Paraphilia(R)

「僕はおまえをこうしたかったんです。」

薄茶色のガラス玉ような瞳は、驚きの中、瞬きもせずにこっちを見ている。
気付けば彼女の服を剥ぎ取り、ほっそりとした体を渾身の力で押さえつけていた。
手に携(たずさ)えた赤い紐と共に━━━。

「やっ!!何すんだよ!」

いくら強さを誇る悠理とて、僕に敵う筈がない。
それ以前に、自分の身に何が起きたかすら分からないのだろう。
手加減された抵抗は、僕にとって嬉しい誤算だ。

その間にも、どんどん腕を一括りにされてゆく悠理は、とうとう涙を浮かべ
懇願した。

「痛いよ!やめろってば!」

「それほど強くは縛っていませんよ。」

練習を重ねましたからね………とは言わず、悠理に掛けられた縄を静かに調べる。
完璧だった。
結び目も、ある一定の張りも。
適度に縄の食い込んだ柔らかな肌も………。

喉が渇く。
こんなにも飢えた自分を、彼女は今、どう見つめているのか。

完成された作品は、見事な花の立ち姿。
脊髄を駆け抜ける充足感に、昂りが一気に増した。

「美し過ぎます………悠理。」

赤い下着は僕からのプレゼント。
初めての夜にそれを身に着けてくれるだけの女性らしさは、ここ二ヶ月の間にようやく育ったものだ。

━━━そう、あれから一年と二ヶ月。
この日をどれほど待ち望んだか。

病院での抱擁は二人をぎくしゃくさせることもなく、いつしか何の後ろめたさも感じさせないほど自然に、友人へと戻っていった。
それでもこの腕に包んだ温もりを忘れられない僕は、彼女をより一層近くで守ろうと心がける。
もちろん、多少の打算も含ませながら・・・。

大学では当然、学部が違った為、四六時中というわけにはいかなかった。
が、悠理の気を引くため、いろんな遊びへと誘う。

あれは確か事件から一ヶ月ほど経った日の夜のこと。
行きつけのダイニングバーで一通り飲み食いした六人。
次の目的地であるカラオケボックスへと向かう途中、その派手な看板を見つけたのは、悠理だった。

「SM倶楽部だって!へんたーい!」

酒のせいか、いつもより大声で指差す彼女を可憐が嗜める。

「こら!止めなさい!」

面白がる悠理はその勢いのまま、僕へと近付いてきた。

「せぇしろちゃんならやりかねないよなぁ?おまえってドSだもーん。ここで働けばぁ?」

「悠理ったら・・・はしたないですわよ。」

今度は野梨子が顔をしかめる。
僕は曖昧に笑いながらも、本性を見透かされたような台詞に口の中を苦くさせた。

「魅録ちゃんはノーマルだろぉ?美童は~…………んーー、おまえはドMだ!」

「ひどいよ!悠理。僕だってノーマルなんだからね!皆に変な誤解与えないでよ。」

嘆く美童を指差して、無邪気に笑い声を張り上げる悠理。
僕はその背後に立ち、腰を少し屈めると、彼女の耳へそっと囁く。

「おまえも間違いなくマゾですよ。今度縛ってあげましょうか?」

悠理にだけ聞こえる声。
目を見開いた彼女が恐る恐るこちらを振り向く。
それは何とも表現しがたい表情で、
僕は面白くなってしまい、思わず彼女に息を吹き掛けた。
ふわり、前髪が揺れる。

「冗談ですよ。年頃の女性が人通りのある往来で話すことですか。慎みを持ちなさい。」

「……な、なんだよ!変なこというな!バカ!」

プイと背けた耳が赤い。
その時、一筋の光明を得た気がしたのは、勘違いだったのか?

それからの僕は━━━━

あまり褒められたことではないかもしれないが、「同じ性癖」………所謂「緊縛」に興味のある人間が集うサークルへと足を運んだ。
芸術と捉えるか、はたまた単なる性的な刺激と捉えるか。
どちらにせよ、それぞれの理由があり、中には夫婦で参加しているメンバーも居た。
安全に、そして相手を興奮させるよう縄で縛ってゆくやり方は、全てこのサークルで学んだ。
僕のパートナーは30前半の独身女性。
まずは衣服の上から、
それが次第に薄い下着へと変わり、
最終的には裸体を晒す。

手際よく、それでいて美しく。
もたついていると興奮が逃げ去ってしまう。
覚えの良い僕はすぐに習得してしまうが、出来上がった作品を見ても不思議と心は平穏だった。
特に性的欲求も起こらず、淡々と作業をこなすだけ。

やはり悠理でなくては意味がないらしい。

あの時の、
あの屈辱的な表情と、赤い縄に拘束された身体。
思い出すだけで達してしまいそうなほど艶かしい緊縛姿。
まさしく美の極致。

時が経てば経つほどそんな風に美化してしまうのも、想いが伴うからだろう。
その頃の僕はすっかり悠理に夢中になっていた。
邪な願望を膨らませながら。



半年が経ち、秋の行楽シーズン。
六人で出掛けた山荘は、我が家の新しい別荘だ。
相変わらずのトラブルメーカー。
悠理はその日、大学に入ってから四度目の拉致に見舞われる。

山の麓で殺人を犯した二人組が、林の中で土を掘り遺体を隠そうとしているところ、ソフトクリームを舐めながら散歩していた悠理が一部始終を目撃してしまう。

直ぐに殺されなかったのはラッキーだった。
相手は銃を突きつけ、縛り上げた悠理を車のトランクに詰め込んだ。
連れていかれた先は廃業となったホテルの一室。
幽霊でも出そうな雰囲気に、彼女はたちどころに慄いてしまう。
最悪なことに、彼らは婦女暴行の常習犯。
殺人はその時が初めてだったらしく、本来なら逃亡すべきところ、悠理の姿を見て欲望が勝ったらしい。

だが、もちろん彼女が黙ってやられるはずがない。
銃を持ち近付いた男の手を蹴飛ばし、あまつさえ急所を狙い、不能直前の状態にさせてしまった。
もう一人が後ろから羽交い締めにして動きを封じようとするが無駄なこと。

靴の踵で思いきり爪先を踏まれ、悠理の後頭部で鼻血が出るほど殴られた男は転倒した直後、容赦ない蹴りで呆気なく意識を失ってしまう。

見事な撃退法。
だが、腕は後ろ手に縛られたままの為、助けを呼ぶ携帯電話も取り出せない。

僕たちが探し当てた時、彼女は廃墟のホテルから出て、近くの展望台へ向かう途中だった。

無事、一人で切り抜けられたと得意げな顔を見せる。
駆け寄った魅録がナイフで縄を切り、僕の目に赤く擦れた痕が飛び込んできた。

胸くその悪さに吐き気が襲う。
その赤い痕跡は、言い知れぬ怒りに油を注いだ。

その後、彼女の話から、犯人が倒れているであろうホテルへと向かった。
魅録は警察に電話をしながら、運転している。
後部座席に悠理と二人並んだ僕は、彼女の手を握りしめていた。
汗が滲むほど強く。
それに抵抗しない悠理は、その時何を考えていたのだろう。

到着した車から僕一人が教えられた部屋へと向かう。
魅録の側に居ろ、と悠理を促したのにはもちろん意味があった。

部屋には気絶した男が一人。
そして急所を押さえながら呻いている男が一人。

まずはその男の顎を蹴り上げる。
目を剥き、口から血を溢れかえらせる’犯罪者’。
そんな姿を見てもまだ、暴力的な自分を抑えられない。
恐怖に顔を引き攣らせ、腰を床に付けたまま後退りする男を、僕は再び蹴り上げた。
鈍い音。
きっと肋骨が折れたのだろう。
靴にふりかかった血飛沫を男のスラックスで拭い、もう一人を振り返る。

呑気に気絶しているのも今の内だ。

残酷に口元を緩ませ近付いていくと、そこに聞き慣れた足音が飛び込んでくる。

「せ、清四郎。」

「ああ、悠理。」

何事もないかのように振る舞ってはみても、床に転がる男の表情が全てを物語っている。
怯えた様子ながらも僕へと向かってくる彼女の手をすかさず掴み、腕に抱き寄せた。
興奮が止まらない。

「あ・・・!」

縛られた痕へ唇を寄せ、そのまま細い二の腕までゆっくり滑らせていくと、悠理はとうとう硬直してしまった。

明らかとなった男の欲望。
彼女が目の当たりにした恐怖は果たしてどちらに対する物だったのだろう。



たとえそんな事があっても、僕はすぐに想いを告げることはしなかった。
否、出来なかったのだ。
失い難い存在である彼女の拒否は、この’菊正宗清四郎’をもってしても恐ろしい。
膨らみ続ける想いを押し殺し、欲望だけを増幅させていく虚しさを、約半年間、拷問のように味わう。
自分の嗜虐性とひたすら向き合う時間は、正直辛かった。
果たして本当に悠理が好きであるのかどうかさえ、曖昧になってくる。

真実は違うのではないか?
ただ生意気な彼女を、嬲り、いたぶりたいだけではないのか?
愛をはき違えてはいやしないか?

堂々巡りの疑問に答えが出たのは、二ヶ月前の新入生歓迎コンパ。
経済学部と文学部、そして国際教養学部の合同で行われた大規模なコンパには、魅録を除く全員が参加していた。
初々しい学生達を前に、皆が異様な盛り上がりを見せる。
僕たちも一年前はこの渦の中に居たのだ・・と思えば感慨深い。

「今年の新入生は可愛い子揃いだよね。」

美童が舌なめずりする勢いで、生まれたての女子大生を物色し始める。
もちろん、僕は興味がない。
しかし、ほろ酔い加減になった彼女達が、徐々に殻を脱ぎ捨てていく様子は、ありありと見て取れた。

「先輩・・・・」

近寄ってきた一人の女は、明らかにM属性。
潤んだ瞳のまま、そろっと膝を擦り合わせてくる。
嫌いなタイプでは無いが、かといって欲しいと思うほどの魅力は見当たらない。

この一年・・・僕は悠理以外、欲しいと思ったことはなかった。
適度に遊んでいた高校時代とは違い、まるで修行僧の様に女を絶っていた。
疚しい気持ちは脳内に留め、聖人君子面しながら、彼女を妄想の中で汚す。
いつか実現させたいこと、全てを思い描いて・・・・・。

「少し酔っちゃいました。送って頂けませんか?」

自分の魅力を最大限に活かしてくるその心意気は悪くない。
たわわに揺れる胸と艶やかな唇。
何よりも懇願する甘い瞳。
これが悠理であったなら、この場で直ぐにでも押し倒しただろう。
到底あり得ないことだが━━━。

「僕は・・・・・・・・」

謝罪と拒絶の言葉を口にしようとした時、背中に思いきり衝撃が走る。
それが悠理の長い足によるものだと気付いた時、僕の頭が混乱した。

「悠理?」

「ば、ばっか野郎!!この女ったらし!!!」

その台詞はそこで誰彼構わず口説いている金髪の男に言ってくれ。
そう思ったが、そんなことよりも、彼女の顔に浮かんだ怒りに胸が湧く。
明らかな嫉妬を漲らせ、鼻息を荒くする悠理。

嗚呼・・・まさか・・・・・!いや、とうとう・・・・

あまりの歓喜で小刻みに震える拳。

「’女たらし’とは不本意な言われようだ。僕にはおまえしか居ないというのに・・・」

「・・・・・・・・・え?」

「気付いていたんでしょう?僕の気持ちを・・・」

喧噪が遠ざかる。
二人だけの世界が広がりを見せ、僕はそっと悠理の手首を掴んだ。
赤い糸がようやく見える。
彼女と僕の間に、切れぬ糸が絡みついている。

もう逃がしません。二度とこの手を離さない。

悠理はこうして僕の手に堕ちた。
それが二ヶ月前の出来事。



「あ・・・・や・・・・・・・・・・!せぇしろ・・・」

白い肌に爪の先だけで刺激を与えていく。
赤い縄と赤い下着。
眩しいほどの魅力が、この華奢な身体には詰まっている。

「悠理・・・綺麗です。」

きっと彼女は自分の姿がどれほど僕を興奮させているか気付いていないのだろう。
先走りを帯びた肉茎がスラックスの中で熱を持っていることも。

だけど、もう少しこの痴態を愉しみたい。

胸の先端をキュッと摘まめば、快感に弱い悠理は唇を噛み締め、じろりと睨んだ。

「僕にこうされる事、少しは期待していたんでしょう?」

あの夜から・・・彼女が意識し始めたのは「男としての僕」。
そう仕向けたのは確かだが、まさかここまで簡単に落ちてくるとは・・・。

「ほ、ほんとに変態だったなんて思わなかった!」

「済みませんね。」

優しく微笑めば、悠理の目が見開く。

「おまえもすぐに分かりますよ。この世界は奥が深い。それに僕たちは・・・・」

形の良い顎を捉え、美しい光を持つ瞳を覗き込みながら、大切な一言を告げる。

「愛し合っているんですから。」

彼女の中に僕を埋めるのはもう少し先で良い。
今はこの恍惚とした悦びに少しでも浸りたい。

歪んだ欲望。
しかし彼女への愛に、何ら汚れたものは見当たらない。

赤く囚われたままの美しい恋人は、これから訪れる不安と期待に、一筋の涙を零した。