクで出来たスカーフ。
ユーリ姫の長い首に巻き付けられた所を想像し、男は満足そうに頷いた。
店を出た後、背後で黄色い声が響いたが、振り返ることなく雑踏を進む。
小さな町とはいえ活気があり、多くの子供達がはしゃぎながら駆け抜けていく。
━━━━子供、か。
彼女が同族になれば、無論作ることは可能。
だが、その子の人生がどうなるかまでは保証出来ないのだ。
魔物の世界は弱肉強食。
まるで嵐のような生活を余儀なくされることも多かった。
「ふ………僕も焼きが回ったな。」
大きな荷物を抱え歩く男の影は夕闇に紛れ込み、そしていつしか………消えていった。
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ユーリ姫は貯蔵庫の中から野菜と干し肉を取りだし、簡単なサラダを作っていた。
城の中で蝶よ花よと育った為、当然包丁など使ったこともない彼女だったが、学べば何とかなるもの━━━
今や芋のスープくらいなら10分で作れるようになっていた。
「よし。後はあいつの焼いたパンと、ドライフルーツを並べておしまいっと!」
男が町に出向いたのは一刻ほど前のこと。
基本、人間の食事など必要としない彼だが、独りは寂しいと告げたユーリ姫の為、テーブルに着くよう心掛けていた。
いつも食欲旺盛な姫の美味しそうに食べる姿を、目を細め見つめる。
「パン作りも、ケーキ作りも何でも出来るくせに、もったいないよな~。」
それはある程度魔力に頼ったおかげ。
しかし長くの時を生きる男に不可能の文字は見当たらない。
ありとあらゆる知識に長けており、それはもう城に出入りする学者すら敵わないほど。
男は魔物としてだけでなく、「個」としても優れた才能を持ち合わせていた。
「戻りましたよ。」
すっかり日が落ちた頃。
マントに包まれた男が、大きな荷物を持ち帰宅した。
日中、滅多に外出することのない彼だが、夕暮れ時になると活動的に動き始める。
今日は買い物。
ユーリはたくさんの果物とクッキーに目を輝かせて喜んだ。
「これを。」
「ん?」
それは緋色のドレス。
シルクの上品な光沢が、揺れる蝋燭の炎に照らされ、目を奪う。
「わ・・・・綺麗。でもちょっと大人っぽくない?」
「’子供じゃない’と喚いていたのは誰でしたかな。」
「あ、あたいだけどぉ~~」
手にとって見ると、それはまるで彼女の為にあつらえたかのようなデザイン。
スレンダーな身体には、きっとよく似合うだろう。
「あんがと。」
「実は、まだあるんですよ。」
男は姫の手を取り、跪く。
「え?何?プレゼント?」
貰い慣れているとはいえ、期待は高まる。
ユーリ姫はわくわくしながら、男の次の行動を待った。
掌の上にそっと重ねられた指は細くて白い。
男はポケットの中から輝く小さなリングを取り出し、それをゆっくり左手の薬指に嵌めた。
「わ、指輪………だ。」
少々大きめだったはずのサイズは、魔力によりぴったりとフィットする。
「これは私と姫との絆です。互いの命が尽きるその日まで、消えて無くなることはない。」
「命、尽きるまで?それって………」
「ええ、ユーリ姫…………いやユーリ。僕の伴侶となってください。」
感動がユーリの胸を打った。
強く、大きな波となって。
「やっとかよ!!」
「ようやく覚悟しました。貴女は今夜から私の妻です。千年もの時を共に生きる大切な女性だ。」
「な、なら、早く名前教えろ!」
「私の名は………セイシロウ。」
「セ・イ・シ・ロ・ウ?」
「はい。セイシロウです。」
「セイシロウ………セイシロウ………セイシロウ!!」
胸に飛び込んできたユーリは涙ながらに何度もその名を呼んだ。
「知りたかったんだ!おまえの名前…………セイシロウ!!」
「……ああ、なんて綺麗な発音で呼んでくれるんでしょうね・・・。」
男…………セイシロウは悦びの余り、彼女の身体を力一杯抱き締めた。
「ユーリだけがこの世で私、いや………僕の名を知る唯一の女性です。」
「それって………すごくない?」
「そう、すごいんですよ。何せ…………」
瞬間、心持ち曇ったその表情にユーリ姫は気づけなかった。
「貴女だけが……僕の命を奪うことが出来るんですから。」
「………え?」
「それについては追々教えてあげましょう。まずは買ってきたワインで宴を。そして………」
「そして?」
「僕のものになる儀式を…………」
淫蕩の色が濃く浮かんだ黒い瞳は、ユーリの心をざわつかす。
期待?
怯え?
それとも━━━━
「良いですね?」
「……………うん。」
ドキドキ波打つ胸。重なった唇はあまりにも甘かった。
それは今宵行われる愛の儀式へのアミューズ。
そっと目を合わせた二人は微笑み合う。
指に輝く赤いガーネット。
’神聖な石’と言い伝えられてきたそれは、’真実の愛’を意味する。
セイシロウはその意味を敢えて伏せたまま、彼女に贈った。
誰にも引き離すことが出来ない絆を結ぶために。
魔物にさらわれた姫を、二人の男が追っていた。
一人は吸血族に属する欲深き男。
長年、孤独に、そして残酷に生きてきた輩だった。
もう一人は貧しき隣国の王子、ビドウ。
ユーリ姫の配偶者となるべき存在である。
その類いまれなる容姿は、王妃ユリコ(別名リリィ妃)に気に入られ、是非とも娘婿に………と切望されていた。
水面下では挙式の準備も進められているのだ。
花嫁が攫われるなど、予想だにしていない。
王妃の悲痛な願いを叶えようと、彼はその美貌と巧みな会話で、村々の女達から情報を掻き集めていた。
そして百ある噂話の中に、魔物が住むという岩山を何とか探り当てる。
王妃はその吉報を耳にすると、嬉々として自分の私兵を与え、姫の捜索に彼を送り出した。
必ず娘を連れ戻して欲しい。
見事成し遂げれば、王子の母国を永久に貧困から救うと約束して────