あの日の事は私の過ち。
いつもは決して見せない彼の、明らかな隙を狙ったんだけど・・・・まさか奥さまがあんなにも早く到着するとは、ね。
ベージュ系のリップを止めて、買ったまま引き出しに眠っていたオレンジ色のそれを手にし、鏡の中のちょっぴり不幸な女に彩りを与える。
「最後くらい、華やかにいきましょ。」
私は今日、寿退社という名の罰を受ける。
「菱友さ~ん。残念です~!」
相川さん、私も残念よ。
貴女にはもう少し‘秘書’の何たるかを教え込みたかったわ。
「良い男ゲットしての退社、さぞ気分良いでしょ?」
歩美、あんたはこの秘書課で唯一の同期。
男勝りなとこ、すごく好きだったわ。
ほんとは室長みたいな男に組み伏されたいって事も知ってるけど、内緒にしててあげるわね。
「辞めないって言ってたのに……どうしてですかぁ?」
笹原さん。
貴女の二面性はまだ可愛いものよ。
それと、トイレには常に他人の耳があることを知っておいた方がいいわ。
陰口を叩くのなら、給湯室の方がまだマシだってこともね。
「お疲れさまでした。今まで本当によく頑張ってくれましたね。」
あぁ………今日も素敵ですね、室長。
貴方と出会ってすぐに心を奪われたけれど、決して後悔はしていません。
他人の男(モノ)に恋しているって背徳感は、退屈で詰まらなかった私の人生を彩り豊かにしてくれましたから。
エースと呼ばれ、皆から憧れられてるあの人(婚約者)を手に入れてからも、室長への気持ちは変わりませんでした。
本当はもちろん、一線を越えたかったんです。
でも、あの可愛らしい奥さまを心から愛してらっしゃる貴方の、その表情が曇るような事は流石に出来ません。
━━━━あの夜は魔が差したんです。
あまりにも無防備に寝ていらっしゃったから………今なら想い出を作れると思っちゃったんです。
とても素敵なキスでした。
朦朧とした中で奥さまと勘違いされていたからこそ、情熱的なキスを返して下さったんですよね?
一生の宝物とします。
私は婚約者も愛してます。
室長とはまた別の意味で。
一見冷徹で、他人に対してシビアに見える貴方が、初めてその優しさを見せてくださったのは出会って二ヶ月ほど経った梅雨の頃でした。
大切な御使いから帰る途中、急な大雨に降られ濡れ鼠になった私へ、わざわざ隣接するホテルの一室を取り、そこでシャワーを浴びるよう手配してくださいましたよね?
濡れたスーツに代わる服も届けられて………私は自分が大切な社員として扱われていることに感動しました。
目が回るほど多忙な時期でも、奥さまへの愛情を感じられる定期コール。
そういった妻思いなところも憧れでした。
彼との結婚を決めてからも、ずっとお側に居たい、そう思って仕事を続けると言い張ったんですけど、あの日の失態が自らの進退を決めてしまったんですよね。
きっと奥さまのお気持ちを考慮なさってのことでしょう。
貴方から「公私混同はしたくないけれど、秘書課からは外れてもらう。」と言われた時、私は直ぐに辞める覚悟を決めました。
これについても後悔はしていません。
このまま側に居れば、私は………もっと卑怯な女になっていたかもしれないから。
想いを募らせて、形振り構わず貴方に迫り倒し、困らせて、強引に身体を繋げようとしたかもしれない。
だからちょうど良かったんです。
想いを断ち切るわけではないけれど………これ以上、どうしようもない私をお見せすることは無いだろうから………。
「大変………お世話になりました。いつまでもお元気で……。」
「菱友君も………お幸せに。」
少しだけ流した涙を、腕に抱いた花束で隠す。
室長、気付いてますか?
今日、私が着ているスーツは貴方から頂いたものです。
もう二度と袖を通すことはないけれど………
【その日の夜━━━剣菱邸】
「お帰り~!」
「ただいま。」
今日はやたらと疲労感がのし掛かる。
理由はなんとなく解ってはいるが、口には出せない。
「ん?お腹空いてる?食べてきたんじゃないの?」
「あ…………ええ。まあ、軽く。」
「秘書の送別会だったんだろ。」
彼女はあの激しい夜から今日まで、あのような道具を使ってはいない。
やはり抑圧されていた怒りが動機となり、衝動を駆り立てたのだろう。
菱友君に唇を許してしまったこと、確かに僕にも落ち度がある。
あれほど側に居て、彼女の想いを長く見抜けなかったのだから、自分の洞察力にはいささか不安を感じる。
━━━━女性は恐ろしい。
心の中を見せないまま、一体どれだけの感情を秘めているのだろう。
悠理に関してもそうだ。
彼女の場合、隠し事は長くもたない性格だから、僕としてはとても助かっているのだが。
「惜しい、なんて思ってないよな?」
「何がです?」
「あの女のこと。」
「……………秘書としては惜しい人物でしたよ。」
「女として、だよ。」
「有り得ませんな。」
「ほんとに~?実はちゃっかり抱きたかったんじゃないの?」
からかうように見上げてくる悠理が、なぜか無性に癪に障る。
「醜い嫉妬をするな!」
その瞬間、しまった、と後悔したが、吐き出した言葉を引っ込めることは出来ない。
眉を下げ始めた妻の瞳が涙で潤んでゆく。
「っひっく、うう…………」
「なぜ泣くんです!泣きたいのはこっちですよ。僕は、僕という夫は、そんなにもおまえに愛情を示していませんか?いつだって、何よりもおまえを最優先に考えてる!愛して、愛して………心の全てを与えているつもりなのに!!どうしてそんな子供じみた嫉妬が出来るんです!?またあちこち縛り付けて愛情を計りますか?それとも格子戸の中にでも閉じ込めますか?おまえしか見れないように。それで結構!好きなようにしろ!」
堰を切った思いが彼女を傷つけるかも知れないと分かっていても、止められなかった。
悠理はとうとう号泣し、床に崩れ落ちる。
泣き顔なんか見たくない。
どうしてそんなにも泣くんだ………………悠理。
やりきれなさを抱えた僕は膝を折って座り込む。
彼女を見ていたら本気で涙が零れてきた。
幸せなはずなのに。
何故こんな些細な事で、二人は傷ついてしまうんだろう。
どれだけ身体を重ねて話し合っても、小さな瘡蓋が疼き出すのは互いの繋がりが脆いということなのか?
「悠理…………泣くな。怒鳴って悪かった。」
「うっ………うっ………ひっく、ひっく………」
「………泣くのなら、せめて僕の胸で泣いてくれ。」
強引に抱き寄せれば、彼女は真っ赤な目で見上げてくる。
兎よりも赤く、血を滲ませたような鮮烈さで。
「ごめん。せぇしろ………ごめん!愛されてるって、あたい………知ってるのに…………でも、あんな女がずっと今まで側に……いたって………怖くて………すごく怖くて…………他にも居たらどうしよう、って思って………ごめん、心狭いよね?………でも、嫌いになんないで?あたいは………あたいは………おまえのことが世界で一番好きなだけ…………」
脳内は一瞬で白く塗り潰される。
気付けば彼女を絨毯に押し倒し、激しいキスを顔の至るところに落としていた。
堪らない!
堪らなく可愛い女だ。
引き千切るようにパジャマを脱がせ、唾液で濡らした指を下着の隙間から突っ込む。
「悠理!入れるぞ?」
何度かかき混ぜただけの荒々しい愛撫に、しかし彼女の体は直ぐに解れ始めた。
「あ………せぇしろぉ!」
ファスナーを下ろし、猛り狂った欲望を乱暴に突き入れ奥にまでぶつける。
息を止め真っ直ぐに見上げてくる悠理が、たとえ痛みを感じていたとしても、止めるつもりはない。
「不安など………恐れなど………忘れさせてやりますよ!」
僕は彼女の震える身体を小さく折り畳み、腕の中に閉じ込めた。
そして、そのまま息も吐かせぬほどの激しい律動を加え、涙を塞き止める。
「う、ぁ、ぁ…………ぁん、ぁ!も、壊れちゃう……」
「心配するな。壊れても、ずっと愛してやる!」
むしろ壊れてしまえ、と願う。
僕の言葉だけを信じ、
僕だけを見つめ、
僕の猛り狂った愛情を飲み干し続ければ良い。
余所事など考えるな。
僕だって、おまえのことが好きなだけの、ただの男なんだから…………。
何度でも繰り返そう。
二人が寄り添って生きていくために、このボディトークは欠かせない。
愛を確かめ合うセックスは、決してスポーツなんかじゃないんだ。
それは互いの本音を引き出す、何よりのコミュニケーション。
腕の中で、涙の乾いた妻がようやく太陽の笑顔を見せた。