母、ユリコはパーティの最中、娘が突如として消えていた事に気付いてはいた。
しかし、ビドウ王子のご機嫌取りに必死だった為、それを敢えて見逃したのだ。
縁談は国と国の問題でもある。
彼女は「もし婿入りを承諾すれば、貴国への融資は惜しまない」と伝え、王子の快い返事を引き出そうとする。
ビドウ王子の国はぶっちゃけ非常に貧乏であった。
ユーリと結婚することで莫大な金が母国に飛び込むのなら、多少の我慢も王子としての責務かと彼は考え始める。
彼は長男であったが、父はまだまだ健在で、年の離れた弟も存在した。
どうしても後を継がなくてはならないというわけではない。
確かにユーリ姫は僅かな色気すら無いが、よくよく見れば美人だし、それなりに可愛い子は生まれるであろう。
その上、相手もこちらに大した興味はなさそうだ。(多少プライドが傷つけられたがそこは敢えて無視をする)
まだまだ遊びたい盛りの王子は、浮気に目を瞑ってくれる妻ならむしろ喜んで娶りたい、と自分勝手な考えを巡らせた。
マンサーク王にとって愛娘は、目に入れても痛くないほど可愛い。
万が一ビドウ王子と上手くいかなくても、次の候補が見つかるまで何年でも待とうと考えていた。
未だ幼いユーリに男をあてがうことは彼の本意ではなかったのだ。
しかしマンサーク王は基本妻に弱い為、その思いをなかなか言い出せないでいた。
妻は見た目通りの美しさだけではない。
ひとたび怒らせると、大蛇を従えた風格で噛みついてくる。
そうなると離婚騒動に発展しかねないため、マンサーク王も慎重にならざるを得なかった。
王族と言えど、家庭内に事情を色々と抱えているのだ。
実はマンサーク王にはもう一人息子が居るのだが、あまりにも影が薄い為、ユリコ妃はその存在を亡き者として扱っていた。
不憫な息子は30にもなろうとしているのに、これまた縁談の「え」の字すら見当たらない。
ユリコにとって大切な子供は美しいユーリ一人だけ。
息子ホーサークなど産んだ記憶すら抹消したい存在だった。 (←ひどい)
茜色の空が夕闇に侵食され始めた頃・・・男はいつも通り、不意にその姿を現した。
黒いマントは更に深い闇を連れ、彼女を覆い尽くしてしまう。
あの日から二週間が経過している。
ユーリはまるで恋人の腕の中に居るかのように、じっと身を預けていた。
血の香りもすっかりと鼻に馴染み、啜られる行為にもおぞましさを感じない。
行為の後、黒髪の男は熱を孕んだ首筋をゆっくりと舐め上げ、僅かな血痕すら残さないという気遣いを見せる。
ユーリはそんな中、朦朧とした意識で彼に尋ねた。
「・・・・1ヶ月経ったら、お別れ?」
男は静かに顔を起こし、目を瞠る。
「・・・・・・僕と別れたくないんですか?」
「別に!おまえってほんっと薄情だよな。名前も教えてくれないんだもん。こっちは身を削ってやってるのに、さ。」
「言ったでしょう?人間に名前を教える機会は生涯でたった一度きりだと。」
それは出会って二日目の夜に尋ねた質問の答え。
『吸血一族は人間に本名を教えたりはしない』
相手を伴侶として迎え、同じく千年の命を与える時のみ伝える事が出来るのだ、彼は答えた。
一族の男達は「妻」という存在を生涯一人しか持てない。
千年もの悠久を共に歩いて行く・・・・
そんな相手と出会う確率はそうそう高くはないのだ。
たとえ、麻疹の様な恋に落ちたとしても、せいぜい数十年が限界である。
だから一族には既婚者が少ない。
子も持たず、ただその都度、愛と快楽に耽り、少しでも人間らしさを愉しむ。
一族と人間の恋愛はほとんどが何も生み出さずに終わる。
血を奪い、身体を与え合い、そしていつしか別れの悲しさを共有する。
この男もまた、そんな幾つかの経験を繰り返してきた。
後に残される虚しい現実。
利口な男は、だからこそ期間を定めた上で少しばかりの血を分け与えて貰い、後腐れ無く別れる事に決めているのだ。
『永遠の愛を告げる事も出来ないなんて、無意味にもほどがある。』
一族の中でもまだ若い部類に入る彼は、既に達観している。
本気の恋愛など、すればするほど後味が悪い。
共に生きることを求めたとて、誰が千年も生きる化け物になりたいと思うだろう?
男は絶望を感じながらもこうして若き乙女の血を啜り、僅かばかりの疑似恋愛を味わうことで慰めとしていた。
「あたい・・・・いいよ?」
ユーリは小さく呟いた。
まるで男の心理を読み取ったかのように・・・。
「え?」
「あたい・・・おまえと一緒に生きてやってもいいよ?」
「は?」
「だって・・・・おまえの目、すんごく寂しそうなんだもん。」
男は咄嗟に掌で目を覆った。
━━━まさか!?
それは心を表情に出さない男からすれば、到底考えられない事態だった。
彼がユーリを見初めたのは、もう3ヶ月も前の事。
いつものように食事をした後、この国で一番高い位置にある城の尖塔で休んでいた男は、ベランダで焼き菓子片手に口笛を吹く童のような姫を見て思わず笑ってしまう。
「姫らしくない姫」と評判のユーリは確かに噂通りらしい。
まさか上流階級の娘が夜風の中、口笛を吹くだなんて想像もしなかった。
薄闇に溶け込む小鳥の囀(さえず)り。
たとえどれほど暗かろうが、闇に生きる男の目は彼女の姿をしっかりと捉えている。
━━━美しいな。
まだ幼さの残る表情や身体つきは、それこそが手付かずの証。
一点の曇りもない乙女の存在に、男の胸がざわりと波立った。
━━━たしか、今年18になると聞いたが、縁談の噂も聞かないのはこういった理由か。
その後も年頃の女性とは思えぬ行動を次々と見せるユーリ。
そんな飾らない姿を、男は毎晩盗み見るようになっていた。
それは、あどけない子供を見つめる親にも似た気持ちであったのかもしれない。
もしかすると、まだ幼い動物を慈しむような・・そんな保護欲にも似た気持ち。
しかし、遂に縁談が持ち上がったと聞いた時、男は直ぐ様行動を起こした。
彼に迷いはなく、まずはいつものように食事を目的とし、ユーリへと近付く。
だが、彼女の甘やかな血を口にした瞬間、そのあまりの美味しさに男は目が眩んだ。
━━━なるほど。
姫であるユーリは、庶民が手にすることが出来ない贅沢な食事を日々口にしている。
更に活発な性格故、馬に乗り、野を駆け、水辺で泳ぐ。
その血は他の女よりも健康的かつ甘みが濃く、口に含めば恐ろしいほど力が漲ってくる。
最初に出会った日も、本来ならば気絶させるほど啜る予定では無かった。
しかし飲めば飲むほど喉が渇くという初めての事態に、男はとうとう必要量以上に貪ってしまったのだ。
腕の中でくったりとしたユーリを見て、他の仲間には絶対に味合わせたくないという焦りが湧き上がる。
人間に対しこんなにも強い独占欲を抱いた事がなかった男は、再び彼女の首元に噛みつき、媚薬にもなり得る己の唾液を送り込んだ。
こうすることで、一族である他の男達は絶対に手が出せなくなる。
少なくとも自分より弱い男たちは・・・・。
そして彼女もまた自らの血を進んで提供してくるだろう。
それは疑似恋愛を始める為の第一手。
吸血一族の男が使う卑怯な手管だ。
しかし・・・
媚薬にはこんな台詞を引き出せるほどの効果はないはず・・・。
軽く混乱した男はユーリを見つめる。。
意識を朦朧とさせながらも、彼女の美しい瞳は真摯に光っている。
そしてそこに映る自分の顔には困惑の色が浮かんでいた。
「な・・・にを言っているんです?子供のくせに・・・」
無理矢理紡いだ言葉はあまりにも大人げなく、男はすぐに後悔した。
「子供じゃない。18だぞ?縁談だって持ち上がってるんだ!」
’子供扱い’はユーリにとって腑に落ちない。
この国では16で結婚し子供を産む事も、決して珍しい話ではないのだから。
「そりゃ、おまえみたいに長く生きてないけどさ。人間界じゃそこそこ大人なんだぞ?」
「毎回口の端に焼き菓子の欠片を付けている人の台詞ではありませんね。」
そんな嫌味に言葉を詰まらせた悠理はプイと顔を背ける。
「ふん・・・じゃあ、あたいみたいな子供の血、飲みに来んなよ。」
今度は男が言葉に詰まる番だった。
首筋にある鮮やかな二つの傷は、日に日に赤く染まっていく。
それは自分の食料であるという印でもあるのだが、媚薬となる唾液を送り込む事で、赤みは通常の吸血よりも濃くなってしまうのだ。
普段ならここまで執拗に与えることはない。
そんなことをしなくても、女は男を求め、早々に狂い始めるから。
しかしユーリはそんな風にならなかった。
もちろん吸血行為に対して嫌悪感を抱かないのは、ある程度媚薬が効いているからだろうが・・・。
━━━これは生娘故の問題か?
それとも彼女だけ、他の女性には無い特別な事情が秘められているのか?
男の困惑は続いた。
マントに包まれたユーリの身体は細く、しかし健康的な肌色をしている。
自分の青白いものとは違う、太陽の光を思う存分浴びた美しい肌。
━━━やはり美しい。
羨む気持ちは、無い物ねだりなのかもしれない。
吸血一族の能力は人間とは比較にならないほど高く、そしてその頭脳はあまりにも優秀で明晰だ。
指先一つで意識を失わせ、精神を操ることも出来る。
マントに身を包み、身を隠しながら空を飛ぶことだって可能なのだ。
男は自嘲した。
人間を羨むとしたら、その短き人生を一生懸命生き抜こうとする真っ直ぐな姿勢。
惰性で生きる自分たちには味わえない、たった一つの渇望。
男は初めてユーリの言葉を反芻する。
━━━この幼子のような女を自分好みに成長させ、千年の時を生きれば・・・・いったいどれだけ満たされるのだろうか。
しかしそれを口に出すことは当然躊躇われる。
娘はこの国の唯一無二の姫。
もし拐(かどわ)かしでもしたら、吸血一族への憎悪は到底免れる事が出来ないものとなるだろう。
「馬鹿な事を言うんじゃありませんよ・・・」
男は眠り行く少女に、優しい言葉を送った。