鼻筋の通った、ラテンの香り漂う褐色の美男子───それがラファエルだった。
海に打ち上げられた後の悠理は、身体の至る所に打撲痕があった。
しかし元来、人一倍丈夫な為、傷の治りも早く、ラファエルの連れてきた医者が驚くほど見事な回復を見せる。
記憶を失った悠理にとって、三食きちんと与えてくれる人は神様と同じ。
寝床も立派。
大好きな犬も居る。
それもなつっこいときた。
プールで泳ぐことは身に染みついた習慣なのだろう。
彼は基本、悠理に対し行動の制限を加えることはなかった。
唯一、屋敷の外へ出ようとすると、不満げな表情を見せる。
その意味を悠理は理解できず、それでも彼にそんな顔をさせない為、そのほとんどを敷地内で生活をした。
記憶のない自分にとって、彼が与えてくれる物が全て。
本能的に縋りつくのも仕方のない話である。
ラファエルから気持ちを伝えられ、身体を重ねることに違和感が無かったといえばそうではない。
いくら庇護者とはいえ、ろくに素性を知らぬ男だ。
しかし、ストレートに好意を伝えてくる彼の目が時折、寂しげに細められ、胸に訴えかけてくるような光を宿す為、本来固いはずの悠理のガードは解き放たれてしまったのだ。
優しいキスと愛撫に身体が反応する。
激しく求められることに安心感を覚える。
それは明らかに’誰か‘との記憶。
悠理は霧の向こうに見え隠れする男が気になって仕方なかった。
漠然とした不安が付きまとう中、ラファエルの優しさに甘え、仕事や環境などについて少しずつ尋ね始める。
あまり多くを語ろうとしない彼に、他人には言えない過去があることは薄々気付いていた。
むしろそれをどうでもいいと感じている自分に驚く。
たとえ彼が人殺しであろうとも───意に介さない。
今、目の前にいるラファエルが快適な衣食住を与えてくれるのなら、悠理の瞼は二つとも瞑れた。
恐らく、本来の自分は大した正義感もないのだろう。
自己中心的で利己的。
些細な事も気に留めない、ざっくばらんな性格なのだ。
ラファエルが悠理の向こうに誰かを見ていたとしても、それを気に病むほど繊細じゃない。
かといって寛容ではなく、裏を返せば───彼の気持ちをそれほど欲しがっていたわけではないということだ。
事実、本当に求めていた男は黒髪の婚約者だった。
それが判明した時、悠理の身体に戦慄が走った。
嘘だと思いたかった。
時が巻き戻ればいいと強く思った。
それが駄目なら───
もう一度記憶を無くしてしまいたいとまで。
ラファエルとの関係は───大きな過ちでしかなかったのだから。
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今、自分を上から見つめるは、その過ちの男。
悠理は掠れた声で「…………なんで?」と尋ねた。
現実が受け入れられない。
「気は済んだか?そろそろ俺たちの家に戻ろう。」
長い指が肌に触れる。
この二ヶ月間、何度も何度も可愛がってくれた指だ。
「やだ…………」
小さな声だったが、否定する言葉は確実に彼の耳に届いたはず。
バスタオルを強く握りしめ、悠理はラファエルとの距離を取ろうとした。
しかしその腕は容易く掴まれ、シーツの上に押し広げられる。
バスタオルは呆気ないほど簡単に剥ぎ取られてしまった。
「…………記憶が戻ったわけではなさそうだが?何故、彼の元に居たいんだ?」
肌を隠すことも出来ず、悠理は身を捩る。
しかしラファエルの容赦ない力は、次に細い脚の間を大きく開かせた。
「まさか………セックスが良かった、なんて言わないでくれよ。」
「んなこと…………!」
’無い‘とは言えない。
事実、清四郎との行為は悠理の不安を取り除き、全てを満たしてくれたから。
「なるほど・・・・君は結構ビッチなんだな。この二ヶ月間、とことん仕込んだつもりだったけど………甘かったみたいだ。」
それは蔑みを含む言葉だった。
ラファエルは喉の奥で嘲るように笑う。
その目は過去とは違い、凍てつくような温度を感じさせた。
「ど………どけよ。清四郎がもうすぐ帰ってくる!」
「さあ?どうだろう?」
チラと腕時計を見たラファエルの目が、愉快そうに細められ、悠理は不安に襲われた。
「この街は一見平和そうに見えるけど、一歩裏道に迷い込むと、金目の物を目当てに危ない輩が悪事をしでかす。そう言えば先週も観光客がナイフで殺されてたな。彼はヨーロッパからバカンスに来ていたみたいだが、結局のところ身包みを剥がされ、海に放り込まれたらしい。全くもって油断できない土地だろう?」
さも愉快だとばかりに口角を上げるラファエルは、もう悠理の知っている彼ではない。
何が正しくて、何が間違っているか。
記憶を失っていてもそれだけは正しく判断出来た。
「あいつに………清四郎に何したんだ?」
その答えを聞く前に唇が奪われる。
荒々しいキスにもはや愛情は感じられず、逃れようとしたところ舌が入り込み、口腔内は激しく陵辱された。
「邪魔者は消す───俺はそういう世界で生きてきたんだ。」
一旦離れた口が、またしても悠理を犯し始める。
彼の手は閉じようとする脚の付け根をゆるゆる滑り始め、とうとう血を流すそこへと到達した。
「なるほど。血が出るほど彼に貫かれたか。腹立たしいな。」
鈍い痛みを伴いながら性器は掻き回され、それはまるで憎しみをぶつけるような荒々しい行為だった。
悠理は唇を噛み、耐えようとする。
「はな………せよ!」
「離す?あれだけ懐いていたのにひどいな。前にも宣言したろう?君は俺だけのものだと。邪魔する奴は皆この世から消えて貰う。」
残酷な宣言。
しかし悠理はラファエルを強く睨み付けた。
「清四郎は死なない!!」
咄嗟に放った叫びは、どうやら消えていた記憶の糸口を確実に掴んだようだ。
「あいつが………死ぬもんか!たとえ飛行機が落ちたって、清四郎は絶対に助かるんだ!」
それは心の奥深くに染み込んでいた清四郎の言葉そのもの。
どんな場面でもけっして失うことのない、大切な記憶だった。
─────そうだ。あたいはセスナが堕ちる時、この言葉を思い出してたんだ!
それはまるで花開くように鮮やかな現象だった。
無くしたはずの思い出が次々と甦る。
彼らに教えられた、現実とは思えない冒険話も、高校時代の武勇伝も、幼き頃の出会いも、全て。
────あ、あぁ………あたいは、剣菱悠理だ。有閑倶楽部の一員で、優しい友達や家族に囲まれ、幸せな人生を送ってきた女だった。それに…………
それに清四郎。
あいつはあたいにとってかけがえのない男。
誰も替わりにはなれない、世界一の男だったじゃないか!
なんで忘れてたんだろ。
たかが、セスナから落とされたくらいで。
滞在先の大都市で絡んできた男達は、思った以上に性質が悪かった。
人気の無い路地へと連れ込み、強引に麻薬を売りつけようとしてきた。
もちろん悠理はそれを拒否。
いつも通り、暴力で解決しようとする。
しかしアメリカは銃社会だ。
一人の男がすかさず銃を突きつけ、脅してくる。
撃たれては堪らない、と大人しく言うことを聞いていると、担いでいたリュックから金目の物を奪い取り、その時落ちたパスポートによって二人に身元がばれてしまった。
『おい。もしかして、あのケンビシか?』
『かもしれねぇな。』
『どうする?ボスのところに連れて行くか?』
『たとえ違ったとしても見た目は悪くねぇから、すぐに買い手はつくだろう。闇ルートに流すか。』
『よし、決まりだ。』
何を言っているかよく分からぬまま、悠理は銃で後頭部を殴られ気絶。
次に意識が戻った時、そこはセスナの中だった。
女だと思い、油断していたのだろう。
拘束は緩く、悠理はそれをあっさりと解くことが出来た。
反撃はここから。
殴られた頭はまだ痛んだけれど、それでも逃げる糸口を見逃すはずはない。
二人の男達は軽く居眠りをしていた。
だからこそ、彼女の不意の攻撃には驚き、たじろいだのだ。
一人は慌てて銃を取り出す。
悠理はそれを弾き飛ばし、得意の蹴りで意識を奪った。
もう一人も同じように床に伏せさせると、雇われパイロットに地上へ降りるよう指示を促す。
言葉が通じない為、多少の苦労はしたものの。
徐々に降下を始めるセスナ。
自分でも無茶をしていると解ってはいた。
が、悠理は一刻も早く、地上へ降り立ちたかった。
だが、気絶していたはずの男が強い痛みから目を覚まし、手にしていた銃をぶっ放した事から、思惑は外れ出す。
放たれた二発の銃弾。
それは見事、機体を貫通し、急激な気圧変化から非常アラームが鳴り響いた。
───あ、やべ!
パイロットは咄嗟にシートベルト着用を訴えたが、言葉の解らない悠理は一人慌てふためく。
墜落しては元も子もない。
窓から覗くと、そこはコバルトブルーの美しい海。
高度も随分と下がっていて、水面までおおよそ30mといったところだろう。
かといって、扉をこじ開け、飛び降りたら一瞬でお陀仏だ。
悠理は手元にある男を盾に自身を庇った。
その間も高度はどんどん下がり続ける。
目を覚ました男もさすがに慌て始めた。
パイロットは不時着出来る場所を探している。
小さな機体は下手をすれば木っ端みじん。
その前にどうしても脱出しなくてはならない。
敵との距離を計りつつ、扉付近まで辿り着いた悠理。
パイロットがポイントを定めたろう瞬間、彼女はレバーを回し、扉のハッチを思い切り開けた。
大丈夫だ
絶対おまえは死なないから
飛行機が落ちようが
ビルから落ちようが
絶対 死なない
保証してやるよ
この言葉を信じて・・・・・